複素数から虚構を想う
加藤文元著の『物語 数学の歴史』(中公新書)を読んだ。
その感想(にもならない感想)に過ぎないが、既に若干のことを書いた。
その稿を書きながら、以前、似たようなことを想ったことがあったし、思いつくがままに綴ってみたなと、探していたら、もう6年前となる拙稿が見つかった。
← 昨日までの寒気の緩みで、積もっていた雪の大半が溶けてしまった。シャベルで懸命に雪掻きしても消えない雪も、雨にはあっさり負けてしまう。けれど、今日からまた寒波の襲来である。天気の急激な変化を今日ほど感じたことはなかった気がする。昨夜半の曇りに始まって、雨、霰、雪、曇り、晴れ間、雨、霙、雪…。昨夜半には稲光と雷鳴。さすがに矢だけは降らなかったけど。
我ながら一向に発想が深まっていないのは情けないと感じつつも、やはり何かしら懐かしい気になってしまう。
虚の世界。ネットの世界はどうなのだろう。
時々、ドラマなどで、ネット(や携帯やパソコンなど)を嫌う年輩の小父さんが、あるいは評論家が、架空の世界じゃなく、現実の世界が大事とか、実際に会って話するのが大事とか、したり顔で言ったりする場面を目にすることがある。
しかし、今更ながらだけれど、虚といいながら、現実と引き合うほどにリアルであることは言うまでもないだろう。
そもそも、現実だって、人によっては現(うつつ)と喝破することがある。
別に自分までが、「世の中は鏡に映る影にあれや在るにもあらず無きにもあらず」とか、「現とも夢とも知らぬ世にしあればありとてありと頼むべき身か」(『金槐集』)とか詠った源実朝ほどに透徹した世界観を標榜するつもりはないけれど。
(以上、10/01/23 記)
今時の高校ではどうか分からないけど、小生が高校生の頃は、数学では複素数を習う。
小生、訳もなく複素数の登場にワクワクしたものだった。やっと、本物の数学に触れられると、初心な小生は、教科書や黒板などに複素数(iという記号)という言葉が踊るだけで胸躍らせたものだった。
が、さて、理解できたかと言うと、とんでもなかった。一応、教科書に書いてある記述は、フォローはできる。が、なんだか、分からない。掴み所がない。参考書を読んでも事情が変わらない。
そこで、小生は、遠山 啓著の『数学入門 上・下』(岩波新書)を入手。なんとなく分かったような気がした。
尤も、そこで分かったことは、ただ一つだったかもしれない。それは、複素数というのは、誰かから教えられたようには、あるいは字面から受ける印象とは違って、決して虚構の数、計算上、数学の体系上の都合で便宜上<存在>する数なのではなく、<実在>する数なのだということ。
ある意味、このことは、小生の凡脳では理解が及ばないと直感しつつも、単に数学に観念を限ってさえも、とてつもなく巨大な、掴み所のない世界が広がっていることの啓示だった。
啓示…。そう、そのような言葉を使って表現しても、必ずしも大袈裟な体験ではなかったように思う。
小生、この数年は特に虚構作品の制作に熱中している。その際、現実の体験には拘らないということを旨としている。
その意味は、決して現実を無視するとか、現実離れした物語を構築するということではなく、現実が人間の(実際には小生の)限られた能力、想像力、妄想力、五感(感官)に制約されているのだとしても、取りあえずは、現実の背後の、現実を囲繞する、現実をその中のほんの極小の点にまで相対化させてしまうところの、想像を絶する空間の端緒であり入り口として大切なのであって、そこから先には、意想外の虚構空間が広がっているのだと常に思いながら虚想を練るようにしているという意味である。
自分の中の規範や固定観念や常識や情念などクソ食らえと虚構の海に飛び込んでいくのだ。
複素数を知った時と似たようなカルチャーショックというと、陽電子の発見のドラマがある。実際には発見したのは、アンダーソン(ら)ということになるのだろうが、理論的には、ディラックが反粒子の理論を導き出している。このディラックがこの概念を導き出す過程が、ファンタジックなのである。
あるいは中間子の理論と、その発見。
現実の時空においても、というか、人間の情念、生物の存在、あるいは物質についてさえも、恐らくは、まだまだ概念・観念・理論・情念の拡張の余地がある…。
そう思うと、眩暈の生じそうなほどに官能的になり恍惚とさえしてくる。
それにしても、人は分かるもの、感じられるものしか分からないし感じられない。複素数にしても、紀元1世紀の頃、アレキサンドリアの数学者で発明家であるヘロンが、既に負の数の平方根について思いを巡らしていたという。
ということは、小生などがやっとのことで、それも、朧にしか感じられないでいる複素数の観念も、二千年昔の人物の脳味噌に萌芽した観念にさえ敵わないということ。このことを翻って考えると、現代の数学者が考えている数学の観念など、想像を絶するということだ。
同じことが、あるいは、文学や芸術にも言えるのかもしれない。単純な比較も連想も愚かしいことだろうが、数千年前の誰かの頭か胸に感じた情愛なり美の観念なりを小生如きがやっと仄かに感じているだけなのかもしれない。
現代の芸術作品を見て、あるいは音楽に触れて、それなりに感動しているようなつもりになっていても、実は、とんでもなく素朴で、もっと言うと原始的な地平で、勝手に分かったようなつもりでいるだけなのかもしれない。
隣りにいる感受性と知性とに優れた方が、海の彼方の、あるいは海の底の神秘と美と抽象的な、しかし、彼には実感している調和を見詰めているというのに、小生は、波飛沫に感動し、あるいは波打ち際の貝殻を拾って、その模様を見て、ああ、綺麗といっているようなものだろうか。
そうはいっても、自分の頭と心で何事も対処せざるをえないのだから、どんなに人に遅れた道であっても、自分の足でトボトボ歩いていくしかないのだが。
(04/05/31 作 「国見弥一の銀嶺便り - メルマ! 04/07/02 vol.338」より)
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