惹かれしも愛憎半ばのツツジかも
小生の好きな花の一つに、ツツジがある。
実のところ、ツツジが好きなのか、ツツジの季節が好きなのか、よく分からない。
寒くもなく、暑くもなく、梅雨の鬱陶しさもない、ちょうど心地いい季節を象徴する花、という印象が、特に東京在住時代に心に刻み込まれたようだ。
今年は天候が不順ということもあってか、ツツジに限らず、我が庭の花たちは概して元気がない。
尤も、天候のせいにしているが、やはり小生が日頃、ちゃんと手入れしていないから、なのかもしれない。
というのも、街中を巡ると、思わず溜息の出るような見事な咲きっぷりのツツジを見かけるのである。
かく言う小生、本ブログでもツツジを巡って数々の雑文を綴ってきた。
以下、過去の小文から一部を抜粋してみる。
好きな花だけに、ツツジの咲く光景を前にして、思いがけないことまで呟いてしまうようである。
[以下、ツツジ関連拙稿からの抜粋を幾つか示す。]
白色や桃色、あるいは赤紫色のツツジの花も、その奥に、あるいは根っ子には小振りな葉っぱが連なっている。その葉っぱは幹にあるいは枝へと連なっている。葉桜といい、ツツジといい、彩りを支えているのは、深い緑だったと、改めて思う。
悲しむべきなのかどうかは分からないが、大地の色が都会では窺えないこと。たまに道路工事などで掘り返された、アスファルトやコンクリートの下の何処か無慙な姿を晒す土砂では、とても大地を目にしたとは言えそうにない。もしかしたらコンクリートで埋め尽くされた都会だからこそ、ツツジがやけに目に映えるのかもしれない。
何処か河原か田圃の畦道でも歩いている最中に、ツツジやどくろの文字を思い浮かべようとすると、両者の漢字が交じり合って、躑躅の中に髑髏の影が忍び寄り、髑髏の目玉から躑躅の花が、それこそあざとく咲き出でるような、そんなイメージが付き纏って離れない、そんな自分だったのである。
それにしても、躑躅などという漢字表記は、どういう由来で成り立ったのだろう。そして、髑髏という漢字表記についても、由来を知りたいものだ。
夜ともなると、車も少なくなり、走りながらでも赤紫色の妖しいツツジの花々が目に飛び込んでくる。
特にその赤紫色は、深緑をベースにするから余計に際立つ。
街灯やヘッドライトに照らし出されたりすると、闇の濃さと緑の深さと花びらの妖しさが言い知れない幻想を誘う。小生に小説を書く才能があれば、間違いなく、この独特の雰囲気を生かしたミステリーかサスペンスを書き上げようと思うに違いない。
→ 同じく、昨年の五月の連休直後に撮った、自宅の裏庭のツツジ。
ツツジは、3月末から四月の初めにかけての桜の季節が終わるのを見計らうように咲き始める。道路脇に桜の花びらの、最初は淡いピンクの絨毯か帯だったものが、やがて乾き切り、色褪せ、埃に塗れ、茶褐色のゴミという憐れな末路を辿る頃に、そんな情ない光景などに目を向けさせるものかとばかりに、ツツジの花が咲き始めるのである。
若い頃は、春四月、そして五月は横溢する生命力の季節だった。時に過剰になりがちの萌え出でる泉に、若い肉体を持つ当人であってさえ、当惑を覚えることがあったにしろ、春は命であり、将来であり、可能性だったのである。
それどころか梅も桜もツツジも眼中になかったに違いない。それどころではなかったのだ。
それが、今では花や草や木々の生命力に圧倒されている。
若いというのは、動物のようなものだ。何か得体の知れない闇雲なパワーに駆り立てられ、花も草も踏み越え、踏み躙っても、平気だった。
自分のほうがはるかに命に満ち溢れていた。植物など、目立たない陰湿な生き物、大地の何処かしらに縛り付けられている、可哀想な生き物に過ぎなかった。
そう、背景にあるものに過ぎず、彩りとしてあればいいものであり、なければないで一向に構わないのだった。それどころではなかったのだ。
が、年を経るに従い、大地に縛り付けられ、時には通行人に踏みつけにされるはずの花や草に目が行くようになる。視線が次第に低くなる。自分という人間に幻想の欠片も持てなくなったりすると、俺は道端の雑草ほどにも逞しくはなかったのだと思い知らされる。
踏み躙られても、草木は樹液や草いきれを放つ。その強烈な生命力、生々しさ。自分にはその樹液ほどの潤いさえ失われていることに否応なく気付いている。
のろまなカメほどでさえなかったはずの草木に、今や嘗てはウサギであり、跳ね回るシカだったはずの自分が置いてきぼりを喰らいそうになって焦りさえ覚える。土に還ったなら、自分は植物どもの栄養分として吸われていく。
いや、生命力が枯渇しているということは、既に空中を漂う目に見えない植物か闇のパワーにドンドン生命力が吸われ始めているということなのかもしれない。
闇の中で浮かび上がる濃く豊かな緑を背負った赤紫のツツジは、つまりは俺の命をドラキュラが生き血を吸う如く掠め取っているのかもしれない、そんな悪夢をさえ連想させるのである。
まあ、そんな悪夢などは早く忘れて、この世が命に満ち溢れていることを愛でていれば、それで十分なのだろうけれど。
← 昨年の五月上旬、富山市の中心部にて撮ったもの。富山のツツジもなかなか。
ツツジ関連拙稿集:
「つつじのことなど」
「日の下の花の時」
「ツツジの宇宙」
「躑躅(つつじ)と髑髏と」
「ツツジの季節の終焉…緑滴る」
「「ツツジの季節が終わる」拾遺」
「富山のツツジも素敵です」
「鬱勃の闇」
(10/05/12 作・編)
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