扇風機のこと
ようやく、明日、父母の四十九日が明ける。
この夏、我が家やその周辺では扇風機が大活躍である。
猛暑の夏だったから、そんなこと当たり前。
そう言われれば、その通りである。
ただ、若干の我が家(我が一族)なりの事情がある。
というは、我が一族では、今夏、不幸続きだったのである。
我が父母がこの七月、相次いで亡くなった。
ついで、八月冒頭に母の妹の御主人が永眠。
今月になって、父の姉が亡くなった(その外、我が家の近所、というより隣りで二件、不幸が重なっている)。
通夜や葬儀は、所定の会場で行なうが、その前に、病院から戻った遺体は、その方々の自宅へと帰る。
その家の座敷などで一晩を過ごし、翌日、納棺の儀を執り行って通夜の会場へ運ばれていく。
最初の晩(早ければ昼間)、亡くなられた方の家へ、まずは弔問に赴く。
体外の家には、少なくとも座敷にはエアコンなどない。
座敷の縁側の窓などが開放されているが、下手すると熱気が進入しそうで、弔問客の火照った体を(ほんの気休めでも)冷やしてくれるのは、扇風機である。
2台、あるいは3台の扇風機がフル活動である。
猛暑の夏にあっても、エアコンのない家は少なからず、あるのだろう。
しかし、一旦、エアコンの恩恵を覚えたからには、扇風機頼りというのは、実に心許ない。
そうはいっても、扇風機しか頼るものがないとなると、ファンの回る扇風機の風が折々に吹いて来て、背中などをほんの一時、涼しさの気配を覚えさせる、その有り難味を思い知るのである。
ということで、せっかくなので、旧稿だが、扇風機について書いたエッセイがあったので、その一部を再掲させてもらう。
「扇風機のこと」(抜粋)
我が家に扇風機がやってきたのは、昭和三十年代の後半だったろうか。周りが田圃や畑で、集落風に寄り添うように農家が散在していた。目を閉じると、村から町になりたての光景が浮かび上がってくる。夏ともなると、家の方々の戸や窓を開け放つ。泥棒さんだろうが、近所の方だろうが、その気になればいつでも、どの部屋へでも入り込める。
実際、小生が物心付く以前、昭和三十年代に入りたての頃、我が家に泥棒さんが入られて、警察騒ぎになったとか。田舎のこととて、そして当時のこと、泥棒さんがいらっしゃるなど、全くの想定外の事態だったのである。
そんな開けっぴろげの家。風は方々から入るし、何処からでも脱け出ていく。目の前には稲穂の原。その海原を渡って、風が吹き寄せてくる。
はずなのだが、そうはいつもいつも風が来てくれるわけもない。ピタリと風が止むこともある。凪。これが困る。簾もカーテンも、暖簾も洗濯物も微動だにしない。こうなると、団扇だけが頼りである。バタバタ、バタバタという団扇の音。
父は、夜や日曜日など、部屋に居る時は、ステテコ姿になり、上半身は裸。その肩に濡れたタオルなどを懸ける。濡れたタオルが体温で時の経過と共に乾いていく。その間、気化熱で火照った体の熱が奪われていく。少しは涼しくなる、という理屈である。
が、我が家で上半身だろうと、裸になれるのは父の特権であり、母は勿論、姉君たちも、そうはいかない。小生にしても、シャイというか、せいぜい、短パンにランニングシャツ姿が限界である。汗が滲むなら、ひたすらに団扇に依存するしかなかったものだ。
それが、或る日、とうとう我が家に扇風機がやってきた。文明開化の恩恵が我が家にも及んできたというわけである。我が家にテレビが来たのと、扇風機がやってきたのと、一体、どっちが早かったのだろう。さすがに扇風機だったろうか。多分、値段からしても、そうだろうけれど、小生は覚えていない。
部屋に一人だけなら、扇風機は独り占めである。が、居間(茶の間)で家族団欒の時となると、扇風機にしても、首振り機能で、延々と首を振り続けるしかない。さぞかし、首が凝ったことだろう。
扇風機が首を振る。ファンが自分のほうに向いてくる。風が来る。弱い風が次第に強くなり、また弱くなり、過ぎ去って、風がなくなってしまう。誰か他の人のところに吹いている。その風が、暫時の後、また、こちらに近づいて来る。強くなる、そして弱くなる。
そんな繰り返しが、夏の夜、就寝の時まで続くわけである。
床につく時には、扇風機には頼れない。蚊帳など釣って、その中に入る。またまた、団扇をバタバタさせて、束の間のささやかな風を起こし、ひたすらに睡魔の到来を待ち望む。暑く長い夜の日々が一夏、続くのである。
(「扇風機のこと」より抜粋)
参考:「猫と扇風機の思い出」
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