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2010/10/04

ゾラから我が旧著へと

 昨日からゾラの『テレーズ・ラカン』を読んでいる。
 ゾラ・セレクション(全11巻)の第1巻で、ゾラの初期短編集の中の一篇。
 図書館の新入荷本のコーナーにあったので、後期の長編は幾つかは近年も読んだので、初期はどんなものかと好奇心で借りてみた。

9784894344013

→ エミール・ゾラ著『初期名作集――テレーズ・ラカン、引き立て役 ほか』(ゾラ・セレクション 第1巻 (宮下 志朗編訳=解説 全11巻・別巻一) 藤原書店)

 本篇は、長篇というほどではなく、まあ中篇ほどの作品。
 
 ゾラの小説世界は、表現手法にしても、もう古くて古典の域をさえ過ぎている扱いかもしれない。
 が、実に読み応えがある。
 骨太な表現は、読んでいて安定感があり、安心して身を任せてその世界に浸っていける。

 後期のルーゴン・マッカール叢書群はいざしらず、少なくともこの作品の力強い筆致は一読の値打ちがあろうというもの。
 …といいつつ、まだ半ばほどまでしか読んでいないが、恐らくは(内容的な、という意味じゃなく)破綻なく最後まで読ませてくれるものと期待している。

 ここまで書いてきて、自分の中では(上掲の作品を読むまでは)やや倦んでしまっている作家なのに敢えて借りたのは、どうやら、過日まで読んでいたジョナ・レーラー著『プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たち』(鈴木 晶【訳】 白揚社)での叙述に影響されてのことだと気づいた。
 印象の中にゾラのことが(も)残っていた、そんな余韻の中で新入荷本のコーナーでゾラの本を見て、自然と手が伸びてしまったのだろう。
 
 ただし、脳科学の立場から文学を読み解くという趣向のジョナ・レーラー著の『プルーストの記憶、セザンヌの眼』で、ゾラが褒められているわけじゃない。
 やはり、どちらかというと、19世紀の自然科学万能の世情が背景にあって、文学においても、社会を写実的に描ききる、科学的小説を実現するという営為に古びた試みという理解を抱いている。
 それ以上に、『プルーストの記憶、セザンヌの眼』の中の、「ポール・セザンヌ ――視覚のプロセス」という章では、セザンヌの革命的な表現手法をまるで理解できなかった守旧派として、セザンヌを持ち上げるための守り立て役以下の扱いになっている。
 そう、一度は印象派を擁護したゾラだったが、その彼も急激に変貌を遂げる印象派の世界に最早、ついていけなくなっていたのだ…。

 まあ、これはレーラーの理解だが、それでも、図書館でゾラの本を手にし、パラパラ捲ってみたら、読める、読むに値するという直感が働いた。
 そして、小生の直感は当たっていたと思う。
 初期のゾラがどんな文学的立場だったのか、後年ほどに自然科学偏重、写実的描写至上主義ではなかったのかどうかは、小生は知らない。
 いずれにしても、優れた作家というのは、立場が仮にゴリゴリな守旧派であってさえも、いざ創作に打ち込むと、主義や立場を超えて熱が高まり表現や叙述において筆が勝手に則を越えてしまうものなのだ。

 それと、ゾラが好きなのは、彼の作品には(『制作』を筆頭に)画家(になりきれない人物)が頻繁に登場すること。
 小生も、『スパニッシュ・モス』(未公表)などにおいて、画家(紛い)を登場させたり、そうでなくとも、絵画に着想を得ての小説が多いのだ。


Kusanoha

← W・ホイットマン著『詩集 草の葉』(富田砕花/訳 レグルス文庫セレクション - 第三文明社)


 ジョナ・レーラー著の『プルーストの記憶、セザンヌの眼』を読んでいて、W・ホイットマン(の『草の葉』)への関心が掻き立てられ、先日、早速、『草の葉』(富田砕花/訳 第三文明社)を借りてきた。
 が、本書は、上掲の本に再認識を強いられたようで、期待に満ちて借りたもので、図書館では内容を全く確かめなかった。
 本日、夕方近く、本書は新書版だし、外出の際に携行するのに相応しいし、でも、その前に念のために中身を確かめておくかと、パラパラ捲ってみて、がっかりしてしまった。
 世の中には本書(というかホイットマンの詩)を称揚する奇特な人もいるのだろうが(実際、ジョナ・レーラーが褒めていた)、小生の感覚にはまるで合わなかった。
 合わない以上に、ほんの幾つかの詩篇をつまみ食い風に読んだだけで、その無邪気な人間賛歌風なところ、生命賛歌臭が、どうにももう、うんざりしてしまった。
 優れた詩人なのかもしれないが、小生には縁遠い詩人の一人にとどまると、確信させられてしまった(ただし、長大な「草の葉」の訳は、各種あるので、翻訳(家)次第では、あるいは小生の感覚にもマッチする可能性は皆無とはしないでおく…)。

 寝室兼書斎にはベッドがあり、その脇に棚に作りつけの書棚がある。
 小生の所蔵の(旧蔵の、というべきか。東京を引き払う際に、この十数年に買い溜めた本の大半は手放してしまっていて、残ったのは、昔、部屋に置ききれずに田舎に小包にして送っておいたものばかり)本を並べてある。
 この十年は新規に本は買えなくて、今、目の前にあるのも十年以上も前に買ったものばかりだが、それでも、ささやかなりとも書斎(書棚…それもスチールのものじゃない!)が持てるというのは嬉しい。
 その書棚を埋めるため、というわけじゃないが、小生の著作も隅っこに目立たないように並べてある。

 その我が著書を久しぶりにパラパラとだが読み返してみた。
 古いものは1994年、次は1996年、新しいものでも1997年の3冊で、どっちにしても、いずれも刊行して13年以上となるわけだ。
 実際に書いたのは、古いもので89年である。
 ということは、(1997年の本を除くと)いずれも89年から92年ころに書いたもの。

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→ 国見弥一著『フェイド・アウト』(文芸社)


 書いて20年の歳月が経っている。
 今の自分が読むと拙さが感じられる(あまりに強引な表現、あまりに文意の通らない表現の多いこと、あまりに多い校正ミス)。
 ネットを始めたころから、(ネットでは長い文章が人には億劫で読んでもらえないこともあるし)、敢えて短編に渡来してきた。
 改行を増やし、かつ、それぞれの文章も短めに、というわけである。
 そんな訓練は、文章の修練の一環で、長いものを書くのが好きな小生に、創作の上で、人に読みやすい文章を書かせる修練の場と機会になってきたと思う。

 しかし、20年前の小説作品を読むと、自分で言うのも気恥ずかしいが、パワーとエネルギーを感じる。
 今の自分には決して書けない世界がそこにあることを感じざるを得ないのだ。
 ちょっと考えさせられる体験となった。

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