栗田勇著『花を旅する』から花の宇宙へ
過日より栗田勇著の『花を旅する』(岩波新書)を読んできた。
「一年十二カ月の「花」を一章ごとにとりあげ、花の名所への旅、そして文学、芸能、伝承にわけいり、時空を超えた花との出逢いから、花に託された日本人の心をさぐる」といった本。
← 庭の「アセビ」。
今日にも読了となる。
今、読んでいる本がややハード(素粒子物理学)なので、息抜きというと著者に失礼に当たるかもしれないが、気分転換に寝床でも読める本を図書館で物色してきたのだ。
まあ、我が富山でも、寒く且つ積雪・降雪に苦しめられた冬もようやく終わりつつあるので(…といっても、今朝も明朝も最低気温は一度か二度で、とても春を満喫できる陽気ではないのだが)、近隣の庭や畑などに春を感じさせる草花が目立ってきたから、思わず知らず本書を選んでしまったような気もする。
それに、前にも書いたが、栗田勇の著書を書棚で目にして、同氏(の本)がちょっと懐かしいという思いもあった。
確か、学生時代の終わりごろ、『一遍上人 旅の思索者』(新潮社 現在新潮文庫所収)を読んで以来、折々、同氏の本を読み齧ってきた。
この『一遍上人』を読んだときは、小生は哲学科を留年した年で、友人達は皆、順当に(?)卒業したり退学したりしてしまって、仙台の郊外の地で孤立した生活を送っていた。
立派な装丁の『一遍上人』を一遍上人に寄り添うように、というより著者(の文章や人柄)に接するように、格調の高い文章を読んでいたものである。
本書については、既にこの日記「書きつかれ筆置くころの藤の花」の中で言及・参照している。
しかし、新書の本とはいえ、実に内容が濃いもので、本気で参照してブログ(日記)を綴ると、花を巡っての随想は尽きることがなくなると予感される(予感というより確信かな)。
日本人の古来よりの草花への思い入れや、草花に触発される思いは、それこそ本書で見られるように、それぞれの花についてただならぬものがある。
そもそも、個別の種の花じゃなく、凡そ「花」という言葉を目に、あるいは耳にするだけで、人によってだろうけれど、随想の思いは広がり深まり、やがて瞑目に至るに違いない。
→ 明け始める東の空を横目に帰宅の途に。仕事でのトラブルに悩みつつ…。
たとえば小生には、「日の下の花の時」などという、比較的読まれた随想文がある。
どうも小生は、花を巡る古典に親しみ造詣を深めるより、花の、あるいは植物の生々しい生きる姿に惹かれるようである。
その証拠となるか、「日の下の花の時」から一部、転記しておく:
人間にとって多くの花が魅惑的であるように、あるいはそれ以上に昆虫にとっては、花(の蜜)はなくてはならないものだろう。昆虫が花に誘われるのは、両者の長い関わりがあるのだろう。
花は人間に好まれるように進化したのか。そういった花もあるのだろう。そうでなく、勝手に人間の生活圏に侵犯する植物は、たとえ可憐な花が咲くものであっても、雑草とされてしまう。
同時に昆虫に受粉させるべく進化した花もあるのだろう。人目の届くところで見受けられ愛でられる花の多くが綺麗なものなのは、分かるとして、人里離れた場所にある花であっても、美しく感じるのは何故なのだろう。単に花だから? それとも、昆虫などを魅するように進化したことが、たまたま人間の審美眼にも適ったということ?
昆虫による受粉の様子を写真と説明で。
さて、緑の葉っぱは、まさに陽光を浴びるべく進化を遂げた。紫外線に耐性を持ち、あるいは万が一、紫外線により遺伝子が損傷を受けても、修復する遺伝子も備わっていたりもするという。
それは、葉っぱだけではなく、花びらだって、そうした耐性などのメカニズムを備えているのだろうという。
そうでなかったら、そもそも咲きはしないのだろうし。
しかし、実際の花々を見てみると、花の命は短い。文字通り、儚い命を宿命付けられている。ということは、仮に(そして恐らくは)紫外線への耐性があったとしても、そのメカニズムは、葉っぱなどに備わる持続的な耐性(特に常緑樹)とは、自ずから違う脆弱なものである可能性も高いように思われる。
そう、蕾が開花し、満開になり、受粉、受精の時を迎え、蜜や香りなど(人間の目には美しく見える花の様子もなのだろうか)、さまざまな老獪なるテクニックを駆使して昆虫や鳥などに受粉の手伝いをさせる。その間は、植物にとっての生殖器を日のもとに晒す。生物にとってそこが損傷を受けると致命的でもあるはずの性器、生殖器を紫外線その他の危険にまともに晒してまでも、受粉受精の時を持つしかない。
蠱惑(こわく)の時、勝負の時、運命の時。束の間の装いの時。
身を誘惑と危険との極に置いてでも、次世代のために敢えて花を咲かせる。
あるいは、「ツツジの宇宙」なる拙稿では以下のように呟いている:
踏みつけにしようと思えば踏めるから、動物の放縦に逃げることも出来ない、だから、植物は弱い…。毎年のように植物は我々の目の前で、芽吹き、咲き、萌え、絢爛たる光景を現出し、やがて枯れていったり、萎んで目立たなくなったりする。命の儚さを勝手に思い入れしてみたりする…。
けれど、植物のことをいろいろ調べると、我々の感傷や思い入れを他所に、結構、したたかで逞しい生命力を持っているということをつくづくと感じさせられる。
たとえ、踏まれ萎み窶れ腐り土に返っても、それは束の間の急速の時に過ぎず、やがては次の世代の植物達の滋養となって吸収され取り込まれ形となり、つまりは蘇る。死と生との循環を日々、身を以って、われわれに教えてくれているかのようだ。
今、生きているものもやがては死ぬ。須臾(しゅゆ)の時を生きているに過ぎない。命の讃歌。命を謳歌すること。命とは生きていることというより、生成と衰滅の繰り替えしなのかもしれない。
風に舞う埃だって、やがては時を経る中で、何某かの形を得るに至るのだろう。塵芥であるとは、モノであるとは、形を得るまでの束の間の自由の時、慰安の時を満喫している、モノの仮初の姿なのかもしれない。
生命とは、どこかに偶さか蠢く何かなのではなく、宇宙に偏在する夢のようなもの。
ツツジやパンジーを際立たせる滴る緑の深い闇に、何か禍禍しいような、毒々しいような危険の予感を覚えてしまうのも、生きていることの土台としての大地、否、地球、否、宇宙の震撼たる沈黙を予感せざるを得ないからだろうか。
ツツジ。つつじ。躑躅。漢字でツツジを躑躅と表記する時、命の底の宇宙の豊穣さと永遠の沈黙を予感せずには居られないのだ。
だから、春は憂鬱なのかもしれない。そう、あまりに重苦しすぎて。
← 栗田勇著『花を旅する』(岩波新書)
本書についてまともに紹介できなかった。
下記のサイトが実に深く丁寧にフォローし参照されているので、是非、覗いてもらいたい:
「三月の花を旅する 椿の文化考」などなど(ホームページ:「猫頭」)
(10/04/03 作)
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