「早生まれの意味、生きることのなつかしさ」へ!
[本日は、オールツイッター発言(投稿)集である。昨日の夜から今日の夜の分。上のほうほど、新しい投稿。リンクや()内のコメントは、ブログにアップするに際し、付したもの。幾つか、単独の記事として扱いたい話題もある。]
→ 今年は、天候が不順だったせいか、我が家の庭の花は全般的に元気がない。ジャーマンアイリスも咲きはしたが、萎れたような萎びた咲きっぷりで撮る気になれなかった。そんな中、「突抜忍冬 (つきぬきにんどう)」はチューリップと並んで、やや勢いがある…かも。昨年の我が家の庭は、こうだった:「庭の植物たちの息吹」 今年と比べ昨年の庭の賑やかなこと!
富山県、昨日は地震があった。富山は、地震が少ない県(の一つ)として、地元の人間もやや安心気味。実際、有感地震は、東京や茨城など多い県の10分の1以下。
(富山は地震が少ないってのは、たんなる思い込みではない。データが示している。しかし、地震はあるわけで、安心も油断も大敵であろう。)
生まれた瞬間から人は、それぞれの道を歩む。衣を着ない人はいない。
(ある人の「人はハダカで生まれ、ハダカで死んでいく」に対し。人が純粋に平等足りうるのは、生れる前か、死んだ後だろう。とはいっても、それも保証の限りにないが。尚、拙稿「早生まれの意味、生きることのなつかしさ」を参照願いたい。)
アメリカ(軍)当局が表立って乗り出すと、日本の右系の連中が過剰反応したり、変にナショナリズムの動きが加熱する懸念があるから、ハラハラしつつも、一歩引いて、まずは日本の対応を見守っている。アメリカ軍の配備の問題だけど、第一義には日本の防衛の問題でもある。
ハリマ・バシール/ダミアン・ルイス著『悲しみのダルフール』を読み始めている。語り手のハリマの割礼の場面は悲惨極まる。本書は、単にダルフール紛争に絡むテーマに留まらない、内容豊かな本だ。
(本書は、読むに値する! 訳もいいのだろうが、語り口が上手く、肝心のダルフール紛争の記述に至る前史も、それだけ取り出しても生き生きとした語りに引き込まれる。尚、本書の語り手が被った割礼は、「陰部封鎖」のようだ。悲惨なだけでなく、死亡率も高いし、妊娠に困難を伴う、野蛮な風習だ。)
残念ながら、キジ、オスかメスか分かりません。というか、見ただけで分かるものなの?
富山の住宅街で見かけるキジも、地元の方たちに大事にされてるのかな。車が通りかかっても、逃げようとしなかった。人懐こい?
(キジ関連拙稿に、「実朝やけんもほろろに生き果てつ」「弥一 キジに遭遇す」「焼け野の雉(きぎす)」「キジも鳴かずば打たれまい」と、四つもあることに、今、ネット検索して気付いた。これだけ日記のネタにさせてもらっているとは、キジには頭が上がらないね。)
今朝未明は、雨は小雨だったけど、強風、そして地震。富山では小さな地震が連発している。雨は我慢する、風にも耐える。でも、地震はゴメンだ!
(追記)先の規則により、「無線局が試験電波を出す際には『本日は晴天なり』を使うことと定められてい」るとか。英語では、「It’s fine today」が声の出具合を調整するのに良かったけど、そのまま訳して日本でも使ってきた。お役所仕事だ。
(「本日は晴天なり - 通信用語の基礎知識」など参照。)
「本日は晴天なり」って言うのは、総務省(旧郵政省)の無線局運用規則に従ってのこと。もともとは、英語の発声試験語の「It is fine today.」から来ているとか。
(「無線局運用規則」参照。)
← 今年は何故か内庭のカエデに目が向く。雑草はともかく、花々の不振に比べ、カエデに限らず、樹木は妙に元気。
市街地にキジがいても不思議じゃないのかな。住宅街なのに、何処に巣があるんだろう?
(「【雉の巣 その後】|南信州「いいとこ取りの田舎暮らし」」参照。)
一昨年、東京を離れ帰郷。家事と介護とバイトと草むしりの日々です。帰郷して五ヶ月で10キロ以上、痩せました。最近、リバウンド気味。細々、ブログは続けてます。メインはツイッターになりつつある?!
(10/05/07 作・編)
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