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2010/09/18

林真理子著『南青山物語』の周辺

 ひょんなことで旧稿である「林真理子著『南青山物語』の周辺」(01/10/17)を読み返す機会を得た。
 事情はともかく、何か切っ掛けがないと、9年前に書いた拙稿など再読はしない。
 表題(だけ)を見て、きっと小生がタクシー稼業をしていた頃の一時期、青山を仕事の根城にしていた…だから、遊びの場ではなく、あくまで仕事の領分に留まっていたとしても、それなりに思い出のある地域・青山を巡るエッセイを綴っているものと思った。
 しかし、読み返してみると、まるで違う。

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← 林真理子著『南青山物語』(角川文庫)

 やや、深刻めいた話を書いている。
 せっかくなので、冗長な文章でもあり、全文はともかく、一部だけブログに再掲しておく。
 こんなことも書いたことがあったなー、という感。
 今、同じ主題で書いても全く違う論調になりそう。
 というより、書く意欲…気力が湧かない!

林真理子著『南青山物語』の周辺」(01/10/17)

 人間は違いに意味を見出すものだと思う。大まかな造作(頭があり、眉があり、眼が二つあり、鼻があり、口があり、胸があり、腰があり、足が二本ある等々)は同じなのだから、造作の中のちょっとした違いに、優劣に意味を見出し、価値を想定し、序列をつけてしまう。ほんの僅かのいい男(自称であれ多少であれ)と、いい女がいて、その周辺を多くのその他大勢の男女が巡っている…。

 そのようにしか思えない時期があったりする。
 少なくとも思春期の一時期は、学校での成績とは全く次元の違う心理空間として、濃厚な鬱屈した世界が若い男女を押し包む。そして、その時の、己の己に対する評価、他人の己に対する評価(無言であれ、あからさまな指摘であれ)が、相当程度にその人の人生を、生きる姿勢をも左右してしまう。

 もっと大らかに、造作の共通しているところを大切にしたいのだけれど、<違い>を大事にする、違いに個性を、独自性を読み込んでしまう人間には、それは不可能に近いことなのだろう。宗教も民族も、肉体的外見も、人間として共通したものではなく、ほんの些細な違いに命をも賭けてしまうわけである。

 まして、今は、ビジュアルの時代らしい。対他的に外面的に光るものが、ほとんど全ての時代なのだ。内面など、当の昔に死語になっている。きっと、心も、死語になり、そのうち、本当に心なんてものは死に絶えてしまうのかもしれない。

 自分のスタイルに自信があるなら、ボディを主張するファッションを大切にするわけである。顔や体の何処かに長所があるというのなら、それを隠すのではなく、余すところなく、今、表現しなければ、世間から埋没してしまう時代なのだ。
 女子高生が、街を歩く時、競うようにしてスカートの丈を短くするのも、それが女子高生の間でのファッションの無言の強制として、女子高生というブランド力と相俟ってそうせざるを得ない以上、どこまでも短くして、足を見せるしかないわけだ。

 今、自分の長所を見せなければならない。今、自分の能力を示さなければならない。今、今の自分が一番である必要がある。他人には見えなくても、こんな長所が自分にはあるんだと、自分に言い聞かせていても、世間は全く相手にしない。
 明日のために頑張るのではなく、今、刹那の時に輝かなければ意味がない。明日のために今日を犠牲にするのは徒労。なぜなら、明日の有無など、誰にもできないからだ。

 こうして、ますます、徹底して外見が、他人からの自分の見え方が、何よりも重要視されるわけである。ほんの些細な美点を懸命にアピールするのは、今だ、というわけである。
 林真理子氏のエッセイからとんでもなく脱線してしまったが、ビジュアル至上主義の現代の日本に生きるとは厄介なことよと憂鬱に感じてしまうのだった。

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