甘酸っぱい匂いの思い出
遠い遠い日、我輩が未だ学生だった頃のことである。
我輩も御多分に洩れず下宿では万年床であった。
ある日、田舎から梨を送ってきてくれた。一箱たっぷりの地元産の梨である。
→ 謎の館。敢えて画像は小さめに…。
が、生来の無精者の我輩は箱を開けずに万年床の足元に置いておいた。いつかは箱を開けるつもりではいたのだ。梨は好物である。食べないわけがない。剥いてさえあれば幾らでも食べるに違いない。
けれど、一向に手が梨の箱に向かうきらいがない。そのうちに段々、梨の箱が鬱陶しくなってきた。で、無視することにした。
かといって、気の小さい我輩のこと、箱を捨て去る決断力があるわけではなかった。それに、まだ、食べられるかもしれない…。
そのうちに何だか部屋の中が甘酸っぱい香りが漂うようになってきた。我輩は鼻の効くほうではないのだが、それでも匂うほどだから相当のものだったのだろう。
我輩は梨の箱をずっと置き去りにしていた。
甘い蜜の香りが漂うほどに至ってしまうと、もう意地である。何のための意地か分からないが、ともかく途中で止められないのである。
というより、実は内心、少々怖いのだった。
梨の山が箱の中でどう変化を遂げているのか、その実相を見るのが怖かったのだ。
何か得体の知れない小さな虫どもが蠢いている、そんな場面が嫌でも浮かんでくる。ダンボールの箱の底を蜜で蕩かして、ペースト状に粘った梨の成れの果てが畳をも犯してしまっている…。
そんな事態が容易に想像され、尚更、我輩は箱の辺りを無視した。その周辺は何もないものと心得ることにした。
気が付くと、敷きっ放しの布団の裾の辺りまでが、やや変色を始めている。
我輩は、それは単に我輩の不潔のせいにしたかった。
が、梨の熟れの果ての蜜が凍み出し、梨の函が蕩け、やんわりと布団に触れていることは否めない。
いつしか梨の詰まったダンボール函が我が部屋にやってきて随分と経った。
半年が経っていたかもしれない。
そう、我輩の部屋を訪れる人は、その間、幸か不幸か一人もいなかったのである。
いつかは現実に直面しなければならない。いつかは箱を開け、布団を剥がし…。
否、もう箱は箱の体をなしていないかもしれない。箱の下部が畳に溶け込んでいるような、どこから箱で、どこからが畳なのか分からない惨状になっているだろうし…。
正直に言おう。我輩はその後、梨や梨の函がどうなったのか、結末は一切覚えていないのである。布団だって腐っていただろうに。
こればっかりは誰に結末を聞くわけにもいかない。
そんな布団に意地で毎日、包まっていただなんて!
ただ、それから以後は梨でも何でも、贈ってくれたら即、その日のうちに誰彼となく分けることにしている。
幸い、ダンボール一杯の梨を送ってくれるような機会もなくなったし。
目の前に梨がなくなってしまえば、梨を剥いたり切ったりする手間が省けるし、何といっても部屋の中で腐敗する梨の異様に変幻する姿のおぞましさが脳裏に彷彿してやまない…という恐怖の日々を送ることだけはなくなったのである。
← 東京在住時代、仕事の途中の休憩場所の一つが芝公園だった。天気がいい時は、近くの夜の東京タワーの雄姿など撮ってみたり。
後日談というわけではないが、社会人になってからは、さすがに梨などの戴き物は、冷蔵庫に安置し、日々ナイフで剥いて食べるようになった。
少しは学生時代の悪夢が教訓になり、無駄にするようなことはなくなったのだ。
それにしても、あの頃、何故、梨を箱から取り出して、誰彼構わず配って回るという知恵が浮かばなかったのだろうか。
何か、精神的な窮状にあったに違いない、でも、今となってはその真因は探りようがなくなっている。
…甘い匂いの、甘酸っぱい思い出話であった。
(01/07/23頃に書いた。10/04/24加筆。艶っぽい話でなくて、すみません!)
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