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2010/07/31

母とのこと

[以下は、ミクシィの日記での書き込みを転記したもの。舌足らずな表記なのは、走り書きだから。殴り書きの日記をそのままに公開します。]

言葉(発音)上の不都合もあって、母とはなかなか意志の疎通がうまくいきませんでした。
日常の会話自体がもどかしいばかり。
子供の頃、発音が極端に悪く、母だけじゃなく誰とも意志の疎通がうまくいかなかった。
よほど勘のいい人なら小生が言わんとすることを察することができる。
けれど、母はその意味では察するのに難があって、しばしば意味を取り違える。

赤の他人ならともかく、親子(母子)なのに、どうしてオレの言葉が通じない!
ガキだった小生は、母を(無論、自分を)歯痒く思い、会話が成り立たないたびに(つまり、しばしば)癇癪を起こし、怒って、口を利かなくなったものでした。

母はそんな小生(と)のガキの頃のトラブルがトラウマになってしまって、十歳の時に手術して少しは発音がよくなっても、小生を腫れ物に触れるような、事なかれ的な扱い方をするようになりました。

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2010/07/30

母の末期

 母の死は、とても静かなもの。まさに眠るが如く。他人にはそう言っている。別にウソじゃない。ただ、母が最後に小生を見つめる目は、とても悲しい、寂しいもので、涙を浮かべているようだった。
(葬式でも、母の死について語る機会がある際には、母の死は眠るような静かな死、苦しまずに亡くなったのが、せめてもの救いです、なんて言っている。でも、これはよそ様向きのコメント。母(と小生を巡るそ)の内実は、如何なるものだったのか、そこにはなかなか曰く言い難いものがある。)

 お前をそういう人間に生んだのは自分のせい…、そう母は自分を責めていたという。それだけに小生のことは見守ってきたけれど、もう辛抱しきれなくなった。不甲斐ない自分に呆れ果てのだろう。
(確かに背負うものを背負って生まれてきたし、今もその業を背負い続けている。)

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2010/07/25

富山にも雨を!

 今日も、ツイッターでのネット参加。
 なかなか厳しい状況にあるので。
 家族が代わる代わる、お見舞いに行っている。
 中には、連日、半日以上、付き添っている人もいる。
 父に続いて…。
 四十九日の法要どころじゃないかもしれない。


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2010/07/24

明日は雨が降るだろうか

 今夕も母の滞在する療養型病院へ。
 病院のフロント(駐車場)からは、田圃が広がり、南西の空に月影。
 ここに母が一人、いる。

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← J・D・サリンジャー著『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝 訳 白水Uブックス)

 暑い中、リチャード・ドーキンスの本が熱い! 情熱が燃え上がっている。

 さて今日も、ツイッターでの呟きだけ。
 以下、ツイートが続く。


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2010/07/23

転院すべきなのか

 今日もツイートだけのブログ。今は余裕がない。雑用が多い。
 とりあえず、昨日、ネット環境を無線に変更したので、家の中の何処でもPCを移動させてネットできる。

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← リチャード・ドーキンス著『進化の存在証明』(垂水 雄二【訳】 早川書房) 「国民の半分がいまだ進化論を認めない国のある現状。それを打開すべくドーキンスが繰り出す戦略は、進化自体が机上の空論でなく事実だと証明することだ。豊富な実例とタイトな論理で魅了する傑作」と銘打たれるが、力作。ドーキンス節が炸裂。

以下、ツイートが続く:

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2010/07/22

束の間の自由感

 過日の、「ツイートするだけの日々」なる日記に、以下のツイートを載せている:

今朝、数年ぶり、いや十数年ぶりに楽しげな気分で目覚めた。夢の中で、浮遊している快適な気分。しがらみから断ち切られて?

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← 母の入院している病院近くの風景。

 地味なサイトの、何気ない一言だし、スルーされるものと思っていた。
 スルーしてほしい、でも、この呟きには軽からざる意味も読み取れそうで、誰かに拘ってほしいという気持ちも正直、あった。
 すると、やはり、世の中には目聡い方がいるもので、ズバリ、印象的と指摘された。
 その遣り取りは、当該の日記のコメント欄を読んでもらいたい。

 せっかくコメントを戴きながら、返事は三日近くを経た今夜になってやっと。

 というのも、どう返事をしたらいいものか、考えがまとまらず、忙しさに感(かま)けて今日まで延ばしていたのだ。


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2010/07/21

当分、豆腐かも

 昨日のツイート(投稿・呟き)は、以下だけ:


毎日、納豆に豆腐に菜っ葉物にお茶漬け、時々、パンやカップ麺の食生活。これじゃ、精進料理というより(体力)消耗メニューだ。力が入らん!

