オースター『ティンブクトゥ』の周辺
夏目漱石は、『吾輩は猫である』といった小説を書いた。
何度か読み返したが、読むたび面白く感じる。
← ポール・オースター著『ティンブクトゥ』(柴田 元幸【訳】 新潮社) 奇妙な題名の「ティンブクトゥ」。それは、飼い主が信じるところの、来世であり、「人が死んだら行く場所」の名。飼い犬が「理解する限りどこかの砂漠の真ん中にあって、ニューヨークからもボルチモアからも遠い、ポーランドからも、一緒に旅を続けるなかで訪れたどの町からも遠いところにある」。
さて、「我輩は犬である」といった類いの小説を書いた人がいるのかどうか、小生は知らない(多分、いるだろう)。
猫の感性や感覚も、恐らくは人間(常人)の想像を超えるものがあるのだろう。
それでも、身近な愛玩動物として、小説的空想を逞しくしてみたくなるのは分かる。
一方、犬だって猫に負けず劣らず我々人間に身近な愛玩動物である。
しかし、なんとなくだが、「我輩は犬である」式の小説は虚構しづらいような気がする。
犬というと、なんといっても嗅覚である。
嗅ぐ力が人間などの比ではない。
想像を絶する鋭さ。
嗅覚で見る(感じる、認識する、感覚する)世界というのは、想像を絶するものがあるのだろう。
我々人間の嗅覚の能力の数倍程度なら、何となく想像は可能かもしれない。
数倍が数十倍でも、不可能ではないかもしれない。
しかし、そんな次元の能力ではないのである。
だから、犬の認識する世界というのは、我々人間には(ほぼ全く)想像不能な世界だと思うしかない、と小生は思う(科学者とかは、どう考えているのか知らないが)。
例えば小生は以前、エイヴリー・ギルバート著の『匂いの人類学―鼻は知っている』(勅使河原 まゆみ訳 ランダムハウス講談社)を読み、「『匂いの人類学』の周辺を嗅ぎ回る」なる感想文を書いたことがある。
この拙稿の末尾の関連記事リストを見れば分かるように、小生は嗅覚や匂いの話題には敏感である。但し、我が嗅覚は鈍感の極みなのだが。
(ただ、ある思いがけない事態が小生に出来し、ほんの一時的に鋭敏な嗅覚(といっても、日常レベルを若干超えた程度だろうが)を持ったことがある。その際のドラマは、「匂いを体験する」にて書いたので、気が向いたら読んでもらいたい。)
詳しいことはリンク先の記事に譲るが、やはり案の定というべきか、本書はあくまで人類学に留まっている。犬などの動物の嗅覚については、いやそもそも嗅覚記憶の科学自体がいまなお途上とあって、考えるヒントすら得られなかった。
人間には犬など動物の嗅覚などの感覚世界は想像を絶すると書いた。
そうはいっても、科学者はともかく、小説家は、そんな禁忌や科学的自制など何処吹く風である。
アレッサンドロ・ボッファ(Alessandro Boffa)著『おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ』(中山 悦子訳、河出書房新社)は、「主人公ヴィスコヴィッツが様々な動物となって登場し、悲喜こもごもの生を語る20章。不完全雌雄同体カタツムリの愛など、それぞれの生態を生きつつ、人生の目的を求めて悩むケダモノの物語」といった本で、面白かった…けれど、小生には煮え切らないものを感じられてならなかったと告白するしかない。
あるいは、アマール・アブダルハミード著の現代小説『月』(日向るみ子訳、アーティストハウス刊)は、匂いに、それも女性のメンスの匂いに異常に敏感な青年が主人公の小説である。
小説として面白かったが、犬の嗅覚の世界云々というには、見当違いの本なのは仕方がないだろう。
テンプル・グランディン/キャサリン・ジョンソン著『動物感覚』(中尾 ゆかり【訳】 日本放送出版協会)は、嗅覚に焦点を合わせているわけではなく、文字通り「動物感覚」を扱っているのだが、本書の「著者が言うには、自閉症の人は、実は、普通の人には想像も及びつかない、多くは視覚上での豊か過ぎる世界に圧倒されているのだという」。
