久しぶりの巨大書店に眩暈する
今日、覗いた本屋さんは、大きい。
富山に初めて(?)できた紀伊国屋さん。
デパートの移転に伴う改築で、目玉(?)としての書店なのである。
少なくとも本好きな小生には、デパートが移転され改築されようと、ふーん、そうなの、で終わる中、紀伊国屋さんがやってきた、しかも、噂や宣伝によると大型書店だということだし、気にならないわけがない。
でも、足を運ぶのは自制していた。
なんたって、先立つものがないのだ、目の毒になるのが目に見えている。
この数年、ずっとそうだったように、書店は禁断のエリアであって、本を読みたければ図書館で、と自らを制してきたわけである。
東京在住時代も地元の図書館に馴染んでしまって、館内の蔵書の並びも知悉(←大げさ)したものだ。
帰郷しても、引越し荷物も解かないうちに、とりあえず図書館の在り場所を確かめ、数箇所の候補館を頭にインプットしておいた。
図書館で本を物色し、本を借りる。
古書店で本を物色する。
普通の書店で本を物色する。
それぞれに違いがある。
その違いを細かく分析すると、それだけで長い報告になるのが容易に予想される。
← 市街地をうろついていたら、川べりに水鳥たちが日向ぼっこ。カモたちだろうか。
街中の中小の書店には、それなりに足を運んだことがないわけじゃないけど、今日のような大型書店、本格的な書店へは、実に、実に久しぶりなのである。
なんだか、新鮮な感覚というより、本に、あるいは店内の大きさに圧倒される思いがした。
それと、当然ながら、図書館と書店との違いで一番なのは、本が古いか新しいか、である。
図書館だって、本を大切に扱っているのは言うまでもなかろう。
それでも、大概の本は何度となく手にされ、館内で、あるいは持ち出されてそれぞれの人の家などで閲読されてきた。
本には、濃淡はいろいろあっても、手垢や埃が、そして日の目を見てからの歳月が染み込み変色を余儀なくされている。
それはそれで味があるという見方もありえるだろう。
書庫のどんな古い本を手にしても、こんな本をいまどき読み人なんているんだろうかと思うような本でも、誰かしらが手にし、読んだ形跡が残っている。
歯が立たないような高度な内容の本でも、誰かが読んでいる。
こんな内容を理解できるだろうかという、専門性の高い本でも、その関係者には日ごろ馴染んでいる世界の一端に過ぎないのかと思うと、眩暈がするような。
ただ、いずれにしても、図書館は、新入荷本のコーナーもあるし、それなりに新しい本が揃っているのだろうが、それぞれに(よほどの人気ある本でない限り)一冊しか購入しないわけで、新刊本、刊行されたばかりの本を目にするのは、稀である。
新規に購入した本のリストだって、ちゃんとパンフレットになって紹介されているし、ネットでだって検索して物色はできるのだが、しかし、やはり、街中の書店とは違うのだ。
→ 市内の某銀行の壁面に展示してあった絵。
そう、書店には、これでもかというくらいに、新しい本が目白押しである。
新しく入った本が書店の目立つ場所に展示され、買い求められるのを待ち受けている。
買うようにと誘惑している。
今日行った本屋が大きいからでもあるが、哲学に限ってもこんなに新しい本が出ているのかと、ちょっと驚いたものだ。
哲学なんて地味だから、図書館では書架には、えっ、これだけ? と驚くほどに蔵書が貧弱だったりする。
書庫にはたっぷり蔵書があるのだろうが、捜し求める一般の来館者としては、自由に物色できる書架が全てなのである。
書店では、あまりの店内の広さに圧倒される思いだった。
帰郷してからは、こんな巨大な本屋さんに足を向けたことがなかったので、ある意味、慣れなかった面もあって、戸惑ったのだろう。
初めて入る書店だと(図書館でもある程度までは同じだろうが)、何処に何があるか、大体の感覚を掴むのに時間が掛かる。
← 裏庭にひっそりと。夏前は、雑草の勢いに負けて、打ちひしがれたようだったのが、いつの間にか数輪、咲いていた。
この紀伊国屋書店では、本の並びがABC順になっていた。
たとえば、芸術(絵画や美術書)だと、G(芸術)の一画にあったりする。
せっかくなので、店内をほぼ一周、めぐって見た(学習参考書や料理、CD、児童書などのエリアは避けた)。
あれこれ物色しながらだったからか、気がついたら店内に二時間も滞留している。
新刊本が溢れんばかりにあるので、好きなジャンルの本を見て回るだけでも、あっという間に時間が経ってしまう。
当初のつもりでは一時間ほど居て、目当ての本をゲットしたら、すぐに帰って、というつもりでいたのだが。
やはり、久々の大型書店、しかも、借りるのではなく、買うとなると、時間が掛かるのだ。
それに、探して回るのが楽しくもある。
どんな本を買ったかは、機会があれば書くとして、そのうちの一冊だけ、メモしておく。
それは、ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』である。
最近、新訳が出たというので、学生時代、読んで感服した『嘔吐』を久しぶりに新訳で読んでみようと思ったのだ。
旧訳なら所蔵しているし、今も書架に並んでいるのだが。
→ 同じく、裏庭にひっそりと咲いているのを発見。見守る人は誰もいないのに。
しかし、さすがに紀伊国屋書店である。
書架には『嘔吐』が二冊、並んでいる。
まさに、これ見よがしに(?)隣同士、置いてあるのだ。
一冊は、小生が学生時代に(卒業してからも二度ほど)読んだ、サルトル全集の中の一巻である、白井浩司訳『嘔吐』。
長らく絶版だったそれを、全集から独立させて、全面的改訳版として十数年前、刊行されたもの。
もう一冊は、今夏、刊行された鈴木道彦による新訳『嘔吐』(人文書院)である。
さて、小生は一体、どちらを買ったか。
両方、買って、読み比べるのも一興だったのだろうが、どちらか一冊だけ入手した。
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コメント
最近はネットでしか書籍を購入しなくなったので本屋で時間を過すことがなくなりました。なるほど新刊書を手にとって物色する気持ちは楽しいものですが、ネットで試読や試聴まで出来るようになると、十分に訓練されていない本屋の店員にものを尋ねる気もしなくなります。
それでも製本したもしくは製品化された商品自体は送らせて手にとって楽しみたいと思っています。流石にそうでないと味気なさ過ぎます。やはりこうした文芸作品に対しては、制作されてもいないデジタル情報にはあまり金を出す気がおきません。
投稿: pfaelzerwein | 2010/10/15 05:29
pfaelzerwein さん
ネット(ブック)で本が読める。
本を情報を伝えるもの、そのコンテンツをネットで簡単に確かめられ得られるとなると、書店へ足を運ぶ意味は薄れますね。
でも、古い人間の小生は、本はやはり手にとって、と思います。
音楽もですが、本については、ハウツーものはともかく、ダウンロードして読む気にはなれない。
サルトルの『嘔吐』にしても、内容はあまり違わないけど、装丁や頁の読みやすさの度合いは違います。
本はトータルなもの、というのはもう時代遅れなのかな。
やはりでも、いい本は、所有し、読み終えたら書棚に納めたいものです。
そういいながら、ネットで結構、文章を書きまくってますが。
投稿: やいっち | 2010/10/15 21:23