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2010/04/14

パノプティコンってわけじゃなく

 野暮用で冨山港近辺のとあるビルに立ち寄った。
 その際、せっかくなので、前から気になっていた灯台を見学してみようと思い立った。

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← 「富山港展望台」 最大高が24.85m。「展望台から南西へ500mのところにある金刀比羅社境内の常夜燈(高さ約6mで北前船時代のもの)をモデルにしたもの」だとか。決して、パノプティコンのための施設じゃありません!

 車で傍は何度となく通りかかる。
 灯台といっても、観光用、それとも冨山港の開発の歴史などを案内する啓蒙のための、言うなれば広告塔である。

 車で見る分には大して高くもないし、それこそ高を括っていた。
 その塔には24メートルと表示してある。ふむ。

 塔の中は、思ったより広い。数十人くらいの観光客なら呑み込めそう。

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 それも、十数人は壁面の古地図や冨山港の歴史を綴ったプレートを眺めたりして立っているとしても、残りの半分くらいは、テーブル席に腰掛けることもできそう。
 エレベーターがあるのかと見回したが、どうやら、ない。
 まあ、いい、日頃、ガテン系のアルバイトをしている小生である、塔内の螺旋階段を登ろう。

 が、小生の読みが甘かった。
 24メートルといっても、あくまで地上から塔の天辺までのことで、塔内の高みまでは20メートルほど、楽に登れるだろうって計算自体が見当違いなのである。
 つまりは、大概のビルであれば、7階ほどの高さということになる。

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 階段を登っていく途中にめぼしいものがあるわけじゃなく、ただ淡々と登っていくばかり。
 別に急いで登るつもりはなかったし、足取りもゆっくりしたものだったはずだが、それでも、20メートルの高さにある展望のフロアーに辿り着いた頃には、ちょっと息が弾んでいた。


 一瞬は膝に来たかなと思ったが、そんなこともなく(帰宅してからドッと疲れが出たが)、息もちょっと弾んだが、上がることはなかった。
 それだけで済んだのは、体力勝負の仕事、といっても、力仕事ではなく、あくまで足と手を使う、ひたすら動く仕事をしているからであろう。
 20メートルの高さからの展望は、思っていたよりずっと眺望の効くものだった。

 海辺だし、冨山の郊外だし、近くに数階を越えるような高いビルがなく、家々は平屋か二階建てがほとんどである(富山の住宅は、敷地が広いから、市街地でもない限り、二階建てにする必然性も乏しいのだ)。
 掲載した写真画像を見れば分かるように、四囲を何に遮られることのない眺望が恵まれている。

 天気は束の間の晴れだったが(午後から曇天、そして驟雨)、昨夜来の雨が気温の上昇で蒸発して湿度が高まっている。

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 風もないので、綺麗な表現を使えば、春霞といった風情。
 立山連峰も、その眼下に分厚い雲を睥睨している。雨を予感させる雲である。

 
 時間的に海の風も凪ぎつつあったのか、風も和らいでいて、展望フロアーの板ガラス(アクリル?)の戸を開放して、海風を呼び込みたい気分だった。
 
 そうそう、この灯台(展望塔)から眺めたかったものに、船がある。
 この塔の脇を通りかかる際、鉄柵の向こうに船影が見えていたが、艦橋くらいは見えても、全貌が窺えず、いつか、全体像を眺めたいなと思っていたのである。

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 海。

 いつか、日記にも書いたが、海を前にすると、物心付いたころから幾分の恐怖感が湧いてきてしまう。
 というのも、ガキの頃、家族連れで海水浴に来て、浜辺で戯れたりしたことがある。
 冨山港に程近い岩瀬浜である。

 冨山には遠浅の海も浜辺もない。
 水際から十数メートルも離れない場所にテトラポットがあって、それは、消波のための設備なのである。
 そうでもしないと、波が高いし、浜辺の砂がドンドン抉られていく。

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 そうでなくても、立山連峰の三千メートルの高みから、富山湾の千メートルの深みまで、若干の平野部を伴いつつも、一気に陸地が沈み込んでいる。
 つまり、富山というのは、地上から海底まで四千メートルの落差を抱えた、世界でも有数の特徴のある湾を持つ地なのである。

 海水浴の際も、波打ち際から十メートルだって離れられない。 
 一歩、足を踏み出すごとに、恐ろしいほどの傾斜で海が沈み込んでいくのだ。

 子供心に、人を呆気なく容赦なく飲み込みそうな海に恐怖心を抱かずにはいられなかったし、実際、溺れかけたのだろうか、トラウマのようなものが残っている。
 だから、泳ぎを覚えたのも、四十歳になってからとなったのだろう…か。

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 しかし、同時に海への尽きせぬ思いと想像(空想・妄想)を掻きたててやまない、心の泉の源ともなっていったようだ。
 まあ、その辺りのことは別の機会にじっくり探ってみることとして、とりあえず、気にかかってならなかった謎の灯台(展望塔)を探検できて、まずは満足であった。

パノプティコン - Wikipedia
                                (10/04/13 作)

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