動物感覚の世界の豊饒さなんてものじゃなく、感覚の洪水に圧倒されている、そんな人間の悲劇。
実は昨日から読み始めたポール・オースターの小説『ティンブクトゥ』(柴田 元幸【訳】 新潮社)は、「犬の視点で、世界を描くことを成功させた、オースターの最高傑作ラブ・ストーリー」だそうで、この小説の面白いのは、飼い犬が詩人である(死の間近な)飼い主の気持ちを、言葉を理解できるという設定にしたこと。
…人間が犬の嗅覚の齎す世界を理解するより、犬が人間の言葉で認識する世界を理解するほうが、むしろ容易いのではないか、なんて思いたくなるほど、犬(一部の動物)の嗅覚(感覚)の世界は、人間には隔絶しているのだ。
とはいっても、オースターのこの小説を読み始めたばかりなので、感想については(書くとしても)後日。
せいぜい、小生などが想像できるのは、以下の程度である:
薔薇は外見だけではなく、香りあっての薔薇であろう。人によって好き好きがあるのだろうが、バスローブなどに薔薇の香などがほんのり含ませてあったりしたら、漂い来る香りだけで悩殺されてしまう。質のいい香水だと(めったにないけれど)、擦れ違った女性の余韻がずっと尾を引いてしまうこともあったりして。
それどころか、真に上質の香水だと、十年の歳月を経ても忘れられなかったりして。
野暮な話になるが、人間とは比較にならないほど嗅覚の鋭い犬は、この世を一体、どういうふうに見ている(感じている、嗅ぎ取っている)のだろう。
犬の記憶力がいいのかどうか、分からない。あるいは劣るのかもしれない。が、少なくとも匂いについては、一度嗅いだ匂いのことはずっと忘れないのではなかろうか。会った人、犬、猫、食べ物などはクンクン嗅いで、嗅覚の中枢にしっかり収められるのではなかろうか。
数分子の匂い成分でも残っていたら、嗅ぎ分けることができる。単なる視覚だけだと、人間にはあるいは敵わないのかもしれないが、嗅覚という能力で見られた世界の広がりという点では、人間は犬から見たら全くの鈍感野郎に過ぎないのだろう。視覚的には視角となる角を曲がった先の人や動物、一昨日、この道を通り過ぎた猫、何処かの家に勝手に入り込んだ奴の匂いの痕跡。
誰かが浮気でもしようものなら、ああ、この人、あの人と出来てる! なんて一発で分かる。町中の人の愛憎相関図など、犬は全てお見通し(嗅ぎ通し)で、肌の触れ合いの相関図をお犬様の意見を参考に描くと、複雑すぎて解きほぐしえないほどになるのかもしれない。
ただそれでも、無謀を承知で、というより、だからこそ、小説を仕立てる想像力の奔放さで、常人には隔絶した感覚の世界を描き込んでみたい、そんな欲求というか衝動に駆られるのである。
これも、ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』を読んで刺激を受けた、その余韻が生々しいからかもしれない。
関連拙稿:
「犬が地べたを嗅ぎ回る」
「動物と人間の世界認識/おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ」
「嗅覚の文学」
「「匂い」のこと…原始への渇望」
「自閉症と『動物感覚』と」
「アブダルハミード著『月』」
「匂いを体験する」
「あのゴミも浜辺に寄せし夢の文」
「匂いを哲学する…序」
「我がガス中毒死未遂事件」
関連拙作:
「金木犀の頃」
「天花粉」
「沈丁花」
「冬薔薇(ふゆさうび)」
「猫、春の憂鬱を歩く」
ポール・オースター関連拙稿:
「オースターそしてブレイクロックの「月光」(後篇)」
「オースターそしてブレイクロックの月(前篇)」
「「トゥルー・ストーリーズ」へ!」
(10/04/19 作)
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