せめて心は遊ばせます
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家人のことで、あれこれあって、気忙しいし、実際、慌しい。
ちゃんとしたブログの記事(日記)が書けないで居る。
← 「ホタルブクロ」、だろうか? 和紙のような白さ。雨に濡れて一層、白が眩い。
ツイッターでのツイートですら、以下の数件だけ:
最初は曇り、途中からザーという大雨に。なので、途中までバイクだったのを、営業所に引き返し、荷物を積み替え、残りを車で。最悪のパターン。バイク(の手)にプロテクターが付いていたら、途中からの雨でもそのままバイクで続行していたのだが。我が営業所は、プロテクター、つけてくれない。
やっぱり、ミック・ジャガーいたんだね。何処かで見た小父さんだなって、ずっと思ってたけど。
(厳しい?)処分を前提に、名古屋場所開催決定の方向らしい。名古屋場所が終わってから、さらに野球賭博に手を染めている人が出てきたら、一体、誰が責任を取るのか。
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今日は体調が悪く、ブログでの日記を書く気になれない。
なので、ツイッターでのツイート(呟き・投稿)をそのまま転載。
カッコ内は、ブログにアップするに際し、付記したもの。
時系列で下に行くほど新しい。
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昨日も書いたが、丑三つ時過ぎから朝未明までの、まさに真夜中のバイトをしている。
可能な限りバイクを使うが、雨模様の時は車を使う。
無論、天気予報を参考にして、雨(雲)の到来予測を睨みながら、どちらを使うか決める。
問題は、曇天の空の場合。
午前中(のある時間頃まで)には雨という予報だが、早朝は多分、降らないだろう、という見込み、見通しはある。
しかし、それは保証の限りではない。
配っているものが紙モノなので、雨に弱い。
しかも、富山は特に雨の日が多い!
冬は雪!
雨が最初から降っているなら、営業所で、スーパーで汁物をパックするのにカウンターに用意されているビニール製の半透明の袋を被せる。
新聞をビニールシュリンク(パック)するジョイナーというマシンがあるのだ。
ただ、雨だからといって、配る新聞全てをパックさせてくれるわけではない。
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丑三つ時過ぎから朝未明までの、まさに真夜中のバイトをしている。
いつもなら、営業所に二時半前到着し、荷物をバイクに積み込み、二時四十分過ぎにスタート。
雨天じゃなく、また作業も順調なら5時前後頃に作業は終わる。
でも、回収した荷物を営業所に持ち帰り、バイクを置いて、車に乗って帰ると、どうしたって五時十五分前後となる。
→ 踏み切りを朝一番の列車が通過する。寝台車のある長距離列車である。
しかし、今朝は、ワールドカップの試合がある。日本代表が決勝トーナメントに進出できるかどうかを決める、デンマークとの大事な試合。
マスコミ(テレビ)の表現を使えば、運命の試合というわけである。
試合は、三時半に始まる。延長はなく、PK戦もないから、試合は五時10分くらいに終わる。
これでは試合はほとんど見ることは叶わない。
そこで、今日は家を早く出て、営業所に二時二十分頃に到着。
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今日は忙しくてブログ日記を書く余裕がなかった。
以下は、ツイッターでのツイート(投稿・呟き)集である。
← 今年は、あれこれあって、例年以上に庭木や花に目が行き届かなかった。かなり殺風景。緑は濃いけど。
溝口健二監督作品の『赤線地帯』をテレビで見た。さすが溝口作品。感想はともかく、驚いたのは音楽。黛敏郎が担当しているのだが、ミュージック・ソーが使われている。『恐怖のミイラ』でも。あの時代の流行だったのか。尤も、「テルミン」では、という説もあるが。
(「恐怖のミイラを奏でたミュージカルソー」参照。)
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家人のお見舞いに行ってきた。ほとんど寝たきりの生活を強いられている。
