少年野球大会での屈辱の思い出
ワールドカップの熱戦も、ちょっと中休み。
いよいよベスト8の戦い。
ただ、悲しくも日本にとってのワールドカップは昨夜の激闘で終わった。
いろいろ印象的なシーンはあったけれど、最後に心に刻まれたのは、PK戦。
特に、駒野友一選手がPKを外した瞬間の彼の表情、彼を迎える日本選手たち。フィールドに座り込んで最後のPKを見守るシーン、うなだれピッチを去る駒野の後ろ姿。
テレビは残酷なもので、両チームとも延長でも得点なしに終わったあと、その駒野がPKを外すシーンを最後に映し出す(あるいはそこだけを!)。
要は90分(あるいは120分)で勝ちきれなかったことが全てだったのであり、PKで負けたのは、仕方のないこと、なんて言っても、(少なくとも)駒野選手には慰めにもならないだろう。
スポーツという勝ち負けをキッチリつける世界。
どんなに頑張っても、あるいはその結果を周囲は受け止めてくれ納得してくれていても、当の本人だけは屈辱の念に一生、苛まれることもある。
願わくは、駒野選手(ら)には、今後の活躍で悔しさを力として実らせてもらいたい。
軟弱人間の小生だが、少しはスポーツで頑張ったこともあるし、悔しい思いに胸が張り裂けそうになったことがある。
以下、スポーツに絡む、小生にとって最初の屈辱の思い出をブログに載せておく。
あれは確か私が小学生として送った最後の夏のことだった。
私の父もそうだったというが、私も地元で毎年開催される少年野球大会のピッチャーに選ばれていたのである。何年か後には数歳年下の従弟(いとこ)もやはりエースに選ばれた。
それは私の一族の苗字の頭文字がAであることが大きいように思う。大概の場合、何をするにしても先頭を切ってということになりがちなのだ。
しかも、私についていえば、中学校に入って急激に身長が伸びるまでは身長順に並ぶとクラスの中でも一番低いか二番目か、という事情もあり、成績も悪いのに、質問などが名前でも身長の低さの上でも最初の私に当たる確率が高く、緊張を強いられていたものだった。
そうした事情が気の小さい私には何か責任感めいたプレッシャーとして圧し掛かっていた。
野球大会でも、町内で誰かがピッチャーになるとなれば、自分以外にない、自分が遣るのだという<自覚>があったように思う。
それなら勉強のほうも少しは自覚があってもいいのに、そっちのほうは一向うだつが上がらなかったのが不思議だが。
そういうわけで、小学校の5年か6年生の夏休みに入って私は町内の野球大会の世話役をしていたKさんらの熱心な指導の下、毎日野球の練習に余念がなかった。
私は自分では引っ込み思案の性分だと思っているが、それでも体を動かすことは好きなガキだった。
自分から遊びに誰彼を誘うことはできないが、誘いがあればまず、断ることはなかった。学校から帰ると近所のガキ連中と一緒に、日が暮れるまで缶蹴りやら草野球やら縄跳びやらチャンバラやらを厭きることなくやっていた。
昔は原っぱというのが方々に残っていたのである。
(中略)
少年野球のこと、使うボールは軟式なのだが、それでも小学校の校庭で練習する時、Kさんのノックのボールは早く感じられて、自分は必死の思いで捕球したり送球したりしていた。
ただ、投げる事に関しては、抜群に早くはなかったが、コントロールだけは自信があった。変化球は父に子どもが試みるのは早いと諭されて、カーブくらいは投げたが、ドロップはやらないようにしていた。
厳しい練習は夏休みに入って毎日続いた。
そうしたある日、野球大会にあと一週間余りとなった頃、私は肩に痛みを覚え始めていた。ヤバイと思っていた。
しかし、そのことを誰にも打ち明けることは出来なかった。指導してくれるKさんが怖かったのである。
だったら、他の人にちょっと一言、肩が痛いと打ち明ければいいものを、一人、悶々とするばかりだった。
当時も今も、自分の一番、悩んでいることは、誰にも相談することはできない、胸のうちを明らかにするなんて論外といった極端にシャイな性分なのである。
Kさんというのは、目の細い、真っ黒に日焼けした、まだ二十歳代の前半くらいの痩せぎすの人だった。やや高めのハスキーな声で、気の弱い小生はプライベートなことで話を交わした記憶がない。まして自分のほうから何かを語りかけるなんて思いも寄らなかった。
