ラッセル『数理哲学入門』を読んだ頃
数日前に書いた、表題と内容が思いっきり懸け離れている(かのような)日記「美人は気配だけでも美人と分かる ? !」にて、この数ヶ月(恐らくは倭が親族で不幸続きだった間)、何故か数学の本を読み漁る熱が続いていると書いている。
数学も数式も苦手なのだが、好きなものは好き。
相手にされなくても美人が好きで、傍に…は無理でも、その雰囲気でも味わいたいようなものか ? !
小生が数学…というより、算数あるいは初歩的な幾何学に惹かれるようになったのは、多分、中学生の頃。
すぐに自分の能力のなさに愕然としたわけだが、でも、好き熱、数学への片想いの念は高校生になっても、いや、理系の勉強はキッパリ諦めて文系の道に迷い込んでしまった大学生になっても続いた。
否、それどころか、今も続いている!
高校生になって、たまたまなのか、B.ラッセル著の『数理哲学入門』を読んで、その解説などを通じて、数学を記号論理学へと収斂させようという試みがあったことに驚いたものだった(信じられない、成功などしてほしくないという思いが強かった記憶があるが)。
せっかくなので(?)、ラッセル著の『数理哲学入門』を読んだ頃の思い出を書いた雑文があるので、ブログに載せておく。
「ラッセル『数理哲学入門』を読んだ頃」(01/4/29)
ラッセル(Bertrand Russell 1872-1970)を初めて読んだのはいつのことだったろう。何かの英語のテキストだったか、国語の本の一文だったか…。
ただ、記憶に鮮明な形で読んだと言えるのは高校2年の夏のことだった。その頃、私は亀井勝一郎の『愛の無常について』や小林秀雄の『無常ということ』、プラトンの『ソクラテスの弁明』(新潮文庫)、世界の名著シリーズの中の『現代の科学Ⅱ』などを読み飛ばし、特に清水書院から出ていた「人と思想」シリーズは、その夏前後に集中的に読んでいたのだった。
その夏休みのとば口にあったのが、まだ休暇には入っていない7月の12日に瀬川書店で購入した『数理哲学入門』だったのである(ラッセル『数理哲学序説』(岩波文庫)を読んだ。けれど、なぜか、河出書房新社『世界の大思想 ラッセル』に収録された『数理哲学入門』だったという曖昧な記憶も)。
何故にラッセルを手に取ったのかは覚えていない。アインシュタイン等と共同で核兵器反対運動に熱心に取り組んでいて、今となっては当時、ラッセル熱がいかに高かったか、想像もできないところがある。いわば、サルトルなどと並んで流行だったのだ。
が、それにしても記号論理学の基礎を築いたラッセルの『数理哲学入門』を手にしたというのは我ながら解せない。記号や論理学など当時にしても、自分には縁遠い世界のはずだったのに。遠い掠れがちの記憶を辿ってみると、どうやら中学時代からの数学熱の延長にあったらしい。自分に数学や物理の才能はないことは疾うに分かってはいたけれど、しかし理科系への未練は断ち切れないものがあった。そして数学、特に幾何学への傾倒は自分の中では非才をも顧みない数学者の世界への憧れに移りつつあったのである。
しかし、同時に数学の啓蒙書を幾冊か読み進んでいくうちに、自分には数学というより、物理というより、その先の数学とは何か物理学とは何か、宇宙とは何かという学の先への問い掛けの性癖が強いことが自覚されてきたらしい。
1学期も終りに近づき、私は長い夏休みを前に、いつものことだけれど、茫洋たる思いを抱く。
というのも親友も恋人もいない、かといって自分ひとりで遊びの世界を探す才覚もない自分には、書物の世界へはまり込んでいくしかないことは分かっていたのである。けれど、人恋しい、心貧しき男に過ぎない私には、その道は心ならずも歩む道だった。
それは魅力に満ちた世界というより、泥沼のような世界、一旦踏み込んだら戻ってくることは出来ない世界、何の能力もない自分が誰の助力もなしに飛び込んでいくにはあまりに果て知れない世界ということは、愚かな自分にも気がつかないわけにはいかなかった。
けれど、しかし、自分の居場所などこの世の何処にもないという、若気の至りとも言うべき思い詰めた情にとり憑かれていた自分には、その道を行くよりなかったのかもしれない。
ラッセルの『数理哲学入門』は私を直ちに虜にした。ペアノからフレーゲへのラッセルの論の運びは、数学的論理の厳しさと厳密さとで頭の芯が痺れるような明晰感を私に与えてくれた。その先、ラッセルは彼の階型理論へと論を進めていくのだが、その明晰・厳密な運びは、それまでに私が読んだどんな本にもない全く異質な世界を垣間見せてくれたのである。
やがて、パスカルやデカルトなどを経て、大学に入り、ヴィトゲンシュタインというとてつもない人物に遭遇して、ラッセルの厳密な論理の穴を思い切り悟ることになるのだけれど、それはまた、別の話である。
後年、自伝熱に取り付かれた時期があって、ピアニストのルビンシュタインの自伝などと併せてラッセルの自伝も読む機会があった。燃えるような知性という形容がぴったり来る本だった。数々の恋をエンジョイしながら、同時に哲学の探求に純粋に突き進む姿は圧倒されるものがあった。
いずれにしてもラッセルは私に哲学の論理の厳しさと面白さを教え、私を哲学の世界へ飛び込ませた哲学上の機縁を与えた人物だったのである。
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コメント
哲学の彷徨なのか
小林秀雄 ラッセル アインシュタイン 、パスカルやデカルトも
私も勉強しました 三木清は好きでした
私にはマルクスなどもあったと思いますが まあ結局は良く解らなかったです。
それとは別に、電気系で飯の種にしておりましたので、数学、物理は関係がありました。
般若心経は結構、数学的な構成だと思います、
誰が為に鐘は鳴るのか
自らが、この世に現れた意味を掴み得るのか、
私は今現在、ひたすらにテニスボールを追っかけてます。
投稿: 健ちゃん | 2010/09/15 19:10
健ちゃんさん
若き日の試行錯誤です。
文学のほうも、高校一年の時の「ジェイン・エア」を端緒に、読み漁り始めたものでした。
相変わらず、般若心経ですね。
小生は、最近、通夜や葬儀続きで、お経を唱える機会が増えてます。
意味が分かっていないのですが。
テニスポールを追われているとか。
小生も何か運動をしたい!
投稿: やいっち | 2010/09/15 21:26