宝の箱を開いてみた
今日の午後、蔵の中にダンボールに詰めたまま仕舞っておいた本を引っ張り出した。先日もダンボールで十箱ほど、今日は15箱ほど出したので、これで(ほぼ)全て蔵から出したことになる。
過日も書いたが、十年あるいは二十年以上、中には三十年以上も昔、仙台や東京の住処からダンボールに詰めて田舎に送りつけたのだった。
一番、古いダンボール(小荷物)は、35年ほど昔のもの。
ダンボールを開くたびに、おお、こんな本を買っていたっけとか、この手の本など、買わないで、借りるか図書館の本で済ませればいいのに、という本が出てくる。
貧乏している今から見ると、随分、本については贅沢している…と感じる。
とはいっても、小生は積読はしない(できない)性分なので、買った本は基本的に読みきるし、逆に言うと、読み通せる数の本しか買わない。
読み進める速さは遅いので、学生時代(や失業時代)はともかく、仕事のある身分の自分としては、年に百冊前後の本を買う(読む)のがせいぜい。
多いのか、少ないのか、分からない。
ダンボールによっては、オートバイ(やゴルフ)の本ばかりが出てくる場合がある。
そういった類の本を片付ける意味もあって、まとめて箱に詰めて送り返したのかもしれないが、一時期、気力が萎えて、オートバイ(ツーリングやロードレース)の本をメインに読んでいたものだった。
たぶん、創作意欲が失われた時期で、小生がサラリーマンになった81年から数年のことだろう。
その前の年に失恋し、ガス中毒事故に見舞われ、哲学や文学への関心が薄れ、その前に気力自体が萎えて、哲学や思想などのスタンダードな本が鬱陶しくて読めなかった。
で、逃げるわけじゃないが、82年の頃から始めたゴルフやオートバイの本(や雑誌)の購入ばかりが目立つようになったのだ。
81年の四月からサラリーマンになり、創作への意欲が薄れ(あるいは目を背け)、会社で流行るゴルフやテニス、スキー、卓球に熱中し、休みの日には、(82年の四月以降は)テニスなどに誘われない限りは、オートバイでのツーリングに毎週のように出かけた。
毎日、通勤にオートバイを使っているのだが、週末もオートバイから離れられなかったのだ。
ロードレースを観戦しに、仙台から鈴鹿までサーキットめぐりのツーリングをしたこともある。
ほんの一時だが、サーキット走行を経験しようと思ったことがある。
これは、仲間(相方)がいないとダメということで断念した。
でも、83年の頃、10万円以上もするロードレース用のツナギを買ったこともある。
それを着用して首都高速の環状線をグルグル走ってみたこともある。
そうしたオートバイ(やゴルフ)熱が冷めたのは、80年代の終わり頃だった。
会社で窓際族になっていて、孤独をかみ締めるようになっていた。
いい会社だし、いい仲間がそろっていたけど、グループや集団行動に馴染めない人間性が徐々に表に出てきた。
友人が出版活動をやっていて、その頑張りと熱意に圧倒されたという面もある。
卑近な事情を言えば、友人たちがワープロを使って仕事しているのを傍目で見て、羨ましいような、格好いい、まぶしい、そんなふうに思えたこともあった。
自分もワープロがほしい!
89年の1月15日(当時は成人の日で休日だった)、秋葉原へワープロを買いに行った。
ブログでも書いたが、ソニーのワープロで、書体がすばらしかった。
インクリボンをわざと一度使ったものを再利用して印刷すると、字が掠れて、一層、書体に味わいが出るのだった。
文字が活字になると、なんだか、自分の書くものが立派に見える。
ワープロに向かって何か創作し(あるいは日記を毎日、書き綴り)、それをプリンターで印刷した紙面の活字や文章を見ると、自分が一端の作家になったような幻想を抱く(実際、抱いた)。
ワープロを買った89年の1月15日からは、毎日、創作し、毎日、日記を書いた。
会社で窓際族になっているので、孤立感から来る精神的な緊張感を創作のバネにしていたような。
その頃、バブルだったせいもあってか、宇宙論が流行り、芸術では抽象表現主義やアール・ブリュットが流行っていた。
ポロックやクレー、デュビュッフェらの絵を前にして、想像力を刺激し、創作に励んだりした。
なので、80年代の後半から90年代の半ばまでは、美術館通いを盛んに行い、創作に励んだのだった。
当然、その頃の本は、文学はもちろんだが、宇宙論と美術関係の書籍がメインになった。
図録もドンドン集まって、二百冊を超えたりした。
美術館(展)に幾たびに、何かしら図録を買うのだから、溜まるのも当然なのだ。
学生時代は、文学や哲学(思想)関係の本がメイン、80年代の初めから途中まではオートバイやゴルフなどの本、80年代の後半から90年代の半ばは、宇宙論と美術関係の本がメインと、その時代によって買う本のジャンルが変化する。
では、90年代の後半からは?
その頃から不況に見舞われ、特に90年代の終わり頃からは、本が買えなくなり、学生時代や失業時代を除けば、仕事が一応はあるのに、本が買えない惨状に陥ったのだった。
ダンボールに本などを詰めて田舎に送る(それらの箱が蔵に納められていた)わけだが、箱に仕舞うのは、本だけじゃない。
日記類、仕事上のメモ類、創作の原稿(下書き)類、手帳、旅行のパンフレット(海外旅行先のコイン)類、マラソン大会などのゼッケンやスケジュール表、サラリーマン時代の事務所の写真、などなどが出てくる。
ダンボール15箱分の本が書斎の書棚に納まるか心配だったが、一部のどうにもつまらない本は、奥の出窓に詰め込み、再度、読み返すに値する本を書斎に置くことにすることで、なんとか片が付いた。
それでも、東京在住時代に買った本の大半(図録も含め)を帰郷の際に処分したので、書斎の書棚に収まったのは、合計で千五百冊ほどかもしれない。
当然、所蔵している本は、十年以上前の本がほとんど。
帰郷してからも、東京在住時代の最後の数年も、ほとんど本を買わなかったから、90年代の終わりから最近までの本はほとんどない。
本は(CDも含め)図書館で、なので、新しい本が自宅には、ほとんどない。
先月、もらった商品券で数冊、本を買ったので、それらが書棚の片隅に目立つだけである。
とにかく、蔵に置きっぱなしになっていた本の箱は、たぶん、全部、出し切ったから、あとは、書棚などの本のうちのどれかを読み返し、あるいは日記類を拾い読みし、創作の原稿類もチェックし、といった楽しみを追々実現していくのみである。
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