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2010/07/17

精進料理から宇宙を想う

[「父の死のこと」や「父の死のこと(2)」で書いたように、つい先日、父が永眠した。御陰で小生は日々、精進料理を口にしている。といっても、ご飯に納豆やメカブ、豆腐、お茶漬け、あとはパンと牛乳である。変化をつけるため、カップ麺を食べることも。厳格に精進料理の精神に則っているわけではない。…ところで、牛乳は精進料理の範疇に入る? せっかくなので(?)、数年前、精進料理などをテーマに雑文を綴ったことがあるので、その一文をブログに載せておく。]

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→ 我が家の庭には、方々にアガパンサスが咲いている。晴れの日でも素敵だが、雨に濡れそぼつ淡い紫の花は一層、情趣が増す。

精進料理から宇宙を想う

 植物性の材料で作る料理。肉食などの美食を避け、粗食に甘んじる。
 精進料理は、精神修養のためでもある(身体の修行にもなるのだろうか)。

 釈迦が修業の後、下山したとき、極度の疲労と栄養失調で倒れたので、村娘が供養のために捧げたのが醍醐味で、乳製品の一種だったという。
 日本においても精進料理の歴史は様々にあるが、鎌倉時代の禅、更には永平寺の開祖で曹洞宗の宗祖でもある道元禅師は、日常生活の中で厳しい修行を行った。それが今日の日本の精進料理の原型をなしたと言われている。

 精進料理は味が淡白を旨とする。調味料としては(かつお節もあるが)主に、シイタケ、昆布、ごま油、卵は用いてよいとされたという。その上、酒(!)も大事な調味料とされたというのである。
 江戸時代に入って、みりんも加わったという。江戸時代の料理書には、かつお、塩、新酒、昆布、干しかぶら、干しだいこん、梅干なども味付けに使われたようだ。

 精進料理の成立には、やはり中国の影響が大きかったようだが、思いがけない事情も絡んでいたようである。
 調理法における成立過程でなんといっても京都が中心地だった。その京都では、地の利からして海から遠く、魚介類が使いがたかったため、結果としてダイズ(豆腐)などの植物性の材料に依存するようになったとも考えられる。

 ということは、日本の文化の中心地が海辺だったら、精進料理にも味わいは淡白になるのだとしても、味付けに使われる材料としては魚介類がもっと豊富に使われた可能性もあった…のかもしれない。

 近世において中国渡来の精進料理が伝わったのは、江戸時代に黄檗宗の開祖である隠元禅師によるものだった。彼は材料は植物性であっても、味は、更に形さえも動物に似せたものを作ったという。それを擬製料理と呼ぶらしい。

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← 家人が植えたものなのか、勝手に育ってしまったものなのか、分からない。注意してみたら、市内のあちこちの家の庭に咲いている、富山では珍しくない花らしいと分かる。

 中国において、そもそも精進料理なるものがあるのかどうか、それ自体を小生は知らない。
 日本独自のものか、あるいは世界にはそれぞれに精進料理と称されるものがあり、我々が知るような、つまり、できるだけ材料に植物性のものを使うという基本的発想に基づくような精進料理が特殊なのか、識者の教えを請うものだ。
 黄檗宗が材料は植物性だが、形や味において動物に似せるというのは、もともと中国においては動物も平気で使われていたのだが、日本の禅宗などの影響を受けてそうなったのか。それとも、中国においても、擬製料理法が当たり前だったのか、疑問は尽きない。
[以上の情報は、主に『NIPPONICA 2001』による ]

 さて、小生が柄にもなく精進料理などを話題にしたのには、幾つか理由がある。
 昨年末に友人たちと箱根の温泉地に集まって、様々に雑談に花を咲かせたのだが、何かの話の流れで、宗教(仏教)において、精進料理という時、植物に限るというのが気に食わないとか、あるいはベジタリアンが、肉食を忌避し、植物食だけだと自慢気というのか、さも高尚らしく主張するのが気に食わないという話になったのである(ほとんど小生の主張だった)。

 本当に命を大切に思い、食べ物を大切に思うなら、動物も植物も生命体という点では同じではないか。どっちかを高尚だとか、どっちかを殺して食べてもいいとか判別するのは、あまりに身勝手というか、ご都合主義の主張に過ぎないのではないか、と述べたのである。

 なるほど、生命の種という点では、動物は本来動物たる人間に近いわけだから近い主を避けるという意味で動物食を避け、植物食を旨とするというのは当然といえば自然なのかもしれない。
 が、宗教的観点に立つなら、動物も植物もないのではないか。どちらにしても殺生に違いないのではないか。それとも仏教においては植物を殺すことは殺生とは見做さないのか、その点は小生は知識がない。

 が、たとえ仏教において植物を殺すことを殺生とは見做さないのだとしても、小生は殺生と見做す。動物を殺すのはダメだが、植物を殺すのは構わないというのは、ご都合主義の極なのだと考える。
 そもそも、殺生をいけないというなら、この世の生きとし生けるものの総てについて、殺すことは殺生なのであり、そうせざるをえない人間(生命体一般)の罪深さを思うべきなのである。

