虚構というロマン
自分が数年前に書いた日記を探していたら、目当てとは違うのだが、ちょっと懐かしいエッセイに行き当たった。
創作熱が昂ぶっていた頃の、自分でも気恥ずかしくなるような内容であり文調である。
→ 買物帰りに近くの公園を見たくて遠回りしてみた。すると、その反対側にある田圃に目が止まった。積もっていた雪が一時的な寒気の緩和で溶けて、「稲孫(ひつじ)」の田となっている光景なのである。
ほんの数年経っただけなのだが、今では到底、書けそうにない気がする。
その意味で少なからざる感懐を以て読み返すことになってしまった。
生活に疲れたというわけではないが、涸れ果てた心が少しは癒える日が来るのだろうか。
といっても、当時にしても案外に醒めている面もあって、今はそのエアポケットの一番、深いところに嵌まっている状態ということなのかもしれない。
問題は、そこから這い上がることが出来るのかどうか。
あるいは現状が実は楽だし居心地がよかったりするのでは、なんてことも思ったりする。
(以上、10/01/22 記)
「虚構というロマン」
虚構とは何だろう、なんて大袈裟なことを考えるつもりはない。また、その能もない。ま、虚構という言葉をめぐって気侭に散歩してみようというだけのことである。
分からない言葉の語義などを調べる際には重宝する「広辞苑」。地図代わりに「広辞苑」で「虚構」を調べると、「事実でないことを事実らしく仕組むこと。また、その仕組んだもの。作りごと。フィクション。」とある。
これを読んで成る程! と納得すべきなのか。それとも、語義について一般的な説明を施すのが役目の「広辞苑」に「虚構」などという微妙というか、人それぞれにその人なりの受け止め方なり印象なりを抱いて構わない言葉の説明を求めるのが最初から無理のあることなのか。
ただ、それでも虚構という言葉は一人歩きしている。小生も分かってなどいないくせに、時折、そんな言葉などを持ち出して、一層訳の分からない世界へ舞い上がろうとする。
土台というかブロックとして使われる基本の言葉である「虚構」への理解が曖昧だったり、いい加減だったりするのに、そのコンニャクよりプヨプヨのブロックを積み上げて、空想の楼閣を作り上げようとする。
「事実でないことを事実らしく仕組む」そのように説明されると、分かったような気がするが、しかし、では事実って何? となると、たちまちスコラ哲学的泥沼に落ち込んでしまう。小生なども、たまに虚構作品を書くことがあるが、さて、では小生は虚構ということを意識して創作しているのかというと、実のところ、そうではない。
一応は事実なり思い出なり、その日に得た印象なり感情の揺らぎなどを糸口に作品作りの世界に突入していくのだが、その意味で、とば口としては、実際にあったこと、少なくとも現にある感情の揺らめきに縋って、その揺らめきに沿うような言葉を選択したり、あるいは沿わない言葉を排除したり、逆に感情とは全く裏腹の言葉を敢えて使うことで作品に陰翳を施してみたりする。
つまりは、書く端緒においては現実の世界との繋がりが多少なりともあるわけである。どっちにしたって、書く自分が現実の世界にいるわけで、その厳然たる事実は微動だにしないのだろうから。
が、一旦、自分の抽斗から何某かの言葉なりフレーズなりが空白の画面にポツンと置かれると、もう、そこには現実とは懸け離れた世界への誘惑の魔力が働き出す。自分としては過去の体験か、その日の印象を忠実に描こうと思うのだけれど、言葉は、悲しいかな(それとも有り難きかな、かもしれないが)、描かんとした何か、物質的恍惚たる情感の世界とは決してぴったりとはそぐわないし、サイズが合わないし、ここにある肉体としての感情に出来合いのスーツを選んでむりやり着せ掛けようとするようで、体がぎごちなくなってしまう。
という以上に、空白の時空に置かれた幾つかの言葉は、勝手な存在感を主張し始めてしまって、端緒にあった描かれるべき事実や現実の感情を尻目に、選択された言葉が命を持ち始める。蠢き始めてしまう。
言葉には全てにきっと命があるのだ、その言葉なりの時空への牽引力が備わっているのだ、その言葉なりの歴史があるのだ、そう思えてならなくなるほどに、言葉の持つ現実感というのは小生には凄まじく感じられてならないのである。
このように書くと、小生の実生活の持つ現実感の乏しさを嗅ぎ取ってしまう向きもあるかもしれない。生活が侘しかったり、精神的な中身において貧相だったりして、つまりは、現実の生活より言葉のほうがはるかにリアルなのだ、言葉に圧倒されてしまうほどに小生という人間が現実から一歩身を引いてしまっている姿勢が透けて見えてしまう…。
そう言われると、小生はあっさりと引き下がるだろう。
そういえば、学生の頃、サタイアの精神で文学や思想をと息巻く友人の前で、小生は、リタイアの精神だ、なんて冗談めかして口走ったことがある。