今夜の食事は、麻婆豆腐。精進料理ギリギリ? 毎週、豆腐を2丁、何処かの小父さんが(不自由な体なのに)配達してくれる。以前は、父母と三人だから、2丁でまずまずだったけど、今は小生一人。冷奴とか味噌汁に混ぜても余り気味なので、毎週、麻婆豆腐(マーボー丼)になりそう!

豆腐の料理、何か他に手軽なもの、ないかしら?

 …ということで、昨日の日記である、「豆腐屋の小父さん」となった次第。

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2010/07/20

豆腐屋の小父さん

 我が家に毎週、木曜日(のお昼前)、豆腐の宅配がある。
 近所(らしい)の豆腐屋の小父さんが、配達(宅配)して回っている。
 もう、長年、我が家に(も)来てくれていたようで、父が亡くなった今も、なんとなく断りづらく、そのまま宅配をお願いしている。

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 小父さんと勝手に呼んでいるが、父と同年輩か、やや若いかもしれない。
 それでも、八十歳前後か。

 配られるのは、毎週2丁。
 以前は、父母二人だったし、その後、一昨年からは小生が帰郷して三人となっていたので、週に2丁なら、味噌汁の具にしたりして、ちょうどいい塩梅の量だった。
 それが、母が入院したり、自宅にいても食が細くなったり、そのうち、父まで食が細くなって、具沢山の味噌汁は億劫になって、この春からは、インスタントの味噌汁だけで十分と言う様になった。
 そして今は、家には自分ひとり。
 正直、毎週2丁は、ちょっと多すぎる。
 

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2010/07/19

ヒマワリの満面の笑みのわけ知らず

 今日もツイッターで少々ツイート(投稿)しただけ。日々、調べ物したり、あれこれ気を揉んだりしているうちに、時間だけが流れて行く。
 畑の隅っこに種を蒔いたヒマワリたち。立派に育ったはいいが、肝心の花たちの向きがマチマチで、ヒマワリらしくないって声もあった。
 しかし、昨日の梅雨明け宣言を待っていたように、昨日からは、陽光に思いっきり顔を向けて気持ち良さそう。

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← 「ひまわり」(監督: ビットリオ・デ・シーカ 音楽: ヘンリー・マンシーニ 出演: ソフィア・ローレンら)

 いっそのこと、来年は、数列ある畑全部にヒマワリの種を蒔いちゃおうか。
 ヒマワリ畑の家って、有名になるかも。
 そういえば、ソフィア・ローレンらが主演した「ひまわり」って、素晴らしい映画があったっけ。
 めったに映画館に足を運ばない小生が、友人に誘われたこともあり、学生になりかけのある日、観たんだった。
 ソフィア・ローレンの肉感的な唇に見惚れるばかりじゃなく、映画の内容をもっと考えるべきだった。

 ということで、今日も以下はツイートの数々。

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2010/07/18

ツイートするだけの日々

 私事でネットに携わる余裕がない。ツイッターでさえ、朝方にチラッと。日中は、来客(雑用)に備えて茶の間で待機の日々なのである。
 ネット環境を茶の間に移動させることを真剣に考えないといけないかもしれない。

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← ビューレント・アータレイ著『ダ・ヴィンチと数学―ダ・ヴィンチの芸術と科学』(高木隆司/佐柳信男訳 化学同人) 「フィボナッチ数、黄金比、シンメトリー、透視法…あの名画にしかけられた美の法則が次々と明らかに。しかもそれは自然界の至るところに隠されていた。レオナルド・ダ・ヴィンチの美の法則に迫る」って、本。再読。「「対数らせん」の世界へ」なる拙稿を参照のこと。

 今の部屋は、奥まっているし、玄関から一番遠いので、来客があっても気付かない。
 携帯型の端末を持ちたいが、そんな余裕はないし、今のPCを無線で接続させるしかないだろう。

 ということで、今日は、以下、この二日ほどのツイート(呟き・投稿)を列挙する。


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2010/07/17

精進料理から宇宙を想う

[「父の死のこと」や「父の死のこと(2)」で書いたように、つい先日、父が永眠した。御陰で小生は日々、精進料理を口にしている。といっても、ご飯に納豆やメカブ、豆腐、お茶漬け、あとはパンと牛乳である。変化をつけるため、カップ麺を食べることも。厳格に精進料理の精神に則っているわけではない。…ところで、牛乳は精進料理の範疇に入る? せっかくなので(?)、数年前、精進料理などをテーマに雑文を綴ったことがあるので、その一文をブログに載せておく。]

