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2010/02/21

シャベル? それともスコップ?

 一昨年の二月末に帰郷して、二度目の越冬。
 昨季の冬も除雪はしたが、それほど雪掻きに苦労したという印象はない。

 今季の冬も気象庁の長期予報どおりなら暖冬で、雪掻き(除雪)も、大したことはないはずだった。
 それなのに、ああ、それなのに、これほど日々、雪掻きで悩まされるとは。

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→ スコップの柄が折れてしまった。激しい作業を物語る。寂びたスコップを納屋から持ち出してきた。赤いのはプラスチック製のスコップ。新雪の場合は、シャベルの大きいほうが作業効率がいい。が、ちょっとでも雪が硬くなると(根雪とか)、もう、使い物にならない。左端の黒っぽいのは、車の屋根やウインドーの雪を払うブラシ。どれほどお世話になったことか。

 たださえ、家事やら介助(介護)やらで頭がてんぱっているのに、なんてぼやいてみても、誰も助けてくれない。
 敷地だけは広く、建坪だってそこそこにあるが、庭や畑が一人でカバーするには広すぎる。
 もとより畑や庭の大半は、もう、とうに除雪は諦めていて、雪掻き作業に勤しむのは、車や人のメインの出入り口となっている、表の庭、それもその一部である。

 玄関から車の通りまでは十数メートルほどか。
 玄関から向かって右手には蔵(ほとんど空)があり、屋根に降り積もった雪が瓦屋根からドンドン滑り落ちてくる。
 向かって左手側は、松や杉、棕櫚、キウイ、泰山木、梅、ミカン、ツツジなどがやや乱雑にあって、今年は暖冬を期待して雪吊りもしなかったので、雪に降り込められるがままに放置している。
 枝などがどれほど被害を受けたか、今の所、目を背けて観ないようにしている。

 玄関の両脇は、平屋の屋根(瓦)から、嫌というほど、雪が落ちてきて、積もり放題である。
 日の当たる場所だと、寒波と寒波の間の束の間の晴れ間や雨などでそれなりに溶けてくれるが、ほとんどが日陰になってしまうので、放っておくと根雪になる。

 雪が降ると、まずは玄関から表の通りに面する出入り口までの通路を確保すべく、せっせと雪掻きである。
 雪が終日降る日だと、少なくとも6回は除雪作業である。
 まずは、アルバイトから帰ってきた未明、朝食後、昼前、昼食後、午後の3時前後、夕方、そして夜、あるいはアルバイトに出る直前に車を出すために車の屋根や周辺に積もった雪などをどかさないといけない。
 まともにやったら5回や6回で済まないのだが、疲れ果てているし、家事などで時間が取れなくて、ほとんど諦め顔で、知らん顔を決め込む。
 サボった分、あとでの除雪作業が辛いものになるだけのことである。

 雪が激しく降る日は、せっせと雪掻きしても、ちょっと振り返ると、もう、路面が真っ白になっている。
 あああ、と溜息を吐(つ)きたくなるが、吐いたところでどうなるものでもない。
 
 雪が降る日は除雪作業をするのは当然として、上記したように、寒波と寒波の合間、雪が降っていないような日も除雪は欠かせない。
 というより、そういう日こそ、チャンスと心得て除雪する。
 屋根から落ちてきて堆積した雪、あるいは通路を確保するため、除雪した雪をどかすために、そうした堆積した山にさらに雪を乗せている。
 そんな除雪した雪の築山(?)を束の間の晴れ間の際に、少しでも溶かすべく、日陰から日向へと、移動させるわけである。
 表の通りには、融雪装置(消雪装置)…つまりは散水による消雪装置があるから、そこまで庭の雪を運べばいいが、それだって一仕事である。
 ほとんどの雪は我が家の庭の、当面は人や車の通行の障害にならないエリアにスコップで掻いて放り投げる。
 その際、少しでも日の当たる(時間の長い)場所に放るわけである。
 
 除雪作業には、屋根の雪下ろしもありえるが、幸いなことに、今年は例年より降雪量が多いといっても、積雪は最大でも(平野部なので)60センチを超えたかどうか、である。
 屋根の雪は、聞くところに依ると、(新雪の場合)積雪が80センチくらいまでは耐えられる、家が潰れることはないという(保証の限りではない。特に築半世紀を越えた我が家の場合は、どうなのか、考えたくない!)。
 なので、この十数年は屋根からの雪下ろしはやらなくて済んでいる。
 小生がガキの頃は、毎年、当たり前のようにやっていた。
 その頃は、最低でも一メートルの積雪量となったから、雪下ろしをしないわけにはいかなかったのだ。

