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2010/10/06

バイクの旅 列車の旅

 列車の窓外に流れ行く風景をぼんやり眺めるのが好き。
 二十歳のころに小型免許、ついで大型免許・通称ナナハン免許を取得して、数年のブランクはありつつも三十年間、オートバイ(ついでスクーター)のライダーだった。
 なので、旅というと、オートバイを駆るのが習い。

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→ 我が家の庭の花。小生の部屋から見える。

 一般道もだが、高速道路も散々、オートバイを走らせた。
 ライディングしながらも、風景は愛でることができる。
 前方はもちろん、周囲、後方への注意は怠らないが、しかし、折々に目に飛び込んでくる風景は見ていて飽きることがない。

 高速道路だと、関越やら上信越、中央道を使うことが多く、多くは山中だったりして、道路の両側は緩やかな斜面になっている。
 なので、そもそも両側の風景は、仮に見ることができても、愛でるほどに視界が広がるわけじゃない。
 高速道の両側の斜面に挟まれる形で、曲がりくねる道路の彼方に最初は小さく遠方に見える風景が、次第に広がり大きくなり、やがてバイクの両側や上を飛び去っていく。
 空の彼方に、青い空や黒い雲や時には片側が崖になっていたりすると、その開いた方に大きくその土地その土地の町並み、散在する家々を見る。

 森に囲まれた一角に開けた、それほど広くない台地があって、その片隅にコンクリートの小屋があったりする。
 何かの作業小屋なのだろうか。何かの機材が置いてあるのだろうか。
 あるいは、道の斜面のずっと下のほうに、それこそ斜面に張り付くようにして一軒の民家が垣間見えたりする。
 無人の家とも思えない。

 あんな離れた場所にポツンと建つ小さな家。
 どんな人が暮らしてるんだろう。
 老人が一人暮らししているのだろうか。

 そんなことも、ふっと思い浮かんでは、次々と現れてくる風景に呑み込まれおぼれていく。
 
 長くライディングしていると、単調さに苦しさを覚えることがある。
 どんなに興味を惹く光景があっても、どんどん近づいて、いざ間近、あるいはその風景の中に自分が位置するようになると、自分は点になり、風景は両側の視界の闇に没し、渦中にありながら当事者ではありえない、奇妙なもどかしさに苛まれてしまいそうになるのだ。
 しかし、苛まれるわけではない。
 苛まれるぎりぎりのところで、目も心もはるか前方に最初は点として、そして時の流れ、それとも疾駆するバイクの戯れか魔法に掛かったかのように急激に拡大する、そんな切迫する風吹きすさぶ現実に圧倒されていくのである。
 
 高速道路でのオートバイ上での風景は、時と空とが密着して決して切り離せないことの絶えざる確認の営為そのものだ。
 唯一、バイクの特権は、風景の出現の連続を真正面から味わえること。
 大げさに表現すると、時空を切り裂く幻想を味わう営為なのかもしれない。

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← ユリの花? 草むしりの途中、庭先に咲いているのに気づいた。一本だけ、ポツンと。

 一方、列車の車窓を流れ行く風景は、原理的にはバイクと同じはずなのだが、しかしやはり根本的に違う。
 車窓のはるか遠くに、間近な風景の存在感にやがては取って代わるはずの風景の予感が誕生する。
 その風景が列車の進行に伴って、徐々に近づき、あるいは折々峰なす山の斜面に見え隠れしつつ、突然、そうまるで不意打ちのように真横に、いや、座席で顔を車窓に向けるなら、真正面に、さっきまでは赤子だった風景が、すっかり大人びて、その風景の細部をも曝け出してくれる。
 見たかったものを見せてくれるし、見たくなかったものさえも見せ付けてくれるのだ。
 鬱蒼と生い茂る杉の森のあちこちが赤茶けてしまっている。秋の紅葉を予感させるわけじゃなく、杉の手入れが追いつかず、森のあちこちが枯れて、まるで嬰児の顔に無数の痘痕ができてしまったかのようだ。

 風景は遠きにありて眺めるもの、決して間近に楽しむものではない…のだろうか。

 森また森、山また山を縫うように列車は走る。
 あるいは密集した民家、縦横に刻まれた道路、虫を食ったような空き地、平屋の家々の中に溶け込むことのないコンクリート建てのビルが途方に暮れたように立ち尽くしている。
 何処にでもあるような、しかし、何処にもないはずの町が息衝いている。
 その違いが何処にあるのかを確かめる暇もないうちに、どの町も風に流され消え去っていく。

 あの町この町の何処をでも旅し、訪れ、人に会い、暮らしを確かめ、食事を共にし、ひと時を共に過ごしてみたくなる。
 そんな思いさえ、疾走する列車は、あっけなく掻き消してしまう。
 風情のあるような、無情極まるような、掴みきれない思いさえ、列車の締め切られた窓に冷たく跳ね返されてしまう。

 と、不意に森が途切れたかと思うと、開けた風景が始まりだす。
 河原、水の流れ、疎らな林…。
 そう、大河の只中を横切っているのだ。
 思わず窓を開けて、汚れたガラス窓に邪魔されることなく、河を吹き渡る風を頬に一杯に受けてみたくなる。
 でも、全ては窓の向こうにあるだけ。

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→ 父母が灰となった斎場近くの風景。食事する気になれず、お茶をがぶ飲みしていたっけ。

 
 仮に窓が開いたって、風景は流れ行くだけ。
 そんなことは分かりきっているのだが、それでも、広々とした河の光景に身を浸してみたくなるのはどうしようもない。
 自分をその光景の中に点在する一人の旅人にしてみたくなるのだ。
 人生は旅、そんな瞬間を味わってみたくなる。
 しかし、流れるのは時だけ。
 自分はというと、列車に運ばれ、何処とも知れない世界へ呑み込まれていく。

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コメント

「上の花は夏水仙、下の花は鬼百合ですね」というようなコメントを久しぶりに送ったのですが、届かなかったようですね。
水仙も彼岸花も同じ仲間なのですが、夏水仙は見た目は彼岸花の方に近いようですね。

投稿: かぐら川 | 2010/10/10 17:44

かぐら川さん

いつもながら、教えていただき、ありがとうございます。
夏水仙
http://www.hana300.com/natuzu.html
鬼百合
http://www.hana300.com/oniyur.html

今年も咲いてくれました。我が家を訪れる誰も目にすることのない草花、小生だけでも見ておかなくては。
ああ、ネットで来訪される皆さんにも、是非、見てほしい。


コメントが届かなかったというのは、ショックです。
批判する内容のコメントでも、いただいた貴重なメッセージと思い、決して無視はしなかったはずの小生、ましてかぐら川さんのコメントが不明というのは、ありえない!

我が家の庭の花や風景の撮影、父母の死後、控えておりました。
まあ、精進明けと思い、画像(写真)は徐々に載せていきます。

投稿: やいっち | 2010/10/10 21:36

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