愛の結晶
漂っているのか、それともただ酔っているだけなのか。
全てが剥き出しにされようとしている。仮面の下に懸命に隠し通してきたものが、何物かの圧倒的な腕の力によって仮面を剥がれ、日の光の下に晒されようとしている。
何故、この俺をそっとしておいてくれないのだ!
そんな俺の叫びは声にならない。震撼とした夢の宇宙には声は凍てつくばかり。
耳を澄ましてみても、喚く俺をせせら笑うかのように、宇宙線が神経を貫いていく。
なのに肉の身を貫通する不可視の銀糸は、俺の心に通過した痕跡を欠片も残さずに過ぎ去るのみ。
奴らは、通り過ぎたことさえ、気がついていない。
俺の心とは、それほどに呆気ないものなのか。俺の練り上げ固めた仮面は、波打つ光に共鳴することも知らないのだろうか。
形のない宇宙。形はあっても、変幻して止まることを知らない宇宙。昨日、愛惜した形見の品は、今日、氷の刃となって肉を熱く突き、やがて溶けていく。
俺は俺の胸の中を探る。蠕動する腸。鼓動を打つ心臓。響き渡る内臓の喚き声。疾駆することをやめない血潮。 どれも、昔、俺が愛惜したものだ。
そしてそれ以上に愛したものは、あいつの肺腑。抉られた腹。
俺は、そこに横たわるあいつの白い体を心行くまで眺めたものだった。真っ白な平原に赤い川が緩やかな弧を描きつつ、幾筋も流れる。
それはそれは美しい眺めだった。あいつの命がけの愛のしるしだった。
なのに、俺はあいつの愛を受けそこなった。
俺は、あいつの冷たさと熱さの同居する白いトルソをいつまでも愛撫した。涎と精液と血の涙とが迸り、垂れ零れ、流れ滴った。
俺には何故、胸に耳を押し当てても、あいつの鼓動が聞えないのか、まるで理解できなかった。
俺は、ただ、愛の刃を突き立てただけじゃないか。
なのに、あいつは、冷たく横たわる。
あいつの正体は、こんなものだったのか。やっぱりあいつは生きている時と同じ、冷たい女に過ぎなかったのだ。
何処か遠いところから声が聞こえてくる。
誰の呼びかけなのか。それとも気のせい?
風の囁き?
俺は目を凝らして音の形を探ってみた。
けれど、絶対零度の宇宙で音が音であるはずもなく、脳髄が痺れているに過ぎないらしい。
俺は、ワイン倉に入り、マネキン人形を愛玩してみたかっただけだった。磨きぬかれた瑪瑙の肌を持つ可憐な人形だったのだ。
冷凍されれば、きっと愛もが氷の世界で永遠の命を得ると信じたのだ。
一糸纏わぬ姿にし、身体中の毛を丁寧に剃りこみ、体を精魂篭めて洗い上げ、磨き上げた。
愛の結晶を俺は夢見たのだ。
なのに、今は、こんなざまじゃないか。
俺は騙されたのだろうか。
あいつの愛は何処にあったのか。あいつの顔に? あいつの胸に? あいつの腰に? あいつの太ももの間に? あいつの尻に? あいつの肛門に?あいつの背中に? それともあいつの瞳の放つ輝きに?
一体、俺は何処を探せばよかったというのか。
俺が刃を向けたとき、あいつは俺が一度として見たことのない瞳の色を放った。あの時、あいつは何を見ていたのだろう。
俺は床の脂の池に浮かべたあいつの歯と爪とを眺めた。
指先でそれらを動かして、ハートの形を描こうと思った。
乱雑に浮かび漂うだけでは可哀想に思えた。
震撼とした部屋にもっと、リズムが欲しい。音楽が欲しい。鉱物の切っ先がガラスの板を掻き削るキーキーという、脳髄が萎縮するようなセンチメンタルな音が欲しい。
何かで部屋を満たさないと、俺が持たない。
なのにあいつは無言のままだった。
何故、俺の愛に応えないのか。血肉を分けるほどに愛し合ったのじゃなかったのか。俺の愛のトーテムポールでは満足しないと嗤っていたじゃないか。愛は爪の先のヤクほどにも力がないと嘆いていたじゃないか。
だから俺は、愛の形を探そうとしたのだ。お前を腑分けし、血糊の海に浸し、濃厚な香水を蛆虫どもにお裾分けさえすることを厭わずに、物質の根源にまで遡らせてやったのじゃないか。
今、お前が溶けていく。何処までも、これでもかというほどに形を崩していく。
それは、俺が望んでいた真実の形を今こそ与えようというあいつの執念の賜物なのか。
すると、奇跡が起こった。俺とあいつを取り巻く時空が歪み始めたのだ。いつか嗅いだあいつの糞の臭いよりも強烈な、ぶっ飛ぶような愛臭が漂い始めていたのだ。
強烈な匂いだ。あいつの臭いだ。あいつの霊魂の香りだ。魂とは、こんなふうにしてこの世に現れるものなのか。
俺は、ワイン倉の錠を扉の隙間から放り投げ、扉を閉めた。鉄の扉の断固たる響きが心地いい。
もはや、内側から開けるすべはない。
俺はあいつの魂と同衾することに決めたのだ。
今こそ、愛が成就する。愛と魂とが俺の意識を酩酊させ、きっと物質となった意識が愛を叶えさせるに違いない…。
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