梅雨時の空が窓外に重苦しい。
でも、病院内は快適に空調されていて、そんな外の光景などまるで別世界の話である。
院内は清潔で、下手に自宅で療養するより、よほどまし。
そうはいっても、自宅での静養が本人には望ましい…のか。
透き間だらけで空調など論外の家であっても。
ふと、何年か前、創作したある作品を思い出した。
ちょうど梅雨時の今頃に、東京にあって、黴臭いような我が家のことなど想い起こしつつ作ったもの。
但し、自分の朽ちゆく体を念頭にデッサン風に描いたもの。
せっかくなので、ブログに載せておく。
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日中は、ナボコフ著の『賜物』を読んでいる。
厚さ4センチもあり、手に持つと重く、寝床では無理。
なので、寝床用に(!)、武光 誠著の『邪馬台国と大和朝廷』(平凡社新書)も用意している。
邪馬台国の話題となると目がなく、刊行されて4年の本だというのに、つい手にしてしまった。
→ 武光 誠著『邪馬台国と大和朝廷』(平凡社新書)
まだ読みかけなので、大和朝廷と邪馬台国の関係の話題には及んでいない。
筆者は、文献的(主に『魏志倭人伝』など)に素直に読む限りは、邪馬台国は九州の筑後川流域(筑紫平野)のどこかにあった考える立場の方。
(本書の刊行後の、ここ数年の新発見で立場を変えられたのかどうか、小生は知らない。最近は、立場を曖昧にしているような印象も。)
『魏志倭人伝』に記されている邪馬台国について、過去、どのような説が唱えられてきたか、整理してあり、展望が利き、ちょっと助かる。
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「涼やかな風鈴の音色で初夏の訪れを感じてもらおうと、富山市古沢の富山ガラス工房ギャラリーで、ガラス風鈴展「夏の音を聴く」が開かれている」といったニュースがあった。
政治やワールドカップ、相撲の不祥事などに隠れた、小さなニュース。
こんなご時世なので、少しは爽やかな話題を採り上げたい。
← 「風鈴」 (画像は、「風鈴 - Wikipedia」より)
「夏の風物詩 初夏の訪れ告げる風鈴」( 北陸発 YOMIURI ONLINE(読売新聞))によると、「同工房や県内で活動するガラス作家約15人が作った約150個を展示。透き通った紺色の風鈴に黄色の星を描いて夜空を表現したり、すりガラス製で高く長い音を奏でたりするものなど、趣向を凝らした作品もある」とか。
せっかくなので、「風鈴」について多少のことをメモしておきたい。
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今朝のツイッターで誰かが扇風機のことでツイート(投稿・呟き)していた。
暑く寝苦しいので扇風機を終夜、回しておきたいが、体への心配もあるし、かといってタイマーが故障していて、寝入る時だけ使うってわけにもいかない、云々。
→ 「川崎型電気扇」 (画像は、「扇風機 - Wikipedia」より)
知り合いの方のツイートではないので、直接の返事はせず、扇風機を(もし強弱の切り替えが可能なら)弱に設定し、(もし可能なら)首振り機能を使い、且つ、扇風機の向きを体に向けるのではなく、壁に向け、間接の風が体にやんわり当たるようにすれば、それほど体への影響を心配せずに済む、なんてことを勝手に呟いてみた。
(残念ながら、小生のツイートはその方には読まれなかったようで、返事のツイートはなかった。)
小生には、数少ないながら、扇風機にまつわるエッセイがある。
一つは思い出話で、「猫と扇風機の思い出」である。
「猫扇(ねこせん)」などと略称されたりした隣室の飼い猫に絡む思い出話で、小生の拙稿の中では比較的読まれたほうの部類に入る。
他に、「扇風機のこと」と題した、これまた思い出話風なエッセイがある。
せっかくなので、後者を一部割愛してブログに載せる。
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「日本悔しい0-1でオランダに敗戦/E組」(nikkansports.com)
「後半8分、MFスナイデルのミドル弾でオランダが先制」!
