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2010/01/13

酸っぱさもちゅうくらいなり木守柿

 一昨日、「鳥餌果実のつもりじゃないのだが」なる日記を書いた。
 ちょっと関連した日記を書いておく。

 我が家の裏庭に育つミカンの木。

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← 鳥…ハト(?)の後ろ姿。雪化粧の野を見渡しても、餌はなかなか見つけられない。

 秋ともなると、結構な数の実がなる。
 土壌も弄っていないし、肥料も施していないのに。
 だから、食べるとちょっと酸っぱい。
 でも、スーパーの店頭に並ぶミカンは大半が妙に甘口だったりする中、むしろ、この酸っぱさが新鮮に感じられたり、ずっと昔のミカンってこんな味じゃなかったっけ、なんて思われて来る。

 そのミカンの木の実。
 家人らに言われ、一昨年の失敗に懲り、昨年末の収穫の際、十個ほど、残した。
 別に残す理由があったわけでも、家人に理由についての説明を受けたわけではない。
 ただ、「幾つかは残すことになっている」とだけ、聞いた。
 あるいは、ちゃんとした理由があるのかもしれない。

 ただ、ミカンの実を雪の舞う頃になっても残しておいたことで、木の実や虫などの乏しくなってきた中、いろんな鳥たちの餌にはなっていたようである。
 実際、何度か、鳥がミカンの実を啄ばむ光景に遭遇している。
 意図的に、鳥餌果実にしようと思ったわけではないが、そうなるのだろうな、とは思っていて、期待通りで、意外性はなかった。

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→ 我が家の裏庭のミカンの木(昨年末29日撮影)。

 さて、そんな記事(日記)に戴いたコメントで、ある方から「木守柿(きもりがき)」という言葉のあることを教えてもらった。

 そのコメントには、以下のようにあった:

昔、この国の人は柿の実を必ず少し残したそうです。それは飢えた旅人のためとも小鳥のためともいい、「木守り」という美しい言葉も残しました。

 我が家には、ミカンのほかに、松や杉やシュロ、ユリノキ、夾竹桃、南天、梅などなどいろんな木が植えられている。
 家の中から窓越しに庭木などを眺めるのは風情があるものである。
 けれど、どんな木より、小生は柿の木を眺めるのが好きだった。
 晩秋の澄み切った、高い青空を背景に、柿の木に残る数個の色も鮮やかに朱色の実。
 たまらなく寂しい、でも何故か心に染み渡る静謐さ。
 中高生の頃、やはり秋も深まった頃、授業中に窓外のイチョウの木の黄色い葉っぱが日の光を眩く照り返す、そんな光景をずっと眺め入った、そんな思い出と比高できるほどに鮮烈な光景だった。
 そんな光景が好きだったのである。

 …好きだった。
 そう、我が家にはもう柿の木は一本もない。
 裏庭の隅っこに大きな柿の木があったが、その一角は既に人手に渡ってしまって、他人の家の庭となっている。
 その庭には柿の木がある。
 が、まだ若そうな、小ぶりな木である。
 小生がガキの頃に眺めた、大きかった柿の木は、伐採されたのか、他へ植え替えられたのか、何処にも見当たらない。

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← 昨年末には未だ実が残っていたのだが、正月を過ぎた頃には、皮を残して、綺麗に平らげられていた!

 やはり人手に渡った田圃…今は畑に変貌している…の一角にも柿の木があるが、それも背は3メートルもあるかどうか。
 畑と化した土地の隅っこに隣家のブロック塀に迫るように立つ柿の木は、今は誰も見向きもしない。
 畑はある家の土地だが、管理は他人に任せているので、畑は近所の方が使うとして、田圃なら畦(あぜ)に当たる辺りに、肩を窄めるようにして立つ柿の木は、誰も手が出せない、出さないのである。
 小生もただ遠くから見守っているだけ。

 梅雨から秋口にかけて、アメリカシロヒトリにやられそうになったら、その義務はないのだが、防虫剤を撒布して守っている(一昨年は、対策が遅くて柿の木の実が枝ごと全滅の惨状を呈したので、昨年は早めに手を打ったのだ)。
 御陰で昨秋は柿の木に実が随分となった。
 秋になっても柿の実は鳥たちは相手にしない。
 他に一杯、木の実も虫もいるから、後回し、というわけなのか。
 食べたことはないが、その見棄てられたようにして育つ柿の木の実は渋柿なのだろう(推測なのだが)。
 だから、カラスやハトを含め、鳥たちも眼中にはないのだろう。
 