そのKさんは当時の私には厳しさと怖さばかりが感じられて、近寄り難かったのだが、しかし、後年になり、すこしは客観的に見られるようになると、彼がいかに優しい人間か、そして、いかに自分の時間を犠牲にしてまで地元のガキどものために尽くしてくれているかが分かるようになった。
少なくとも自分には彼のような真似は到底出来ない。
チームとしては結構まとまりがあったと感じていた。
自分のチームだから贔屓目に見ているのかもしれないが、しかし、Kさんを始めみんなの口ぶりに自信のようなものが伝わってきていた。練習にも遊びの感覚はまるでなくて、ピリピリしていたというと語弊があるかもしれないが、緊張の糸は張り詰めているようだった。
練習の合間のお茶や差し入れが楽しみだった。
私は後年、高校一年の中間テストが終わった頃から、春休みを迎える直前までの半年余りだけ、サッカー部員として体育会系の生活を味わったが、それ以前のこの少年野球大会を前にしての練習の日々はガキの自分には、もっと厳しい体育会系の生活だった。
でも、充実していた。
しかし、私の肩はますます痛みを増していった。コントロールだけは自信があり、キャッチャーの兄さんの構えた位置に投げ込むことができた。肩が痛かったが、しかし、無理して投げれば投げられないことはなかった。試合が近づくにつれて、ますます投球は冴えてきた。
チームのみんなも、これなら結構やれるという自信が高まっているようだった。
が、自分だけは分かっていた。自分の肩は限界に近いということを。
けれど、私は誰にも正直に打ち明けることはできなかった、泣きたいほどに肩が痛いとは。
いよいよ大会の当日となった。
その日も快晴に恵まれた。試合が順延になることなどありえないようだった。
私の胸中は不安で一杯だった。周りの人は自分が緊張していつも以上に口数が少ないのだろうと、温かく励ましてくれるのだった。が、その度にますます暗くなっていくのだ。
試合が始まった。不安は的中した。球がまるで走らないのだ。
けれど、コントロールだけは自信があった。そのコントロール通りに投げられた。
しかし、そのコントロールはキャッチャーが構えたコースに投げるというコントロールではなく、キャッチャーの体のど真ん中に投げるというのがやっとというコントロールに過ぎなかった。
もう、投球するには肩が限界を超えていた。
私はていのいいバッティングピッチャーに成り果てていた。球は走らない、コースはど真ん中なら、目を閉じていても打てるくらいのものだ。
私はいよいよ萎縮するばかり。すると尚のこと球は死んだ球になり、打ちごろになってしまう。
試合は散々なものに終わった。いや、今でも試合結果をまるで覚えていない。こちらのチームもそれなりに反撃したが、あまりにも打たれすぎた。サンドバッグ状態だった。
試合が終わって、みんな憤懣を胸に黙々と帰った。ピッチャーがひどすぎた、という声を聞いたような気がする。
すくなくとも私は自分のせいだと痛感していた。
我々は緒戦で敗退したのだ…。試合にならない形で消え去ったのだ…。結構、上に行けるという自信があったのに…。そうした声が耳元で聞こえた。
私は悔しかった。ベストで試合に臨めたなら。それで負けたのなら悔いは残らない。なのに…。ズキズキ痛む肩以上に私の胸中は悶々とするばかりだった。
きっと周りのみんなは、ピッチャーの自分が情けないから負けたんだと思っているだろう。できるなら弁解したかった。
でも弁解できるくらいなら、試合の前に自分の状態を打ち明けられていたはずなのだ。つまり、自分のような人間にはどっちにしても八方塞なのだということは明らかなのだ。
問題は肩が悪いことではなく、当日調子が悪かったというのでもなく、結果として実力を発揮できなかったということでもなく、自分の立場や状態を公に示すことが出来ずに、ただだらしない人間だ、いざという時に役に立たない人間だという屈辱に満ちた評価をを甘んじて受けるしかない、そういう人間だということなのだ…。
私は試合に負けたことより、自分の性分に絶望してしまった。そうした性分が直るとはとても思えなかった。
一言で言えば、自分には勇気がなかった、ということなのかもしれない。
最後まで投げとおしたのだ。ぼろ負けしたとはいえ、責任を全うしたのだ、せめて自分でそう慰めるのがやっとの遠い夏の日の野球大会だった。
(01/04/06 原作)
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