紅い雨
その男は闇に向っていた。崖っぷちに立っていた。
俺には彼の後ろ姿しか見ることができない。
ガッチリとした巾の広い肩、太い首。それなのに細身の体に感じられるのは、筋肉が引き締まっているからなのかもしれない。
男の青褪めた頬が僅かに見える。遠い月影を食い入るように眺めているのか。それとも、煌煌と輝く月の光暈を彼の気迫で吹き払おうとしているのか、俺には分からない。
もしかしたら虚無を射竦めているのかもしれない。
その男の背中を赤い影が圧し掛かっていた。篝火(かがりび)のせいだった。日中にへし折られた木の枝が堆く積まれ、夜も更けた今、一気に燃やされているのだろう。
何かの祭りなのだろうか。それとも得体の知れない儀式に立ち会ってしまったのかもしれない。激しく燃え盛る炎が少し離れた木の陰にいる俺の顔をも赤く染め上げようとする。散り遅れた桜の花びらが風に舞い、そしてひらひらと漂っては落ちていく。
花びら…。いや、雨だ。紅い雨だ。それとも、紅い雪なのかもしれない。深紅の牡丹雪が舞っているのだ。決して溶けない雪。黒い大地を覆い尽くそうとするかのように激しく降る血飛沫の雨。
男の背中にも幾片かの花びらが纏わりついている。
遠い月は蒼白を極めている。光の暈も冷徹なまでに落ち着き払っている。この地上世界に餓えた獣どもが這い回っていることなど、まるで頓着しない。
宿を抜け出してきた俺は、もう、身動きが取れなくなってしまっていた。一歩でも動けば、男が振り向き、俺を嬲り殺しにするに違いない。俺を邪魔する奴は許せない、と。
息をするのも憚られた。いつか篝火の燃え尽きるのを待つか、それとも月が傾き、山に沈み込むのを待つしかない。
あるいは、紅い雨に奴が祟られてこの世から消え果るのを待つ?
立ち竦みながらも、息を呑む美しさに俺は酔っていた。
澄明な宵闇と、妖艶で凄絶な蒼白き真珠と、そして篝火に照らされ浮かび上がる紅い雨との醸し出す絶妙の時空間。遠い昔、赤い襦袢の肌蹴(はだけ)た女たちの屯(たむろ)する館に迷い込んだ時のことを思い出していた。緞帳と衝立と団扇と帯紐と提灯と、杯盤狼籍の寝屋の奥には白い脚の乱舞。俺は無数の足に挟まれて窒息して果てた。果てる末期の瞬間、俺は三途の河原であの子と戯れ、やがて共に桜の木の枝に首を吊られるのを見た。そうだ、俺はそれだけのために生きたのだった。
あの男は一体、誰なんだ。何に背を向けているのだ。篝火に? この世に? それとも俺に?!
俺は、とうとう我慢がならなくなった。どうしても奴の正体を確かめたくてならなかった。せめて俺のほうへ振り向かせたかった。
あんなにも平然と、そして冷然と背を向けていられる奴に嫉妬していた。俺などは、せいぜい宿を抜け出して、森の杣(そま)道をさ迷い歩くだけなのに、奴は世に超然としている。うろつく必要を毫も感じない。屹立している。
俺は奴を引き倒したくなった。少しはぐらついてみろ、と言いたくなった。俺みたいに地を這い付くばらせてやりたかった。俺と同じ目に遭わせてやりたかった。
紅い雨の降り頻る中、俺は奴に近付いて行った。
ああ、この俺も、何処かで誰かが見つめていてくれたなら、血の雨を行燈の油であるかのように舌なめずりする狂った猫ほどには見えるのだろうか。
奴を押し倒すのだ。地に平伏させるのだ。俺と同じ地平に引き摺り下ろしてやるのだ。その時、きっと、血を啜る猫、それとも血を吸う蛭ほどの快感が得られるに違いない。無上の悦びに欣喜雀躍するに違いないのだ。
ついに俺は奴の背後に立った。それでも奴は、崖の淵に立って、遠くを見続けている。どうして俺の気配を感じないのだ。殺気の切っ先くらいは予感してもよさそうなものではないか。なんて憎たらしい奴だ!
俺は、奴の背中を思いっきり、ど突いてやった。が、手応えは何もなかった。俺の手は奴の体を突き抜けて、闇の中に何処までも埋まっていった。
気がつけば俺は崖下へと舞い散る赤い雨のひと雫となっているのだった。
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