月下に孤影
秋というと、ただ一言、月見の秋に尽きる。
四季の区別が曖昧になってきた今日にあって、僅かに残る季節感を覚えさせるものというと、小生が思うに月影ということになる。
秋になっての月がほかの季節と趣が違って感じられるのは、やはり、空気の違いの故だろう。気温もあろうし、天空を過ぎる高さもあろうが、主に湿度の違いと理解していいだろう。
夏の夜だって、梅雨の時期だって、空が晴れていれば、昼間は無理としても、夜には月を拝むことができる。
そう、月は一年を通して、天候にさえ恵まれれば、新月(や、その近辺)でなければ、夜空で照っている。別に照れているわけじゃないのだろうが、とにかく照っている。
最後の、照っているは間違いかもしれない。
太陽や月が地球の周り、あるいは我々の周りを巡っているわけじゃなく、太陽の周りを地球が周り、さらにその地球の周りを月が回っている。その月に太陽の放射光のほんの一部が当たっている。もち、地球にも当たっているのだが。
ついでに言うと、地球の光が、月に当たる、「地球照」なんていう現象もある。
つまりは、月は光っているわけではなく、反射しているのだ。だから、照っているというのも、ちょっと表現としてはおかしい。照り返しているに他ならないのだし。
が、やはり、慣行的な表現なのだとしても、照っていると言いたいのである。月が照っている間は、太陽のことは忘れたいのである。
月の光具合で、ああ、太陽があの角度・位置にあるのだろうな、なんて野暮なことは思いたくない。我が侭勝手と言われようが、月を眺めあげている間だけは、せめて、天動説を採りたいのだ。地動説なんて、野暮の極みなのだ。
いや、天動説どころか、月が我が天空を移動していると思いたいのである。月が、小生が歩く先を何処までも追い駆けてくれる、誰にも相手にされない、しがない中年になろうとも、お月さんだけは、天にある限りは、照っていて、小生に影を与えてくれる。この存在感のまるでない存在である小生も、ちゃんとこの世に生きてあるのである、そう、だって足元をを見て御覧よ。ちゃんと、影があるだろう…。
ああ、昔、先哲は、この人を見よ、などとのたまわれた。小生なら、言うだろう、この影を見よ、と。
人影。月影。影。影があるから人生があるのだ。月影があり、真夜中過ぎの場末の公園の脇に車を止めて、夜空に月を探す。そう、真っ先に月影を追い求める。空が晴れ渡っている限りは、我が身にも影が長く、あるいは短く、延びている。
月の光が一番、冴え冴えとしてくるのは、春宵花影と言うところの朧なる春でなければ、梅雨の時期でもなく、夏の湿気の多い頃合いでもない。やはり、湿気が薄まってくる、秋以降ということになるのだ。
夜の星も、秋が深まっていくに連れ、凄みを増してくる。星に就いて、我々は古代の人々よりも知識を豊富に持っていると思っていいのだろう。
夜の底深くを徘徊してみると分かるのだが、真夜中過ぎの、深深とした刻限に、冷気を体に感じながら、夜空に輝く星を見上げていると、魂が震撼する瞬間というものを覚えるのだ。
星については、現代においても、あれは照り返しなどではなく、自らが光を放っているという理解がされている。 逆に、昔の人は、星は瞬いているとか、煌いているとか、さまざまに表現されてきたとして、星が自らの力で輝きを放っていると理解されていたのだろうか。もしかしたら謎のままに、その光芒を畏怖しつつ眺めていたのではなかろうか。
秋の星の光は、誰もいない街灯も少ないような場所に立って、星と二人だけで相対峙すると、まさに魂の底の底にまで光の矢が突き刺さってくるようである。誤魔化しが効かないような気がする。天蓋が我々の空にあって、天を覆ってくれているのだけれど、その天幕が破れてしまって、天蓋の彼方から、星の輝きと呼ばれる得体の知れないものが我が身を、我が魂を或る日突然、射抜いてしまう。
さて、月はというと、月をジッと眺めあげていると、誰しも、月の面に淡い文様を見出す。煌々と照る月、未だに自ら光るとしか直感的には思えない月、その月は、その表面の文様を見分けることを許すほどには、優しい。
優しいのだけれど、秋の空の満月は、やはり、凄まじい。空にあんな巨大なものが浮かんでいるなんて、信じられなくなる。ポッカリ、浮いて、どうして落ちてこないのか、不思議でならなくなる。
でも、落ちては来ない。夜空の天頂から次第に地平線のほうに落ちていくようだが、その落ちる先というのは、我々がどんなに死力を尽くして落ちていっただろう先へ追い駆けていっても、決して追い着けない。
虹でさえ、時に懸命に追い駆けたら、いつかは、そのブリッジの袂に行き着けるという幻想を抱かせるのに。
追い着けない彼方に落ちたものは、実は落ちたとは言わない。彼方に姿を消したのである。我々の眼差しの限界を超してしまったのである。山々の彼方に消え去ったのである。
月に吠えるという誰かの文言があった。
さすがに小生は吼えたりはしないものの(その衝動に駆られることはある。人影のない場末の公園とはいえ、世間体を気にする小心者の小生、心の中で密やかに、オオーンとやってみるだけである)、魂が掻き毟られるような思いを持て余すことがあるのは確かである。
夜の果ての天空の光というのは、我が心を剥き出しにする。
自分にさえ隠しおおしたり、誤魔化し通していたりしていても、天に満ちる光が魂の中にズカズカと侵犯して、魂の部屋の中をも光で溢れさせ、影などの余地を奪い去ってしまう。丸裸に剥かれてしまう。赤裸の自分、卵に還った自分、原初の心、そんな何物かの不即不離の境が生じる。
剥き出しの魂、赤裸の心。
…だからこそ、足元の影が愛おしいのだろう。
その影も、真冬になると、天頂に座した月はこの身に恵んでくれなくなるのだ。
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