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→ 分厚い雲…。それでも、少しずつ薄くなって、お昼前には晴れ渡って、一気に暑く。晴れ、なのに、午後は雷鳴が轟き続けた。

 この観点からすると、命の尊さを思うなら、思い知るなら、仏教徒として修行を積むものほど、積極的に植物のみならず動物をその手で殺して食べるべきなのだ。食べるたびにそうした営為を行うなら、きっとやっていることの残虐さに少しは気付き、人間の業の深さに思いが至り、少しは修行の足しになるかもしれない。

 そういえば、箱根の宿での談義で、ジャイナ教にまで話が及んだものだった。
 ジャイナ教は仏陀と同時代のマハービーラによって創設された宗教で、インドでは今日でも命脈を保っているという。不殺生を誓う厳格な禁欲主義の宗教として知られている。

 マハービーラは、動植物は勿論のこと、地、水、火、大気をよりどころとする大小さまざまな生物の存在を認め、生命の尊厳を訴えたという。
 そもそもジャイナ教というのは、この宗教が勃興した当時、「バラモン教徒の間で行われていた犠牲祭を批判し、かつ、バラモン教徒の依拠していたベーダ聖典の権威を否定」したところから始まったのだ。

 ジャイナ教の教えでは、宇宙は世界と非世界からなり、世界は諸実体からなり、非世界は虚空のみが充満する。
 ジャイナ教では、前述のように、動植物は勿論のこと、地、水、火、大気に至るまで霊魂の存在を認めている。従って、もっとも理想的な死とは(生き方とは)断食であり、断食の果ての死なのである(もっとも現実的には、断食死は、飢饉の際とか老齢、不治の病などに限って許されるものとされている)。
[ジャイナ教に関する情報は主に、『NIPPONICA 2001』による ]

 このジャイナ教については、埴谷雄高の小説『死霊』において、究極の対話の相手として想定されている人物の思想として描かれていることは有名である。小説の中のこの人物は、飢餓に瀕しているわけでもなければ不治の病に罹っているわけでもない(老齢になっているかもしれないし、頑固な思い込みという不治の病に罹患しているかもしれないが)。

 小生は、これは小生の勝手な思い込みだが、遠い昔、仏教が日本に歴史上、渡来するよりも前に、釈迦の教えはインド人の渡来と共に伝わっていると考えている。その中の一つとして、ジャイナ教的思想も流入しているのではないかと思っている。生きとし生ける総ての存在に魂の、神の存在を見る信仰(信仰というよりもっと土俗的なレベルでの情)が、極東の日本において土着したのだと思っている。

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← 陸橋の下へと列車が駆ける。陸橋を潜り抜けると、駅は間近だ。

 湿気があり総てが黴や苔に覆われ、あるいは錆びていく。何もないはずの砂地や岩の隙間から草が生えてくる。やがて虫が湧き、花だって咲き誇るようになる。そんな風土にはジャイナ教が明確な形ではないとしても、土着してもおかしくないような気がする。
 ジャイナ教を理屈ではなく、ごく日常的な生活感覚のレベルで受け入れる土壌があったのではと思えてならない。

 ジャイナ教はともかくとして、「動植物は勿論のこと、地、水、火、大気に至るまで霊魂の存在を認める」発想法というのは、今日においては、あるいは今日においてこそ、もっと喧伝されてしかるべき思想のような気がする。息をするだけで無数の命を取り込み消化する(つまり殺生する)…、そのようにしか生き物は生きて生けないのだという自覚。

 生命と物質とは確然と違うのだけれど、しかし、では敢えて境目をつけるとなるとウイルスという特殊な存在に至ってしまう。
 また、生命体であっても、ウイルスと細胞との間にも無数の段階があるし、細胞と多細胞生命体との間にも無数の変異体がある、多細胞生命体にもクラゲや腔腸動物などと人間などとの間に際限のない階梯がある。

 そもそも物質と生命とは、全く別の存在体なのだろうか。
 別に神秘思想に肩入れするつもりは毛頭ないが、地球は一個のダイナミックな活動体なのではないか。あるいは宇宙自体が、想像を絶する規模と複雑さとを持つダイナミズムそのものなのではないか。

 精神や論理は頭の一部やコンピューターに局在するのかもしれない。
 しかし、心とか、もっと広く宇宙に共感する命というのは、生きとし生けるものの総てが共有する大いなる宇宙の音楽、命の響きのようなものなのではないか。

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→ 昨日の夕景。素晴らしい夕焼けだったのだが、撮ることができなかった。なのに、夜半過ぎには豪雨。雨の中のバイトとなってしまった。

 人間が何であれ、ものを食べるというのは、命を食べることである。
 命はある意味で宇宙のエッセンスを体に取り込むことなのだと思う。動植物に限らず、どんなものを食べるにしろ、口にするものは精進料理なのだと思う。
 宇宙や命や、ありとあらゆる存在を心に浮かべつつ口にするならば、だけれど。

                           (03/01/04 原作 10/07/16 編)

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