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「もみじマーク:代替案4点選定 今秋決定へ 」(毎日jp(毎日新聞))というニュースを目にした(ツイッターでのツイートで)。
← 「現行のもみじマーク(左)と代替案4点」 ちなみに、「もみじマーク 紅葉のイメージで熟練した高齢ドライバーを表現(1)四つ葉のクローバーをモチーフにシニアの「S」を図案化(2)色とりどりの線がさまざまな人生を表現(3)高齢ドライバーを稲穂の実とハートを支える手のひらにたとえて図案化(4)鳥にハートと手のモチーフを組み合わせて図案化」とのこと。
詳しくは上掲のサイトで見てもらいたいが、要は以下:
高齢ドライバーの車に張るマークのデザインを再検討している警察庁は17日、「もみじマーク」の代替案として四つの図案を選定した。もみじマークも含めた5点からアンケートなどを実施して、今秋にも決める。もみじマークを巡っては「枯れ葉を連想させる」などデザインの見直し論が高まり、変更を含めて検討してきた。
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ある本を読んでいたら、ちょっと気になる記述に遭遇した。
「色が見えるようになったのは、私たちの先祖が熟れた果実と未熟な果実とを区別する必要があったからだと考えられている」というくだり。
そのあとに、「だが、いったん色が見えるようになると、私たちはその能力を他のありとあらゆる目的に使い始めた。今では地図を読んだり」云々と続く。
本書では色の(識別)の話が本題ではないので、以上のようにサラッと触れられているだけで、この話題には二度と戻ってきていない。
→ フランス・ドゥ・ヴァール 著『共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること』(柴田 裕之【訳】 西田 利貞【解説】 紀伊國屋書店) 一昔前の動物行動学とは様相が一変わりしている。昔なら、動物同士、人間と動物の共感なんて笑止だったろう。なかなか魅力的な本である。人間は人間にとってオオカミである、といった言い草がある。これも、誤解が解かれ、オオカミへの理解が深まれば、意味合いは180度、変わるだろう。
我々の先祖が、いずれかの時点で色の識別ができるようになったのだろうが(そうでないと、人類の、あるいは類人猿の、それとも哺乳類の、もしかしてもっと以前の段階から、最初から色が識別できていたことになる)、熟れた果実と未熟な果実の区別の必要から色が見えるようになった、というのは、納得できるようでいて、何か釈然としないものも感じる。
まあ、指摘されてみると、あまりに当たり前のように思えて、呆気に取られたってのが正直なところだが。
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富山もすでに梅雨入りし、今日も午後から雨に。今も雨は降り続いていて、明日の日中くらいまでは雨は止まないという。
今朝、バイトの途中、紫陽花を見かけたこともあり、我が家の紫陽花も咲いているかな、なんて思った…のだが、確かめるのをすっかり忘れてしまっていた。
← 昨年の6月23日の日記に載せた紫陽花の花の咲く裏庭の光景。(「紫陽花の雨に降られて背伸びせん」参照)
小生、紫陽花という植物の醸す風情が好きである。
梅雨は嫌いだが、唯一、紫陽花の花を見るとホッとする。
そんな小生なので、「紫陽花」に絡む小文も幾つか書いてきた。
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→ 実際に、今日(15日)朝刊で配られた北日本新聞朝刊の一面画像。(「日本、1―0でカメルーンに勝つ:北日本新聞ウェブ[webun]」参照)
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富山(北陸地方)は、昨日(13日)、梅雨入り宣言が出た。
毎年、梅雨入りの頃になると体調が悪くなる…ような気がする。
気がするだけで、梅雨時の鬱陶しさが体調の変化となって現れているだけかもしれない。
← 我が家の庭のドクダミは、今年も元気。気のせいか、ドクダミの生える領域が年々広まっているみたい。
実際、体の不具合を感じたのは、梅雨入りの一週間も前のこと、家人の付き添いで病院に行った日の夜だった。
入院の手続きや病室に家人が落ち着いて、さて帰宅したのは午後の四時前。
朝、家を出たのは九時半過ぎだったが、その前の出かける準備もあって、ずっと何だかんだと慌しかった。
検査・診断のための病院だったはずが、急遽の入院となり、家人が家に不在となり、何か急に体から力が抜けたような感覚があった。
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下記するツイート集で、以下のような投稿がある:
ブブゼラ……。この鳴り物の単調な、耳に煩い音は、アフリカの広大な大地を想わせる。乾いた荒野を無数のイナゴたちが飛び交い全ての生き物を喰らいつくしていく。地を眺めるとアリの大群が大河を為す。茫漠たる時空を埋め尽くすは、ブブゼラの喧しい音、音、音!