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→ 我が家の庭には、方々にアガパンサスが咲いている。晴れの日でも素敵だが、雨に濡れそぼつ淡い紫の花は一層、情趣が増す。

精進料理から宇宙を想う

 植物性の材料で作る料理。肉食などの美食を避け、粗食に甘んじる。
 精進料理は、精神修養のためでもある(身体の修行にもなるのだろうか)。

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2010/07/16

父の死のこと(2)

(「父の死のこと」の、ゆるやかな続篇です。)

 思えば、前兆は少なからずあったわけだ。
 それも、単に脳梗塞のぶり返しだけじゃない、症状(行動の異常)が見られていた。

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← 見事に育った畑のヒマワリ。肝心の畑は、雑草が生い茂っている。四月以降、庭も畑もホッタラカシ。

 誰よりも身奇麗にする、お洒落な(父の知り合いはダンディだったねー、なんて言っていたっけ)父が、格好など構うことがなくなったのは、一番のサインだったのかもしれない。
 そんな状況に気付き始めたのは、四月のいつ頃だったか。
 妙な咳もする。痰が絡む。
 食も進まなくなっている。

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2010/07/14

父の死のこと

 父の死。

 先月の7日に検査入院。その日の午後、入院を申し渡された。
 それからは精密検査と、その結果を待つ日々が続く。

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→ ようやく雪も溶けた春先に種を撒いたヒマワリ。グーンと成長して、今や手をめいっぱい伸ばしても、天辺に届かないほどに。翌日には悲しい知らせが待っていたとは。

 昨年の四月にも父は脳梗塞と肺の異常のため、検査入院した。
 その際は、点滴などで恢復し、一ヶ月で退院。
 飲み薬だけの自宅での療養。週に一度はデイサービスを利用。

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2010/07/13

喪中

7月26日(月)午前10時53分、母が永眠いたしました。


7月9日(金)午前9時10分、父が永眠いたしました。

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2010/07/09

引っ張りダコのタコは蛸!

[今日は、ツイッターでのツイート特集。あれこれあって、ネットに割ける時間が乏しい。細切れの時間、ネットを垣間見るだけ。そんな自分には、ツイッターは最適のツールだ。]

昨夕、テレビで蛭谷和紙(びるだんわし)の特集を観た。手作り。当たり前? 原料の樹木から手植えし育てている! 若き(イケメンの)川原隆邦に注目!

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← 北斎「蛸と海女の図」(「葛飾北斎 - Wikipedia」より) エロい絵の筆頭の一つ。

富山県の和紙といえば「越中和紙」。実は、「八尾和紙」「五箇山和紙」「蛭谷紙(びるだんがみ)」の三産地を総称して「越中和紙」というとか。

「はやぶさ」の回収した「カプセル内には、これまで確認された微粒子のほか、より小さな微粒子数十個があることも分かった」とか。さて、分析結果が待たれる。

夕食は八宝菜。キャベツを足して炒めるだけって奴。上手くできたけど2~3人前のパック。ご飯は少なめにしたけど、それでも、食べすぎ。

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2010/07/08

天の川…星への想い

天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ  柿本人麻呂

 今日は七夕である。
 テレビやラジオでもその関連の話題が折々あった。
 重苦しい話題が多い中、一服の清涼剤だろうか。

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← 数年前、東京在住時代の或る日、羽田空港からの帰り、某休憩所にて。小さく、でも目には眩く一番星が…。

 ミーハーな小生にしても、一昨日、「七夕幻想」なんて拙稿をアップしている。

 何年もブログ運営に携わってくると、関連の話題を一度ならず何度も採り上げていたりして、新たな話題を見出すのが難しくなったりする。
 天の川に絞っても、「月の山脈と天の川と」にて、「水の源泉、文明の源泉としての天の川幻想物語」的な話を書いているし、「天の川…光害」では、読んで字の如く、都会の光の害で天の川(に限らず星々)が見えづらくなっている、なんとか都会にも星空を取り戻そう、といった話を書いている。

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2010/07/07

ビニール傘のこと

 鬱陶しい日々が続いている。毎日、曇天が続く。雨…でなくても、いつ降り出すか分からない空。
 富山は、九州や東京のようなゲリラ的な豪雨の惨禍には見舞われていない、それだけは幸いである。
 今も窓外の雨の音が聞こえている。

