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2010/07/06

七夕幻想

 富山ではもうすぐ「七夕」である。予報では生憎、お星様を眺めるのは難しいかも、とのこと。
 私的な事情があって、「七夕」を巡って、ゆったり優雅に、そして素朴に空想を逞しくする心のゆとりがもてないで居る。

Tanabatanazuna

← by なずな (「七夕のネロ」より)

 せめて、数年前に書いた「七夕幻想」なる小文をブログに載せておく。
 また、いつか、ゆっくりこんなエッセイを綴ってみたいものである。

短冊の願いを読まれ恥を掻き   (や)

七夕幻想

 七夕というのは、五節句の一つである。正月、桃の節句(雛祭り)、端午の節句、重陽の節句、そして七夕である。
 織女星(ベガ)が、天の川の対岸にある牽牛星(アルタイル)に1年に1度、天の川を越えて牽牛星に会いに行くという中国の伝説が日本に伝わってきたものといわれている。万葉集にも数々の歌が収められている。下記のサイトによると、「万葉集には130首を越える七夕の歌があり」「そのほとんどは、男女の恋の物語として詠まれてい」るとのこと:
たのしい万葉集 七夕(たなばた)を詠んだ歌
 
 七夕が日本に古来あった「棚機女(たなばたつめ)と男性の神(~彦)のお話がミックスされて、彦星(ひこぼし)と織姫星(おりひめぼし)とのお話として定着した」ようである。

 七夕という字面からは、誰が読んでも「たなばた」と読むことは予想しがたいだろうが、棚機という文字の読みと合体したという背景があるわけだ。
 しかし、では、棚機という文字から「たなばた」という読みがすぐに連想されるかというと、そうはいかない。

 まあ、機という文字は、「はた」と読めるのだし、村で選ばれた女性が機屋(はたや)に篭って来臨する神のために衣服を織ったという伝説があるのだから、すんなり読んでもよさそうなものだが。

 さて、天の川というのは、実はわれわれの太陽系を含む銀河系の星の集団なのだということは、今日においては知る人も多い。銀河系は渦を巻いており、巨大な円盤状の形状をしていて、太陽系というのは、その中でわりと端っこに位置する、つまり円盤を横から眺める形になるので、星の帯、光の帯のように見えるわけである。

 こんなことが分かったのは、そんなに古い昔のことではない。
 まして一般庶民たるわれわれレベルでそうした認識がそれなりの常識になったのは、二十世紀も後半になってからといっていいのではないか。
 その意味で、大袈裟に言うと世界観、宇宙観がほんの二世代前の人たちと隔絶していると言って過言ではないわけだ。

 宇宙という言葉がいつからあるのか知らないが、はるかな古代の人々の夜の空を眺めての感懐と、われわれの親か祖父の世代の感懐とは、ある意味で連続性があったと言える可能性があるわけだ(勿論、ほんの一握りの知識人は別としてだが)。

 科学がどんどん発達する。
 その発達の速度が20世紀に入って、そして20世紀も後半になって加速度を増している。20世紀より前までに人類が獲得した宇宙や世界についてのあらゆる知識の合計した総量を20世紀の1世紀だけで軽く凌駕していると聞いたことがある。
 この知識の増大の仕方は個人のレベルでは、かりに天才的な頭脳を持っていたとしてさえも、追随することも、まして網羅することなど不可能になっている。

 それでも、祖父の世代とその親の世代とは宇宙観に関して、連続性があり、まだ一般人には科学的知識は普及していなかったこともあり、神話や伝説や俗説や、また、そうした伝統や土壌を背景にした世界観は共通するものがあった、従って、話をするに際しても常識がそれなりに機能していたのだと言えるだろう。

 それが親の世代と祖父の世代となると、その間にDNAだとかビッグバンだとか遺伝子だとか、クローンだとか試験官ベビーなどが挟まって、前提とする常識も教養も断絶が生じてきたわけだ。
 そして、今、科学的な情報の肥大の速度は、ますます尋常ならざるものがあり、下手すると10年どころか数年、あるいは1年の生れの違いが、常識を織り成す土壌の違いとなり、会話をしても、異星人同士の会話になりかねない。

 教養という言葉が死語になりつつある(もう死語になってしまった?)所以である。

 小生が高校時代を過ごした70年前後でも、年次が一年違うと、話が通じなくなると感じたものだった。
 それについては若い人間は一年の成長が、凄まじいからだという説明が可能だけれど、それだけではなく、情報的土壌という意味での座標上の立つ位置自体において断絶が、少なくとも亀裂が拡大しつつあったからだ、とも思われなくもない。

 今は、それどころの騒ぎではない。日々に、そして時々刻々と、情報が蓄積される。
 その人の基礎的な常識が形成されるのは、中学から高校に懸けてだとしたら、その時点で浴びた情報の鮮度の違いや座標の違い、そしてその後の人生への影響は、甚大なものがあるに違いない。少なくとも想像を絶するとは言えそうな気がする。

 ちょっと話が飛躍しすぎた。
 気を取り直して。

 「たなばたさま」の歌を歌えるだろうか。最近、歌ったことがあるだろうか。あるいは短冊に願いを書いただろうか:

      

たなばたさま
             権藤はなよ/林柳波作詞・下総皖一作曲

     ささの葉さらさら
     のきばにゆれる
     お星さまきらきら
     きんぎん砂子(すなご)

     五しきのたんざく
     わたしがかいた
     お星さまきらきら
     空からみてる


 ところで、軒端(のきば)は分かるが、砂子(すなご)というのが小生は(昔は?)分からなかった。どうやら、金色や銀色の砂という意味のようだ。下手すると地名と勘違いしそうだ。
 童謡とか唱歌とか童歌(わらべうた)のいいのは、世代を超えて歌えるからだ、なんて言っていると、そんなの知らねえよ、という声が聞こえてきそうだ。

 古来、何故か日本人は宇宙への関心は薄かったと言われる。七夕伝説が天に絡む数少ないロマンなのだが、古墳の中には天体図が描かれたりするのに、八世紀以降はまるで内向きの民族性を培うようになってしまった。不思議だ。それなりの理由があるのだろうけれど。

 あるいは七夕の歌の大半が「男女の恋の物語として詠まれて」ことと相関しているのだろうか。万葉集が成った段階で宇宙へのリアルな関心は封印されてしまったのだろうか。

 しかし、これからはそうはいかないのだろう。空や宇宙ばかりを見詰めていては、ギリシャのタレスとかいう哲人のように井戸か何かの穴に落っこってしまいそうだけれど、宇宙の深遠を眺めることは、素粒子の謎を探ること、そして生命の謎に迫ることにつながる予感がする以上、世界の人々に伍して真理を求めつづける意欲が必要な気がする。
 また、より多くの人がより深く宇宙を眺めることで、人々の気持ちの焦点が、気持ちがいつしか合わさって、地球に対して優しくなれる……、なんてことはしばらくはなさそうだ。それがちと悲しい。

                              (03/07/08 原作

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