→ 「ブブゼラ」 もとは金属製(スズ製)だったが、危険ということもあり、今は、プラスチック製になっている。(画像も含め、詳細は「ブブゼラ - Wikipedia」にて)
このブブゼラなる鳴り物、小生自身、現下の南アフリカWCで見て(聞いて)初めて知った。
「ブブゼラ - Wikipedia」によると、「ブブゼラ(Vuvuzela)は、南アフリカの民族楽器。1mほどの長さのあるラッパの一種で、スタジアム・ホーン(チアホーンの一種)」とか。
「自分がブブゼラを発明したと主張している」(Freddie "Saddam") Maakeによると、「自転車用のホーンを口で吹くように改造し、長さを長くしたのだ」とか!
但し、「Kudu(アフリカの野生動物の一種)の角で出来た楽器」という異説もある。
「ブブゼラという名称の起源」についても、「ブブという音を出す」を意味するズールー語であるという説や、「シャワー」を意味する非白人居住地域におけるスラングであるとする説」があって、この混沌ぶりはいかにもアフリカ的で楽しくもある。
いずれにしても、このブブゼラの鳴らす音は、アフリカの大地を象徴する音、そして楽器となりそうである。
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昨日の日記の冒頭に、「今日からディラン・トマスの書簡集を読み始める。しょっぱなの書簡からして、圧倒された。こんな手紙を18歳の人間が書く? 辛らつで率直。詩や小説表現行為への愛情があるからこそなのだろうが。楽しみな読書になる」といった一昨日投稿したツイートを示した:
「ディラン・トマスの世界へ」
→ パブロ・ピカソ「母性」 家人の検査のため病院へ。その受付フロアーにあった絵。右下の画像をクリックすると、説明文が読める。
そのあとも、何度かディラン・トマスに絡むツイートを発している。
昨日のブログでは、ディラン・トマスについて、大雑把な紹介(といっても、個人的なメモ)を試みた。
今日は、ディランの書簡集から、彼が自らの人生を自らの書簡の中でどのように紹介(総括)しているか、ある書簡からの転記で示してみたい。
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ツイッターで、幾つか呟いた中に、以下のように書いたツイートがある:
今日からディラン・トマスの書簡集を読み始める。しょっぱなの書簡からして、圧倒された。こんな手紙を18歳の人間が書く? 辛らつで率直。詩や小説表現行為への愛情があるからこそなのだろうが。楽しみな読書になる!
← 裏庭の竹垣。バラなどが顔を覘かせている。真ん中付近には、正体不明の植物も。それにしても、竹垣の朽ちようときたら!