 そんな梅雨空の日々となると、傘が手放せない。
 傘の有り難味を感じるとき、傘を一番、身近に感じる季節なのかもしれない。
 ふと、何年か前に書いた、ビニール傘を巡るエッセイを思い出した:
梅雨入りに傘のことなど

 ビニール傘、それも、透明ってのがミソである。
 別にビニールにこだわるつもりはない。
 要は透明であればいい。
 理想を言えば、透明であることを必須条件として、太陽光発電ができる伸び縮みする素材の生地で傘ができたらと思ったりする。

 せっかくなので、ブログに載せておく。


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2010/07/06

七夕幻想

 富山ではもうすぐ「七夕」である。予報では生憎、お星様を眺めるのは難しいかも、とのこと。
 私的な事情があって、「七夕」を巡って、ゆったり優雅に、そして素朴に空想を逞しくする心のゆとりがもてないで居る。

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← by なずな (「七夕のネロ」より)

 せめて、数年前に書いた「七夕幻想」なる小文をブログに載せておく。
 また、いつか、ゆっくりこんなエッセイを綴ってみたいものである。

短冊の願いを読まれ恥を掻き   (や)

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2010/07/05

フロイトの骨董趣味

 岡田温司著『フロイトのイタリア』(平凡社刊)をポツポツ読み続けている。
 まだ、半ばほども読んでいないので、感想も書けないが、今日、読んだところで、ちょっとメモっておきたい点があったので、日記に書いておく。

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→ 6月末のある日、未明の仕事の途中、黎明の光景を愛でつつ一服。

 フロイトの考古学への関心の深さは研究者ならずとも、多少なりともフロイトの本を読み齧った人なら知っている。

古代の彫像を集めるのも好きだった。集めた彫像は、書斎と診察室の机と棚にところ狭しと並べたてた。当時はギリシアやエジプトでは文化財保護などなかったから、ウィーンの骨董屋で考古学的遺物が安い金額で購入できた」。

 考古学への関心は、精神分析とも深く関わっていて、心の深層を探ることは、文化の古層を掘り起こし、現代(今)に呼び起し、今の縺(もつ)れ絡み合った心の異常を少しでも解(ほぐ)すことに繋げる、そんな思いがあるようだ。
 歴史以前の古層を探ることは、忘れ去れた、あるいは表層からは消え去った、古の何かを探り出すこと、そうした古傷の積み重なりが今の心の状態と絡み合っているに違いないと考えたくなるのは、分からなくもない。

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2010/07/04

雨のちフラダンスショー

 今朝未明の仕事は、雨との戦い。
 といっても、実際に雨が降っているわけじゃなく、今にも泣き出しそうな空との、つまりは、時間との戦い。
 前夜の予報では、夜半から朝方の六時頃までずっと雨のはずだった。
 夜半過ぎの一時半頃に外の様子を窺った限りでは雨は降っていない。

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← 家人の療養している病院へ行ったら、誕生会が行なわれ、その中でボランティアの方々によるフラダンスショーが催された。サンバやベリーダンスのショーは東京で何度となく観たけど、フラダンスの演舞は初めて。ゆったり優雅で、南太平洋の暖かな海と真っ青な空と緑豊かな島を連想させる。

 しかし、家の中に居ても、湿気の凄さは嫌というほど感じる。
 いつ、雨が降り出してもおかしくない空模様。
 逸る気持ちを抑えつつ営業所へ。
 あまり急いでいっても、配達するブツが営業所に届いていない可能性がある。
 また、土曜日は営業所でブツに折込を挟む作業があるし、いずれにしろ、土曜日はブツの一つ一つが分厚い。
 なので、バイクに積み込むのも大変である。前籠も後ろの二台も荷物が山盛りとなる。
 とりあえず、バイクに積み込んだはいいが、空は怪しい。
 いつ、雨がポツポツ来るか、ドキドキハラハラ。
 バイクのハンドルにプロテクターが付いていないので、雨が降ると、グローブが濡れる。
 すると、配るべきブツを手にした瞬間、濡れてしまう。
 せっかく、ビニールで覆ったり、あれこれ気遣っても、最後の最後、家の前でブツが濡れちゃう。
 自分の体が濡れることなんて、今の時期、寒くも冷たくもないので平気である。
 なによりも、ブツを大事にしているのだ。
 途中、細かな雨滴がヘルメットのシールド(風防)を叩く。
 ああ、とうとう降ってきたのか…。でも、本降りにだけはならないで! と祈るような気持ち。
 焦る気持ちを堪えつつ、配り間違えないよう、バイクの運転をミスらないよう、慎重に慎重に。
 それでも、雨は、傘を差すのを迷う程度の降りのままに推移してくれた。
 全てを配達し終え、ゴム引きのシートなどを片付け始めたら、雨が傘が必要なほどの降りになってきた。
 でも、もう、いいのだ。
 あとは野となれ山となれじゃないが、営業所への帰路に雨が降ってグローブや雨具を穿いていないズボンが濡れたって構うものか!
 営業所にバイクや回収した新聞を戻し、車に乗り込む頃には雨、雨。
 というわけで、ギリギリ、雨には見舞われずに済んだ配達となったのだった。
 ラッキー!