 屋根からの雪下ろしのほかに、樹木や納屋などでの雪下ろし作業も欠かせない。
 雪吊りをしてあれば、多少は心強いが、それでも、幹ごと折れることだって、ないわけじゃない。
 特に雪吊りをサボった今年は、被害の全貌は見えないが、かなりのものである。
 雪が溶けると、折れた枝の哀れな姿が垣間見えてくるのだ。

 樹木が折れなくても、枝葉に積もった雪の重みで、樹木が撓んできて、道路などに覆いかぶさったりする。
 我が家の車も、庭の隅に置いてあるのだが、すぐ脇にある松などに積もった雪が、重みに耐えかねて、ドサッドサッと落ちてくる。
 庭はそこそこに広いのだが、樹木のないエリアは案外と狭いのである(車嫌いの父なので、車を置くことを全く想定しない庭の構図になっている)。
 
 表の通りは融雪装置があるのだが、それでも路肩付近は溶け残る。
 あるいは近くの地蔵堂の周辺も、折に触れて除雪する。
 地蔵堂の除雪は、我が家の面前に位置していることもあるが、誰もしないので、小生がやるしかないのだ。

 こうした雪下ろしは、あくまで余裕があったらである。
 まずは、家の玄関から表の通りへの出入り口までの通路の確保、これが先決なのだ。

 ということで、雪掻きや除雪作業は、雪の降る日だけの作業に留まらない、むしろ、根雪を溶けやすい状態に持っていく作業は、雪が降っていない日にこそ、やっておかないとならないのだ。
 結局、雪掻き作業は、雪が降ろうが降るまいが、ほぼ毎日、やるしかない、というわけである。

 これだけ頑張っても、その労苦が何の実りを齎すわけではない。
 父など、(たまたまその日が小雨の日だったからでもあろうが)デイサービスに行くため、久しぶりに庭の(小生が確保した)通路を通りながら、「雨や天気で雪が溶けたの~」と暢気なことを言う。
 歩くのがやっとの父のために、朝から何度も雪掻きしたなんてことは夢にも考えないらしい。
 小生も、自分が頑張ったから、これだけ雪の山が低くなっているんだ! なんてことは言わない。
 面倒なだけだ。

 雪掻きは、ただただ徒労な、実りのない作業。
 やって当たり前。
 やらなければあとで自分が苦労する。
 自分がやらなければ、誰か他の人の肩に労苦が圧し掛かる。
 そんな、雪が溶けたら、冬が過ぎたら、誰も話題にもしないような、当たり前すぎる、語りえないわけではないが、敢えて語るに当たらない、水の泡と消える営為があるばかりなのだ。

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← ヤマザキナビスコ の「クラッカー」 先月末より、このクラッカーが病みつき。と思ったら、かの「当たり前田のクラッカー」なるギャグで一世を風靡した藤田まことさんが亡くなった! 好きな俳優さんの逝去を予感していたのだろうか。ただただ冥福を祈るばかりである。 (画像は、「ヤマザキナビスコ 【製品カタログ・クラッカー】」より)

 不思議なのは、丑三つ時から夜明け前までのガテン系のアルバイトに加え、こうした雪掻き作業をやっているにも関わらず(家事・介護は当然だが)、体重が減っていいはずなのに、やや増加傾向にあることだ。
 雪掻きで腕など痛いほどだし、腰だって黄色信号が点滅し、肩や首など凝り固まってこれも痛いほどなのに、どうして体は引き締まらないのだろう。
 当たり前田…じゃないリッツのクラッカーを日々昼食後に食べるという習慣から抜け出せないでいるからなのか。
 あるいはストレス太り?
 頑張った褒美に、少しは体が引き締まってほしいものだ。
 
 まあ、何にしろ、今冬もそろそろ峠を越しそうだ。
 何とか今冬も乗り切れる…はずである。
 あとわずかを恙無く過ごしたい、今はそれだけを念じている。

                             (10/02/20 作)
 

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