読み始めたのは、『ディラン・トマス書簡集(The Collected Letters(Thomas,Dylan;Ferris,Paul))』(徳永 暢三 太田 直也【訳】 東洋書林)である。
「ボブ・ディランやジム・モリソンなどロック界の詩人たちをも夢中にさせ」、実際、ボブ・ディランの「ディラン」は、ディラン・トマスから採ったと(も)言われている。
真偽はともかく、影響と刺激を与えたのは事実なのだろう。
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[本日はツイッター発言(投稿)集。昨日の朝から今日の夜までの分。下のほうほど、新しい投稿。リンクや()内のコメントは、ブログにアップするに際し、付したもの。]
← 内庭の杉。家人らが半世紀以上に渡り、縁側で、あるいは玄関の出入りの際、横目で見てきた、見守られてきた木なのである。
丑三つ時から未明にかけての仕事、終わって帰宅。小雨そぼ降る中での黙々たる仕事。星空や曇天の日はバイクだが、今日のように雨だと車を使う。それぞれに長所短所がある。車のいいのは、ラジオを楽しめること。ラジオ深夜便で加山雄三特集があった。小学校の終わりから中学生になりかけの頃の憧れの人。
(ガキの頃の、小生の加山雄三に対する鬱屈した思いについては、「ラジオから西田佐知子さんのことへ」参照。)
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一昨日までは、A.ストゥーブハウグ 著の『アーベルとその時代―夭折の天才数学者の生涯』(願化 孝志【訳】 シュプリンガー・フェアラーク東京)と、田中 善信【著】の『芭蕉―「かるみ」の境地へ』(中公新書)とを並行して読んできた。
そのうちの一冊の『芭蕉―「かるみ」の境地へ』は読了したので、昨日からは、『アーベルとその時代―夭折の天才数学者の生涯』と、石原 あえか 著の『科学する詩人 ゲーテ』(慶應義塾大学出版会)とを並行して読み始めている。
→ 石原 あえか 著『科学する詩人 ゲーテ』(慶應義塾大学出版会) 「ゲーテの文学作品の本当の面白さ、そして味わい深さは、「詩人にして官僚、並びに自然研究者」という職業コンビネーションから生み出されたものだと言える」! ゲーテの文学の理解は小生には到底、及ばないものの、ゲーテの表現の在り方は、ある意味、小生の創作の上で一つの理想に近い面がある。何もストレートに科学的な成果を文学作品に盛り込む、という意味ではない。文学的営みも科学的営みも、人間による知的限界に挑む営みであり、リアルに迫る、違うルートを辿っているに過ぎないと思っている。
並行して複数の本を読むのは、気が短いというのか、一冊の本とジッと付き合えない性分だということもあるが、寝床に入っても読める本は必ず確保しておきたいという思いがあるから、という理由が大きい。
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[本日はツイッター発言(投稿)集。昨日の朝から今日の夕方までの分。下のほうほど、新しい投稿。リンクや()内のコメントは、ブログにアップするに際し、付したもの。昨日は半日、病院に居たし、帰宅してから体調を壊し、ツイッターでの発言でしかネットに関われなかった。]
← この頃は、晴れの日が続く。悪くても薄曇り。なので、朝未明までのバイトの帰路には東の空はこんな朝日が我輩を見守ってくれる。
水シャワー(水浴び)、水道水はやはり冷たい。井戸水とは違う。寒くてさっさと済まそうとしたのが間違いで、手元が狂って、カミソリでアゴをスーと切ってしまった。頬を切ってたら、やーさんと間違えられそう!
(翌日の午後になって悪寒、熱、吐き気、食欲不振といった症状が出て寝込んでしまった。日曜日の炎天下での草むしり作業の疲れが月曜日に出たってこともあるのだろうが、もしかして無理して水浴びしたせいかもしれない…。)
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富山には珍しく、天気晴朗風も緩やか。
水シャワーしたくて、午後から草むしりなど外作業。
ヒマワリ、ネギがスクスク。ついでに雑草はもっと育ってる!
思ったほど汗は流れず、火照った体や頭に水ってわけにはいかないけれど、数日振りの水浴びで痒かった髪が気持ちいい。作
業着なども洗濯、気分もスッキリしたところで買物へ。
→ すくすく育っているヒマワリ(多分)。根元付近の雑草を毟り、(野菜用の)堆肥を加えてやった。
買物は自転車で。天気さえ良ければ、自転車が楽しい。
洗い髪を自転車を駆って風で乾かしたりして、学生時代みたい。
仕事先へは車、仕事はバイク(スーパーカブ)、買物など日常の用足しは自転車、家の内外は歩き(←当たり前)と、機動力を駆使している?!
