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2010/09/16

網戸も用済みになり

 昨夜来の雨のせいか、日中も曇天で時折雨が降ったりしたこともあり、今日の冨山の最高気温は25度。
 一頃の暑さはウソのような涼しさ…というより寒いくらい。

 あの猛暑が続いたら、夏が過ぎ去ったあとも、秋の到来はあるのか、来ても束の間で、長期予報にあったように、あっという間に秋の終わり、そして冬の到来となるのか、そんな心配もしていた。
 いかにも秋らしい爽やかな陽気には程遠いけれど、とりあえず、夏は終わった、それだけでもありがたいと思うべきなのか。

 季節はどうであれ、人の生活は天候や気温などに応じてドンドン変わっていく。
 真夏だと、朝方の涼しい(少しは暑くはない)時間帯は、窓を開け、少しでも外の風を家の中に呼び込もうとする。
 家の中を風が吹き抜けて、夜のうちに篭った空気を入れ替えようとする。

 家によって様々だろうが、エアコンのある家だと、日中の暑い最中ともなると、窓を締め切り、エアコンをフル稼働させる。

 昼間でも何とか耐えられそうだと(あるいは来客がないなら)、日中だって窓を開けて、外の空気に頼ろうする。
 窓越しに、というより、網戸越しに人影が過(よ)ぎるのを垣間見たりする。

 父母が亡くなった今、我が家の中に人影はない。


 無論、小生が居るから、全くないわけではないが、自分が居間などに居てジッとしていると(つまり自分が観察者となると)、自分の目には人影は皆無なのである。

 当たり前である。
 家の中に自分しか居ないわけだから、そんな(自分だけの)無人の家で、人の気配などしたら、反って怖い。
 亡霊か何かが蠢いている以外に、何が動くはずもないのだ。
 尤も、我が家は築60年近いので、ちょっと風が吹くだけで、あるいは自分が身じろぎするだけで、柱や壁がギシギシ鳴ったりする。

 あるいは、中途半端に整理した棚の中の何かが崩れたりすることもあるのだろう。
 それとも、先日もあったように、納屋の屋根裏に縄で引っ掛けてある何本もの竹竿が、古くて腐ってしまい、吊るすのに耐えかねるようになったのだろう、不意にドサッと落ちて、驚かされる、そんな旧家(というより、単に朽ちかけた家)ならではの、ちょっとしたサプライズもあったりする。

 家の中にいて、外からの雑音が、まるで壁も窓もないかのように聞こえてくるのだ。

 そんな生活の上の細かな音や響きは、家が生きていようと、主がいようと不在だろうと、生じては消えていくのだろう。

 とにもかくも、要は我が家は(住人たる小生が大人しいだけに)無人の如き状態なのである。
 折々、テレビを観、あるいはCDを流して、索漠たる空間をバッハやベートーベンなどの優雅な音で満たそうとするが、逆に家の中の寂しさが際立ったりする。
 森の中で思いっきり叫んで寂しさを紛らわそうとして、反って孤独を噛みしめる羽目に陥るようなものか。

 時折、家の近くの通りを車が駆けていく。
 そのエンジン音が妙に耳に体に響く。

 近所の駐車場への車の出入りがある。
 水溝に渡した鉄板(プレート)が、うまく溝に嵌まっていないのか、車のタイヤが水溝に渡したプレートを踏むたび、ガシャッとか、ガタンッとか、煩い音が鳴り響く。
 安普請ではないが、古くなって建て付けが悪くなった家には、その際の振動や音がもろに響いてくる。

 しかし、それも、たまのこと。

 人影も疎らである。
 近くに公園ができたので、その辺りには人が少々は集まるが、その分、我が家の周辺に人影が少なくなった。
 町を元気にするはずの子供たちも、学校や塾や保育所に行かない場合は、その公園に向かう。
 町の中のあちこちの広場(空き地)で数人で遊ぶ、なんて光景は皆無に近い。

 だからこそ、あるいはそれゆえにこそ、夏の真っ盛り、窓を開け、網戸で風を通す家が多いと、ああ、あの中には人がいて、人の息があって、生活があって、などと思えるわけだし、それが人気のない町(少なくとも小生の近隣)の寂しさを紛らす上で幾許かの慰めになっていたわけである。
 
 しかし、最高気温が25度ともなると、窓を開ける意味は、朝方の空気の入れ替えなどだけで、ほとんどなくなってしまう。
 要するに、窓はほぼ終日、閉じられたままになる。
 開けなくとも家の中が涼しいわけだし、今後は外の空気が一層、冷えていくわけだから、尚のこと、窓を開けるなんて論外となっていく。

 網戸の向こうに人影が見える、見えなくとも、窓が開いていて網戸が使われている限りは、人がいると思える、そんな望みが儚くなっていくわけである。

 家々の窓が締め切りになっていく。
 
 言うまでもないが、我が家だって窓を閉め切るようになるし網戸は使わなくなるのだから、人のことをとやかくは言えない。
 ただ、人のいない空間を家の中でしみじみと感じてしまっているというだけの話だ。
 寂しければ人を呼ぶか、誰かを訪ねるか、何処かへ出歩くかすればそれで済む話に過ぎない。

 家々の窓が締め切られた町の中で、一人にはだだっ広い家の中で一人きりの生活を送るというのは、のんびりもできるが、侘しさの念も募る、ただそのことを感じたまでである。

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コメント

そうですね。季節は確実に変わっていきます。
25年振りに迎える札幌の冬を前に、多少の怖さを感じています。

投稿: td | 2010/09/16 23:07

td さん

久しぶり!

朋あり遠方より来る! の感があって、とても嬉しいです。
なんたって、あの近辺で青春(?)を過ごしていたんだし。


25年ぶりに札幌で冬を越す。
事情があってのことでしょうが、大変でしょうね。

小生は36年ぶりの帰郷でした。
今冬は、暖冬だったらしいけど、積雪は凄かった。
雪の中の配達仕事(しかも未明)は、泣きたくなるくらい大変でした。

郷里の風土に慣れるには、なかなかしんどいものがあるかもしれない。
ご自愛しつつ、頑張ってください。

投稿: やいっち | 2010/09/17 21:27

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