天の川…星への想い
天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ 柿本人麻呂
今日は七夕である。
テレビやラジオでもその関連の話題が折々あった。
重苦しい話題が多い中、一服の清涼剤だろうか。
← 数年前、東京在住時代の或る日、羽田空港からの帰り、某休憩所にて。小さく、でも目には眩く一番星が…。
ミーハーな小生にしても、一昨日、「七夕幻想」なんて拙稿をアップしている。
何年もブログ運営に携わってくると、関連の話題を一度ならず何度も採り上げていたりして、新たな話題を見出すのが難しくなったりする。
天の川に絞っても、「月の山脈と天の川と」にて、「水の源泉、文明の源泉としての天の川幻想物語」的な話を書いているし、「天の川…光害」では、読んで字の如く、都会の光の害で天の川(に限らず星々)が見えづらくなっている、なんとか都会にも星空を取り戻そう、といった話を書いている。
一昨日の「七夕幻想」では、科学(技術)が発達して、天界の不可思議が次々と解かれていって、宇宙が古のようには謎めいて眺め上げられないことをちょっと憂えて(?)みたりしている。
太陽に限らず星が天にある無数の天体の一つに過ぎないことがわかっても、月どころか他の惑星に人類の足跡が刻まれるようになろうと、地を徘徊するだけの小生には、宇宙は依然として驚異の存在であり、遥かに眺めあげる世界であることに変わりはない。
富山でも、ある程度郊外で夜空を眺めても、星の数はそんなに多くはない。
その理由の一つに、今の時期特有の湿気もあろうが、埃(微細な粉塵)が舞っていることもある、なんて書こうとして、この数年、薄々気づかされている悲しい現実こそが最大の原因ではないかと思わされて愕然とする。
要するに老眼である。老眼だから近場はともかく、遠くの景色は比較的視界が良好である。
しかし、それでも、数年前のように、視力が1.2とか1.5なんてことは望めない。
星空に限らず、風景を眺めても、景色の微妙絶妙な細部を見極めることができなくなっていることは否めない。
星空を眺めても、素晴らしい花や光景に出会っても、数年前ほどに心底からの感動を覚えることが稀なのは、私的な事情があって注意力がどうしても散漫になりがちってこともあるが、本当のことを曝け出すと、肉眼(肉体)の衰えが感性の鈍さにも繋がっていて、美を美として感じきることができないのだということを認めないわけにはいかない。
悲しい告白である。
経験が、少なからぬ体験が感性を、想像力を少しは豊かにしてくれていると思いたいのだが、それ以上に肉体の老化が感性の地盤沈下を早めているように薄々(しかし確実に!)感じられて、時折、焦りにも似た感覚を覚えることがある。
焦ってみても仕方ない。なるようにしかならない。
それに、美を、真を求める気持ちは、希求してやまない思いは、ある意味、一層、募っているようでもある。
身近な人間の老化や逝去を目に耳にすると、生きている今こそが大事と、切実に思われたりするのも、決してウソ偽りの気持ちではないのである。
星、否、むしろ星を眺める心は、科学がどう発達しようと、その切実さに於いては、昔も今も変わらないのではないか。
(10/07/07 作)
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