但し、走るなど運動はしていないので、体重は増加傾向だ。
ところで昨日、宇宙を舞台にしての朗報があった。
「はやぶさ」の地球帰還が確実になったのである。
(「満身創痍「はやぶさ」の帰還確定…小惑星の砂期待」参照)。
実際に<無事>帰還となれば、まさにドラマチックな宇宙劇である。
この大いなる生還を記念して(?)、数年前、「「はやぶさ」が「イトカワ」への2回目の着陸の成功とサンプル採取にも成功したと見られること」に感激して書いた当時の小文「二つのおめでとう! 朝青龍とハヤブサと」から関連の記事を抜粋掲載する。
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あるツイート(投稿)で、「銭の花」という言葉を見つけた。
銭の花は白い…とその方は言うけど、意味不明。
調べてみたら、「銭のなる木、金のなる木と呼ばれている植物」を意味したり、「登録商標 銭の花」の「草もち」もあれば、昔懐かしい花登筺原作の『細うで繁盛記』で、オープニングでのナレーションが有名だということも分かった。
← 「カネノナルキ(カゲツ)」 (画像は、「カネノナルキ - Wikipedia」より)
『細うで繁盛記』の「オープニングで「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする」という主人公加代役の新珠三千代のナレーションが入った」というのだ。
こうなると、「銭の花」を見てみたくなる。
目当てのサイトが見つからない。とりあえず「金のなる木」(別名「花月」)なるサイトを発見。
なるほど、「花月」って店の屋号は、「金のなる木」…儲かる店ってことを期待していたんだ!
そういえば、昔、「なんば花月」なんてあったっけ。
富山には(も?)「花月」と名の付く店がかなりある。
本ブログを編集していて、たった今、気付いた。我が家の洗面所にこの「金のなる木」(別名「花月」)があるじゃないか! 毎朝、手を洗うついでに水をやっているじゃないか! そうか、あれが「金のなる木」だったのか!
それにしては、毎日、我輩が水をあげている割に、おカネに縁がないのはどうしたわけだ?
明日からは、「金のなる木」よ!って、名前を呼びかけながら、優しく水をあげよう!
ああ、そうだ。五円玉を飾るのも忘れずに!
まだ一度も開花した状態を見たことがないが、きっと近い将来、花が咲くことだろう!
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もう、何年も前になるが、ある雑文の中で、マッチのことについてあれこれ書いている。
「燐寸」とも表記する、箱の外でシュッと擦って火を点ける、木の切れっ端を軸にしている、あの「マッチ」のことである。
いろいろ書いたはいいが、その小文の中で「そもそも何故、マッチという名称なのかが分からない」という疑問を呈したまま、小生、放置したままだった。
→ 「燃えるマッチ」 (画像は、「マッチ - Wikipedia」より)
当時、マッチ箱のやすりとマッチ棒とを擦り合わせる…マッチさせる…ことからマッチと呼称されるようになったのか、などと勘ぐってみたが、さすがにさっさと却下したものである。
それが、今日、ひょんなことから「マッチ」という名称の語源が分かった。
上掲の小文を書いた当時も、調べれば分かったはずなのかもしれず、調べ切れなかっただけなのかもしれない。
マッチについては、いろいろ教えてくれるちゃんとしたサイトがあるのだが、せっかくなので、「マッチ」の語源と共に、数年前に書いた雑文を本ブログに載せておく。
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[本日は以下、全てツイッター発言(投稿)集である。昨日の朝から今日の午後までの分。下のほうほど、新しい投稿。リンクや()内のコメントは、ブログにアップするに際し、付したもの。]
← 庭のツツジがこの頃になって咲きだしている。一本だけだが。季節はずれに誰も見ていない場所でポツンと蝋燭の灯りの灯るように咲く…ってのは、まるでへそ曲がりでピント外れでシャイな(?)我輩そっくりだ。…もっとも我輩はこんなに綺麗には咲かないが。
我が家の庭先にある梅の木。苔生して弱々しいが、それでも若干、実を収穫。ホントに若干。去年の半分にもならない。去年だって少なかったのだが。収穫が少ないのは庭の土壌が痩せているから? 五月の低温続きの気候のせい? あまりに少なくて、梅酒作りに取り掛かるか迷う。