サタイア、つまりは諷刺の精神ということなのだろう。それに対しリタイア。何とも切ない情ない精神である。
が、その時、思っていたことは、現実という世界(と書きながら、その世界も輪郭が定かであるとは言えない)を軽く囲繞してしまう虚の世界の奥深さというものだった。というより、世界は想像を絶するほどの我々には虚としてしか、もっと卑近な表現を採ると闇の世界とか曖昧な世界、ありえない世界、ありえるはずもない世界、かつてあったこととは違う世界、息絶えてしまって声を発するなど思いも寄らない世界、妄想の鳥には羽ばたこうにも気の流れの元などない世界の錯綜した世界の予感としてしか思い浮かべることのできない、そうしたものとしてしかありえないのだろう。
そうした世界こそが、圧倒的に<ある>のであって、我々が見聞きしえる現実の世界というのは、そうした白と黒の溶暗の海に辛うじて浮かぶ小島ほどのものなのだと感じてしまうのである。
ホームレスの人が公園の植え込みの奥で絶命する間際に何を思ったかなど、誰にも決して分かるはずがない。事実などに定着などするはずがないのだ。水子として闇から闇に流される命の塊は、言葉とは無縁であり、沈黙の海の底深くで何を思うかなど、誰が知ろうか。殺されたものは皆、沈黙の海に沈んでいく。弱き者は強き者の強弁の巌に押し潰されていく。今わの際(きわ)の悲鳴さえ聞えない。
見上げた空の彼方、踏み締める大地の裏側、目を閉じてこそ仄見えてくる赤黒い闇の海の底、吐いても吐いても吐き尽くせぬ嘆きの腸を抉る潰瘍という悲しみの塊、風に吹かれ散り敷く枯れ葉の堆積、オンリーワンなど夢のまた夢である屑か塵たちの吹き溜まり、何処かの瀟洒なマンションの一角の開かずの扉の向こう側、駅のガード下の壁に擦り込まれた肉の欠片、そのどこにもロマンがある。
ロマンを信じるとは、1プラス1が2よりも膨らみを持つことを信じること。
← 昨年末の夜、窓を開けたら雪が降っていた、という光景。ついアダモなんかの歌を口ずさんでしまう。そんな歌を思い出すなんて、我輩もセンチだ……と思ったら、一昨日、ラジオで聴いたばかりだったのだ。
虚構作品を綴るというのは、事実ではないことを事実らしく描くのではなく、事実や現実や想像や妄想や、ありとあらゆる<我、思う>ところの想念の時空、想像力の複素時空を、もっともらしい言葉の連なりに、つまり事実らしい形に定着してみせる営みなのだと思う。
人が思うことそのもの、人が思い感じ表現することは、ただそれだけで得体の知れない何事かの連なりの島、掴める筈もない闇の海に浮かぶ島を目掛けての航海、言葉には決してならない、まして事実とか事実ではないという括りとははるかに懸け離れた世界への旅のことなのだと思う。
虚構とは言い得て妙な表現だと、つくづく思ってしまう。<われ>を圧倒する見えざる聞こえざる感じられざる触れえざる闇の海から、今にも引き千切れそうな蜘蛛の糸に縋りながら、その大海のほんの一滴を掠め取る営為なのではないかと想ってしまう。事実とは無縁の虚の世界のもやもやした雲を言葉の島に停泊させること。虚を形に瞬時にして量子力学的崩壊させること。
自分などというものは、闇の宇宙と空白の時空の交差する一つの契機なのだろうと感じる。
ほんの時折、空白の時空にもう一つの宇宙が擦過する際に走る火花を見かける。その見かけた閃光の一瞬の煌きをそのままに手中にしたい。その意味で、虚構の空間とは、小生には、ロマン漲る夢の時空なのだ。
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コメント
掲記話題と別話題のお知らせですみません。
拙ブログの「天神様話題」に、やいっちさんの旧稿をリンクさせていただきました。が、その項でも書きましたが金沢では天神様を正月に飾る風習が無いなどまだまだこの地の天神信仰については詳細な研究が必要なようですね。
金沢の鏡餅が紅白なのも(それを越中の地では引き継いでいません)おもしろい現象です。
投稿: かぐら川 | 2010/01/23 20:58
かぐら川さん
旧稿にこうした形で脚光を浴びさせてもらえるというのは、とても嬉しいことです。
「天神様信仰と梅の花」
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/essay/ume-02.htm
例によって、書き殴っただけに終わっているテーマを、丁寧にフォローされていて、さすがだと感じます。
というより、「金沢では天神様を正月に飾る風習が無いなどまだまだこの地の天神信仰については詳細な研究必要」と、認識させていただいて、探究心の足りなさを痛感しております。
金沢の鏡餅が紅白ってのも、教えていただいて初めて、隣県でも違うんだなーと気付かされました。
ただ、昔は、おモチといっても、ピンク(紅)とか緑とか、何色か作ったのを思い出します。
投稿: やいっち | 2010/01/24 13:05