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2010/03/18

寺田寅彦「病院の夜明けの物音」の周辺

 末延芳晴 著の『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社)を読んでいたら、案の定というべきか、寺田寅彦の随筆の中でも珠玉の一つと思われる随筆が俎上に上っていた。
 それは、「病院の夜明けの物音」という作品。
 何度読んでもこの作品は絶品と感じる。
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 どのくだりもつい引用したくなるが、上掲書にも引用されている中で一箇所だけ、以下に示す:

 このようないろいろの騒がしい音はしばらくすると止まって、それが次の室に移り行くころには、足もとの壁に立っている蒸気暖房器の幾重にも折れ曲がった管の中をかすかにかすかにささやいて通る蒸気の音ばかりが快い暖まりを室内にみなぎらせる。すると今まで針のように鋭くなっていた自分の神経は次第に柔らいで、名状のできない穏やかな伸びやかな心持ちが全身に行き渡る。始めて快いあくびが二つ三つつづけて出る。ちょうどそのころに枕もとのガラス窓――むやみに丈の高い、そして残忍に冷たい白の窓掛けをたれた窓の外で、キュル、キュル/\/\と、糸車を繰るような濁ったしかし鋭い声が聞こえだす。たぶんそれは雀らしい。いったいこの寒い夜中をどんな所にどうして寝ていたのであろうか。今一夜の長い冷たい眠りからさめて、新しい日のようやく明けるのを心から歓喜するような声である。始めの一声二声はまだ充分に眠りのさめきらぬらしい口ごもったような声であるが、やがてきわめて明瞭な晴れやかなさえずりに変わる。窓の外はまだまっ暗であるが「もう夜が明けるのだな」という事が非常に明確な実感となって自分の頭に流れ込む。重苦しい夜の圧迫が今ようやく除かれるのだという気がすると同時にこわばって寝苦しかった肉体の端から端までが急に柔らかく快くなる。しばらく途絶えていた鳥の声がまた聞こえる。するとどういうものか子供の時分の田舎の光景がありあり目の前に浮かんで来る。土蔵の横にある大きな柿の木の大枝小枝がまっさおな南国の空いっぱいに広がっている。すぐ裏の冬田一面には黄金色の日光がみなぎりわたっている。そうかと思うと、村はずれのうすら寒い竹やぶの曲がり角を鳥刺し竿をもった子供が二三人そろそろ歩いて行く。こんな幻像を夢うつつの界(さかい)に繰り返しながらいつのまにかウトウト眠ってしまう。看護婦がそろそろ起き出して室内を掃除する騒がしい音などは全く気にならないで、いい気持ちに寝ついてしまうのである。

 本書を読んで教えられたのは、この小品が、夏目漱石のある随筆を念頭に置いて書いたのは間違いないという点である。

 その随筆とは、漱石の有名な「思ひ出す事など」である。

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 本書で筆者が引用している箇所を転記する(やや表記が違うが):

 修善寺が村の名で兼て寺の名であると云う事は、行かぬ前から疾に承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓を叩こうとはかつて想い至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気を憶い出す。
(中略)
 余は余の鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっと仰向(あおむ)いて、尻の痛さを紛らしつつ、のつそつ夜明を待ち佗びたその当時を回顧すると、修禅寺の太鼓の音は、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
 その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、自暴(やけ)に夜陰に向って擲きつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんと素気なく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳を峙だてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。やや久(しば)らくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうして愛想(あいそ)のない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の音の至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じく極めて乾び切った響が――響とは云い悪い。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打って直(すぐ)筆を隠したような音が、余の耳朶を叩いて去る後で、余はつくづくと夜を長いものに観じた。

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 著者によると、「寅彦も漱石も病に犯されて死の危機に直面し、片方はベッドのうえ、片方は蒲団のなかではあるが、夜明けの物音を聴いたことでは共通している。
 但し、寅彦は近代的設備を整えた病院で、スチーム管を流れるときに発する様々な近代的な音であり、漱石は、修善寺の僧侶が叩く太鼓という前近代的な音といった相違はあるとしても、と末延芳晴は指摘するのを忘れていない。

 別に二人に張り合おうなんて気はないが、ただ、入院生活だけは、物心付く以前からを含めて、一ヶ月程度の期間だし、末期の床というわけでもないが、経験している。
 病院の夜の長さをつくづくと感じたもので、特に幼い頃の(あるいは、その以前の)夜の底の深さが、自分の執筆活動の原動力(?)になっているのは否めない(というより哲学的衝動の端緒、というべきか)。

 例えば、小生には「真冬の夜の夢」という随筆とも創作とも付かない小品があるが、これも病床の体験を綴ったものではないが、遠くにその余韻を嗅ぎ取っても見当外れではない。
 ある意味、小生の執筆上での究極の動機は、物心付く以前の引き裂かれた身心を描くことにあるといっても、過言ではない。

赤い闇」も、最後は息切れというか、緊張感を持続しきれず頓挫した「青い洗面器」も、そうした執念に駆られた上での試みの一端である。

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← これって、梅の木? 桜…じゃないよね?

