「天神様信仰と梅の花」再掲
過日、8年ほど前に書いた旧稿である「天神様信仰と梅の花」にちょっと脚光を浴びせてもらった。
「短詩・樹花たまには歴史の歳時記」である「めぐり逢うことばたち」を運営されているかぐら川さんが同上ブログの記事で参考記事として紹介してくださったのである。
嬉しい反面、ちょっと忸怩たる思いも過(よ)ぎった。
← 昨年の正月の奥座敷の光景。父が整えた。「12月25日から1月25日に飾るのが本来」だが、今年は、飾りを片付ける必要はなかった……。 (画像は、拙稿「年越しの銭(?)はありません!」より)
上掲の拙稿の冒頭で、「小生の郷里、富山は、天神様信仰が古来より盛んでした」とあるが、これが実に問題なのだと気付かされたのである。
そもそも「我が郷里・「富山」は、天神様信仰が古来より盛ん」だとして、その富山とは富山県(全県)なのか、富山市なのか、あるいは富山と言いながら、実のところ、小生の近隣(近所)だけってことはないのか、などなど、曖昧なのである。
天神信仰は、富山(のどの辺りなのかは別にしても)だけではなく、全国各地(複数の地域)にあるらしい。
その辺りを小生は全く調べないまま、放置してしまっていたのだ。
この点については、例えば、「天神信仰 - Wikipedia」では、天神様を祀る風習について以下のように記されている:
これ(天神信仰に関わる風習)は幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、石川県など前田藩の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。
問題点など、調べるべきことも含め、改めてかぐら川さんのブログ記事(「天神様をお送りする」や「「天神祭」の不思議」など)を読んでもらうとして、再掲となるが、拙稿を旧稿のままに改めて本ブログに載せておく。
(以上、10/01/25 記)
小生の郷里、富山は、天神様信仰が古来より盛んでした。
信仰と書くと大袈裟ですが、でも、旧家などでは座敷に天神様の掛け軸が、正月などには掛けられることが結構、今でも見られます。
実際、小生の家でもそうです。尤も、子供の頃は何故、こんな掛け軸が仰々しく鎮座しているのか、分からないままにボンヤリ眺めているだけでした。
恐らくは、幾度となく父からその天神様の掛け軸の由来などを説明されたと思うのですが、生来のボンクラ者で、左の耳から右の耳へ通り抜けるばかりだったようです。
その天神様のことについて、改めて関心を持ったのは、今年、大河ドラマで放映されることが決まった「利家とまつ」の御蔭です。
小生の家は、富山といっても富山市なのですが、県の西部である高岡市は加賀の領地でした。まさに加賀百万石の文化や歴史の香りを高岡市近辺までは、たっぷりと享受してきたのです。
その加賀つまり、前田家は、菅原道真の末裔と自称しています。江戸時代の初期に、徳川家から、徳川家同様源氏の末裔を称するか、あるいは平家の末裔を称するかを迫られた時、前田家は、深謀遠慮だったのでしょうが、菅家の裔を選択したのです。その前は源氏を名乗ったことも平氏を名乗ったこともあったのですが。
これは、源氏にしても平氏にしても武家の棟梁なのですが、菅原の裔を自称するということは、我が前田家は武よりも文を重視するという宣言のようなものだったのでしょう。つまり、決して徳川家には背かないという意思表示だったわけですね。
そうはいっても、前田家はその文化重視の政策を採りながらも、いざ鎌倉の精神は決して忘れなかったようです。
例えば、高岡の銅器にしても、戦のための武器を作る技術の研磨を何処か意図していたようですし、城などの材料に鉛を使用し、いざ、戦争となったら、鉛を鋳直して玉にすることができるようにという心構えがあったといいます。
ところで、前田家が菅原道真の後裔を系図上、選んだのは、別の理由がありました。
それは、前田家の祖先が、菅原道真の子孫が移り住んだという伝説の残る荒子に居住したという、これまた伝説があったことです。
だから、菅家の後裔を自称したとしても、一応は、もっともらしくはあるわけです。
そういうわけで、富山、特に県の西部を中心に、天神信仰が、前田家の支配と重なるようにして、広まったわけですね。
さて、小生の生まれた富山市は、加賀藩の支藩であり、実際には、徹底して年貢などを絞られ、貧窮を極めたと聞きます。当然、文化的土壌など育つ余裕などないわけです。当然の如くして、富山市(富山の東部)は、実利一辺倒になりがちなのでした。
この点からすると、富山の東部の人間は、加賀の地の経済や文化の繁栄を遠いものとしてみてきたわけですし、小生も、素直には前田家を(県の西部の人間ほどには)眩しくは見ることが出来ないのです。
これは、万葉集の編者である大伴家持が、都から遠ざけられた時、数多くの歌を詠ったのが、これまた県の西部である高岡の地であることとも、重なって、一層、富山の東部の人間は西部を妬ましいような羨望の念で見ざるを得ないことに繋がってるのです。
それでも、富山の東部のわれわれも天神様信仰に染まっているというのは、それだけ、文化に飢えていて、藁をも掴む思いで、富山市だって大きく見たら加賀の領地だったのだ(これは間違いではないのだが)、文化の遠い影響くらいはあるのだと思いたい気持ちの現れのように、小生は感じます。
富山市など東部の人間は、文化に関しては鬱屈しているのですね。
小生の生まれた時、学問の神様である天神様にあやかるべく、大枚をはたいて天神様の掛け軸を、専門の業者に依頼して作ってもらっていたわけです。その霊験あらたかだったかどうかは聞かないで戴くとして、このところチラホラと咲き綻びかけてきた白や桃色の梅の花を見かけると、東京に在する小生は、郷里を、そして郷土の者の屈折した心情を思い出したりするのです。
今も郷里からはお袋の手作りである梅の漬物を送ってくれます。その梅は我が家の庭で取れたものと聞いています。だからでしょうか、酸っぱい梅を御飯と共に食べる時、一層、心に酸っぱさが沁みるのです。
前田氏と菅原道真については以下のサイトを参照:
「武家家伝_前田(利家)氏」
(02/01/26 作)
参考:
「笑説 越中語大辞典~て てんじんはん」
「天神信仰 - Wikipedia」
関連拙稿:
「酒井美恵子著『加賀百万石物語』を富山の人間が読む」
「於保多神社…富山に天満宮 ? !」
「東風吹かば」
「都良香の涙川」
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