泡沫の夢、そして命
下記は、ある戴いたコメントへの小生のレス(の一部)。
日記代わりに、当該部分を転記しておく:
自分については、どのような埋葬方法がいいか、考えたことがないと言えばウソになりそうですが、考えがまとまっていないのは事実。
自分については、葬儀も望まないって、若い頃は考えていたのですが、父母の葬儀、親戚の通夜や葬儀に参列したり会葬してみて、やや考え方が変わりました。
そう、葬儀は死んだ方を偲ぶという忌みもあるけど、それ以上に親族らが集まる場。
ある程度以上の年代になると、親戚同士でもなかなか集まる機会がない。
葬儀の場であっても、法要の場であっても、みんなが集まるって、大切な機会となりえることを痛感させられたのです。
自分自身については、昔からやや投やりなところがあって、死んだら葬儀も要らない、別に埋葬も期待しない。
何処かの墓地に入りたいという願いもない。
まして自分のための墓なんて無用ってのが正直な気持ち。
敢えて大仰なことを言えば、地球上の何処で死んだって、どこで葬られたって、自分についてはこだわることは何もない。
風葬も土葬も、川に遺骨(遺灰)を流してほしいとも思わない。
宇宙葬という、いかにも現代(未来)風な形も現れてきているが、小生は、一般論として興味は持つが、自分に付いては、そんな形に親近感を抱くこともない。
塵や埃の塊として、肉の身を束の間、帯びているけれど、遅かれ早かれまたもとの塵や埃に帰っていく。
そう、土に還るという感覚もないし、土に還りたいとも思わない。
生命という不可思議な力で固められていた何かの塊が、死んだ瞬間、凝集するパワーが尽き、形を成さんという力も潰え去っていく。
ただ、敢えて自分を掘り下げてみると、少なくとも若い時代のある時期までは、自分の生きる場所、自分の命の形、自分の場は、文章表現された白い紙面の何処か、真っ白に凝縮された無の時空以外にないと思っていたのは事実。
自分というのは、(文章表現という形で)白い紙面にて何かの表現を為さんとする、その企図そのものに他ならないと思っていた…思いたかった。
ネットという場が近年、この世界に現れて、白い紙面ではなく、電子の時空、波の揺れと波紋と重なりと打ち消しあいといった、抽象的な中空の戯れの中の、ほんの一閃こそが自分の煌きの瞬間であればいいのだと感じてきている。
束の間、波の揺らめきが生じ、やがては大洋の潮の流れの、ほんの泡沫(うたかた)として弾けて消え去っていく。
…ただ、だからこそ、生きている間にできるだけのことをと思ったりするし、焦ったりするのも正直な気持ちの吐露である。
たとえ、その営為が悪足掻きに終始しようと。
冒頭で、殊勝なことを書いてしまっているし、それはそれでウソではないのだが、根本のところでは、自分の根性は変わっていないように思うのである。
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