 敢えて覗く方もいないだろうから、「真冬の夜の夢」から一部だけ、転記して示しておく:

 唯一、俺が求めるものがあるとしたら、それは…赤だ! 
 深紅の滴り。血の涙。白い体を引き裂くメス。噴出する血と止まぬ涙。
 勘違いしないで欲しい。それらはみんな、俺がガキの頃に求めていたものだ。今となっては遅い。渇き切り罅割れた心を潤す何があるというのか。サラサラの大地。掴み所のないのっぺらぼうの白い闇。沙漠より渇いて止まない海。かの哲人がザラザラの大地と喝破したのは嘘っぱちだったのか。
 命の大河が滔々と流れる。黄泉の川。草原。ススキの原。それとも菜の花畑。何故に、死と生の狭間の原に広がるのは菜の花畑なのか。
 俺はよろよろと対岸を目指して歩いていった。否、歩いていこうとした。けれど、奔騰する闇の河は俺など呆気なく飲み込んでしまう。だったら、とことん深みへ溺れさせればいいのに、闇は俺を弄ぶかのように、渦に巻き、泡に弾き、波に打ちつけ、浮遊塵の宇宙へ舞い上げ、闇の河原へ叩きつける。
 奔騰する闇の河は、きっと命の川なのだ。失われた時を求めて彷徨う俺への天の恵みなのだ。そこまで分かっているのに、俺は背を向けた。形を失い色を失い音を失い温もりを失い肌を失い血を失い心を失った。
 お前が拒否したからではないか! 自業自得だぞ! そう、何者かが叫ぶ。遥か彼方から、耳元に囁くように叫ぶ。
 そうなのかもしれない。若気の至りで早まってしまったのかもしれない。あんなことをしなければよかったのかもしれない。衝動に身を任せてしまった、そのツケが回ってきたに過ぎないのかもしれない。
  だけど…、違うのだ。俺にはどうしようもなかったのだ。俺の力では何も出来なかったのだ。俺が間違ったとして、俺が愚かだということが俺の責任だと言うのか。頑迷固陋という俺の性分は天の配剤ではないのか。何も分からないということが、分かるということ自体が朧なのが、そんなに許し難いことなのか。やまない雨はないを、降らない雨はないとおちょくったことがそんなに悪いのか。だったら、何故、俺をこの世へ寄越したのだ。
 目を閉じ、心を閉じて、闇の河の滾る音に聴き入った。どす黒い血の洪水。それとも、嘆きの池から溢れ流れ出た滝の涙。
 それは音とさえ呼べない闇の流れ。どんな渇いた魂をも潤すはずの黒い河。ミイラのような人間をも賦活させる根源的衝動。何か分からない、もしかしたらその先は何もないかもしれない暗黒への意志。生への盲目的衝動。そう、生とは死の隠語に過ぎない。死へ向っての闇雲な疾駆。体を裏返し、腸をも引き摺り出す欲望。
 俺はその流れに逆らったのだ。違う、それは決して救いではないと見切ったのだ。だから俺は爪弾きの目に遭っている。ボイドの時空を際限もなく彷徨う羽目になったのだ。
 孤独という言葉の響き。なんて懐かしい。今の俺は何も感じない。ただ、ある。幽霊のように、ある。ないとは証明できないから、とりあえず、ある。そのようにして俺は変幻する宇宙を通過する。傷一つ、与えることも与えられることもなく。
 俺は目を閉じているだけのはずだ。目を開いたなら何かが見えるはずだ。そうだろ?! 俺は悪い夢を見ているだけなんだ。目覚めたなら、眩しい光が俺の脳髄を満たすはずだ。翳りなど欠片もないほどに光の海に溺れているはずなのだ。目覚めよ! 落ちよ! 
 けれど、覚醒の時は来ない。闇の海は果てしない。闇の河は、ただ流れる…。真冬の雨がいつまでも止まないように…。

                                (10/03/17 作)


関連拙稿:
寺田寅彦の周辺を巡る

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