(「梅酒ができたかも…「天使の分け前」のこと」「葡萄とワインの間に」「今日は白い小花に注目」「梅の木の呻き?」)
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「仏頂面」とは、「苦虫をかみつぶしたような顔」(不機嫌な顔、不愉快そうな顔)である。
今日は、その「仏頂(面)」を、但し腫れ物状態のお二人には触れない形で、若干のことをメモしてみる。
この「仏頂(ぶっちょう)」は、仏教に由来する用語であり、「仏頂尊」のことで、「お釈迦様の頭上(仏頂)に宿る広大無辺の功徳から生まれた仏」のこと。威厳に満ちているが不機嫌そうな表情にも見えることから「仏頂面」という言葉が生まれたと考えられている(あくまで説の一つ)。
松尾芭蕉が生涯の師と仰いだ人物は、仏頂禅師である。
「根本寺」という当時巨大な寺を受け継ぎ、二十一世住職に就任した。が、徳川家康に寄進された寺領を巡る鹿島神宮との争いに関わり、深川の臨川庵に住した(やがて臨川寺となった)。
(「芭蕉と仏頂禅師について」参照)
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数日前、台所に突如、アリが何匹も出現。一応、退治はしたが、原因が分からないままだった。
残飯の類いは台所には零れてないし、流し台のヌメリも結構マメに(素手で…タワシを使って)洗っている。床掃除も頻繁。なのに……。
← 『エルガー:ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61』(ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン) ロンドン交響楽団、指揮:サー・コリン・デイヴィス) お目当ては違う作曲家だったのだが、棚を物色していたら、エルガーのヴァイオリン協奏曲とあって、予定変更。ヒラリー・ハーンのことは、小生は全く知らなかった。
つい、先ほど、原因が分かった。
案の定だった。
台所の窓外直下に置いてある生ゴミ堆肥作り用の桶だ。残飯や茶殻などを投棄し、やがての堆肥・土壌還元を期している。
今、見たら、桶の下や周辺、茶殻の堆積の中に隠れるようにして、湿気を好む小さな虫(よく見かけるが、名称不明)がゾロゾロウヨウヨ。
それは予想できたとして、虫はそれだけに留まらない。
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ガロアもだが、アーベルも夭逝の天才数学者である。しかも、どちらも早世を強く自覚していた。ガロアは時間がないと悲鳴にも似た叫びと共に(群論の)論文を書き上げた。
死を目前にしての高度な、この上ない集中力。
数学者でなくとも、若くして死を宿命付けられた人の、どんな宝石にも敵わぬ純度と透明感と、焔に炙られ切迫する真紅の業苦。
極めてささやかな形でなら、小生にもなくはない。
→ 内庭のツツジに今も咲いている花一輪。この花びらは我が庭で真っ先に一つだけ咲き、ずっと咲き続け、今も孤高を守り通している。何故、この一輪だけ咲いているのだろう。不思議だ。
中学のとき、幾何学の楽しみ、特に補助線を直感する、脳髄の底の底まで痺れるような、脳味噌がただそれだけのために特化し燃え上がっているような感覚。
悲しいかなそんな感覚の悦びを味わえる季節は、或る日突然到来し、あっという間もなく過ぎ去ってしまった。
(小生の場合、その代わり、形而上感覚、物質的恍惚感を追うようになるのだが。)
数学(算数)でなくとも、詩想や楽想、メロディの形、流れ、ある種の絶対感、絶望感にも匹敵する垂直な感覚、あるいは全てが溶け去り和み合っている世界に今、在るという確信……などなどを味わう恍惚の時は、誰にでも瞬間だけならあるのではなかろうか。
大概は、感傷の海の波に紛らせて溶解させ、苦しいほどに加速し渦を巻く意識の爆発を宥め賺し鎮火させて、やがては平穏無事な日常にしがみ付いていく。
しかし、若くしての死の定めを運命付けられ、あるいは自覚せしめられたなら、そうはいかない。一旦目にしてしまったものは、身を燃え尽きさせても、最後の最後まで見尽くしてしまわずには居られないのである。
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