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2010/07/03

現代のヒーローは

 じっくり観て楽しむわけにはいかないが、食事の際などに、録画しておいた映画版「眠狂四郎」を二作品、流し見た。
 ある年代以上の方なら馴染みのあるキャラクターであり作品であり、人物像であろう。

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→ さいとう・たかを作「無用ノ介」 連載されていた「週刊少年マガジン」(講談社)は、大学生になっても、ずっと読み続けた。テレビドラマは、凝った時代演出、舞台設定で見応えがあった。画像の絵は、小生が中学生の時に描いたもの。

「『大菩薩峠』(中里介山著)の主人公机竜之助に端を発するニヒル剣士の系譜」を継ぐ人物。
 柴田錬三郎の小説作品で、「1956年5月から『週刊新潮』に連載された「眠狂四郎無頼控」で初登場」という。
 はっきりとした記憶はないのだが、テレビでの再放送もだが、映画館で観たように思う。

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2010/07/02

誤植・校正ミスは目に付くもの

 家人の転院騒動(伴って生じる、新たな買物)や、詳しい検査結果に基づく今後の治療方針の打診など、身辺は慌しい。
 今日は、とうとう一睡もできないまま一日を過ごす羽目になった。
 日中というのは、大概の人には昼間なのであり、活動の時間帯なんだろうけど、(夜中にバイトする)小生には、せめてそのうちの数時間は、仮眠に当てたい。
 でも、事情がそれを許さない。
 頭が、体が熱っぽくなってボーとしている。

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← 岡田温司著『フロイトのイタリア』(平凡社刊) 平成21年「読売文学賞(評論・伝記賞)」を受賞ということで、昨年、ちょっと話題になった。フロイトの本に少しは親しんできた小生としては読みたい本だった。ようやく手にしている。

 今日も、本を横目に(実際、ほんの少しでも待ち時間などがあったら読もうと、車中にも本を携行したのだった)、雑事に追われてしまった。
 今日も数頁、やっと目にしただけ。
 まあ、今が、そして今からが一番、正念場なんだから仕方ないけど。

 その透き間を盗むようにして、水シャワーを浴びた。
 銭湯へ行く余裕が(時間的にも経済的にも)ないので、自宅の風呂場で水浴びするしかないのだ。
 それでも、スッキリする。
 五月のように、浴びる最中から寒くて体が震えるってことはなかった。

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2010/07/01

少年野球大会での屈辱の思い出

 ワールドカップの熱戦も、ちょっと中休み。
 いよいよベスト8の戦い。
 ただ、悲しくも日本にとってのワールドカップは昨夜の激闘で終わった。
 いろいろ印象的なシーンはあったけれど、最後に心に刻まれたのは、PK戦。

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 特に、駒野友一選手がPKを外した瞬間の彼の表情、彼を迎える日本選手たち。フィールドに座り込んで最後のPKを見守るシーン、うなだれピッチを去る駒野の後ろ姿。
 テレビは残酷なもので、両チームとも延長でも得点なしに終わったあと、その駒野がPKを外すシーンを最後に映し出す(あるいはそこだけを!)。

 要は90分(あるいは120分)で勝ちきれなかったことが全てだったのであり、PKで負けたのは、仕方のないこと、なんて言っても、(少なくとも)駒野選手には慰めにもならないだろう。

 スポーツという勝ち負けをキッチリつける世界。
 どんなに頑張っても、あるいはその結果を周囲は受け止めてくれ納得してくれていても、当の本人だけは屈辱の念に一生、苛まれることもある。

 願わくは、駒野選手(ら)には、今後の活躍で悔しさを力として実らせてもらいたい。

 軟弱人間の小生だが、少しはスポーツで頑張ったこともあるし、悔しい思いに胸が張り裂けそうになったことがある。

 以下、スポーツに絡む、小生にとって最初の屈辱の思い出をブログに載せておく。

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