 しかし、雪の降る頃ともなると、事情は違ってくるようである。
 最初は、嫌々のように、嘴で突っ突くだけ。
 仲間の鳥が他にいい場所(獲物)を見つけたら、さっさと飛び立ってしまう。

 そのうちに、切羽詰ったのか、丸ごと食べるようになり、或る日、柿の実は一個も残っていないことに気付くわけである。
 そんな頃になっても、我が家のミカンの実はほとんど啄ばまれることはない。
 柿の実が皆無になった頃、幾つか喰い散らかされるが、まだ実が残っているのに、木の枝に垂れ下がっていたり、あるいは地上にミカンの実の残骸が数個、転がっていたりする。
 まだ、よほど酸っぱいのだろう。その頃に、知り合いに一個あげたら、後日、「酸っぱくてたまらんかった」と言われた。
 鳥だって食わないわけである。


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→ 茶の間の窓越しに納屋の近くに止まるハトを撮る。鳥の後ろ姿って、寂しげに見えるのは何故?


 それも、年末ともなると、酸っぱさも中くらいになるのか、まずまずの味わいの実として人の口にも入るようになる。
 となると、鳥も目ざとい…というか舌ざといというか、鳥たちは先を争うように残り少ないミカンの実を啄ばみ、食い尽くそうとする。
 実際、見てみると、ミカンの皮を残して、実は綺麗に貪られている。
 やや酸っぱめの我が家のミカンの木は、鳥たちの最後の餌場であり、実は彼らの最後の餌なのだろうか。

 ということで、少なくとも柿の木の実は、意図的に残してあるわけではなく、事情があって、見向きもされないが故に残っているのだが、結果的には「木守柿」になっているわけである。

閑話抄 柿」によると、【木守柿】とは:

 柿の実を全て採らずに残しておくことがあります。これを「木守柿」といいます。 『来年もよく実りますように』という意味で残しておくわけです。または鳥たちへのお裾分けという意味もあるのではないかと思っています。

「木守柿」は、秋の季語扱いだったり、冬の季語として扱われていたりする。
 小生は、光景からしても、冬の季語と思い込んでいる。
 秋だったら、他に一杯餌があって、ミカンもだが、柿の実など、鳥たちは見向きもしないから、である。
 あるいは日の光をたっぷり受けて、実の熟するのをじっと待っている…のだろうか。
 晩秋から初冬になって、幾分なりと甘みも加わってくる頃、一斉に食い漁る…のだろうか。

 蛇足の好きな小生、せっかくなので、駄句を一つ:

酸っぱさもちゅうくらいなり木守柿     (や)

                                    (10/01/12 作)
  

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コメント

 木守柿。
 そんな言葉があるのですね。

 昔私の実家にも柿の木があり、その木を見上げて私の母も同じようなことを言っていました。

 ただし言っていた言葉が。


 「木の高いところの柿は無理してとらない。鳥のために少し残しとく」

 子供心に、ただ単に高すぎてとれない、あるいはめんどくさいだけじゃ・・・・・・?と思っておりました(笑)

投稿: RKROOM | 2010/01/13 23:09

RKROOM さん

「木守柿」という言葉は、小生も今回、教えてもらって初めて知りました。

でも似たような発想は、我が郷里の富山に限らず、各地にあるものと思われます(推測の域を出ませんが)。

刈り尽くさない、取りきってしまわない、多少は次のために(かどうかも不明だけど)残しておく。
次に、来年に繋がることを漠然と期待して…。

悪く言えば中途半端ですが、この徹底しない、中途半端さに島国日本の、文化や民族の多様性の秘密を解く鍵があるかも…なんて、大袈裟なことまで考えたりして。


「木の高いところの柿は無理してとらない。鳥のために少し残しとく」ってのは、子どもへの教え諭しであり、面倒さを負け惜しむ言葉であり、まあ、いろんな意味がある。
年齢ごとに理解が変わっていくってのも、面白いかもしれないですね。

投稿: やいっち | 2010/01/14 20:42

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