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2010/01/31

「やいっち純情句集」より

 今日は趣向を変えて、小生が数年前から嗜んでいる(?)句作なる営為から、初期の作品を幾つか紹介する。
 種々雑多な句の数々をアトランダムに。
 ツイッターで紹介したが反響は全くなかった!

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← 数年前、偶然、小生が目撃した真夜中に活躍するサンタさんの光景。配達するのって大変だよね。

 句と言いながらも、俳句でもなく川柳とも呼べず、標語のようでもあり警句にはピシッと来る感が足りない、サラ川と言い張るには経験不足の感が否めない、そんな宙ぶらりんな世界。
 まさに小生の中途半端な性分丸出しの句境(苦境?)を現すかのようでもある。

 ま、詠み手へのサービス精神より、作るのが楽しいってことだ。

 念のために断っておくが、文末の註を読んでおいたほうがいいかもしれない(読んでも意味はあまりないが)。

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2010/01/30

「とめはねっ !」の代わり(?)の石川九楊著『書』

 テレビでは、河合克敏による書道を題材とした日本の漫画作品を原作としたテレビドラマ作品『とめはねっ ! 鈴里高校書道部』(書道監修は武田双雲)が1月7日からNHKで放映されている。
 原作の漫画は読んでいないし、NHKのドラマは話題になっているようで、気になるのだが、生憎時間帯が小生には悪く、テレビを見ることのできる環境にない。

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→ 「2001年9月11日晴――垂直線と水平線の物語(I上)」 「おぐにあやこの行った見た書いた 記事84◆書家、石川九揚さんのインタビュー記事」によると、「「垂直線」は空にそびえ立っていた世界貿易センタービル。「水平線」は2機の飛行機が青空に残した航跡だ。キリスト教を背景とする市場原理主義と、イスラム原理主義との宗教対立をも象徴しているという」。実物を見ることができた人が羨ましい。 (画像は、「垂直線と水平線の物語 番長帳」より)

 だからというわけではないし、テレビドラマの「とめはねっ !」を予感したわけではないが、まあ、正月だからだろうか、たまたま年初に図書館に寄って、美術書のコーナーを物色していたら、本書を発見。

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2010/01/29

日野草城……病臥なればこそ知る肉の身か

1月29日 今日は何の日~毎日が記念日~」によると、今日29日は日野草城の忌日だという。
 今日は「草城忌」なのである。
 拙稿「草城の句境を知らず人は過ぎ」にて、大よそのことをメモしてみたことがある。

 以下、拙稿から当該部分を転記して示す。

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→ 室生幸太郎編集『日野草城句集』(角川書店2006年1月29日再版)。「生誕100年にあわせて編纂された日野草城句集がこのほど没後50年ということもあり再版されました」とのこと。

 日野草城については、拙稿を除くと、本ブログで採り上げたことがない。
 僅かに、「初鏡…化粧とは鏡の心を持つこと?」にて「初鏡娘のあとに妻坐る」を、「冬ざれ」にて「冬ざれのくちびるを吸ふ別れかな」を挙げているだけである。

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2010/01/28

ドストエフスキーの<命日>にちなんで

 今日1月28日は、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(Fyodor Mikhailovich Dostoevsky)の(ユリウス暦では)命日(1881年)である(但し、グレゴリオ暦だと1881年2月9日)。

 いろんな小説家の作品を読んできたし、読み浸った作品もあるが、何と言ってもドストエフスキーの存在が小生には一番、重い。
 ドストエフスキーの小説は、長短に関わらず、どの作品も最低、3回は読み通している。
 全文を読みきれなかったのは、『作家の日記』で、どうにも退屈でとうとう途中で投げ出してしまった(所収となっている小説だけ、拾い読みしたが)。
 全集は二種類、揃えたし、数年前も、『罪と罰』を読了している

 関心を抱く作家(書き手)については、伝記本や評論の類いも読み漁って作家の人となりを少しでも深く知ろうとしたり、あるいは作品の理解を深めようとするものだが、唯一、ドストエフスキーについてだけは、(伝記本で彼の生涯の何がしかを知ることはあっても)、どんな評論を読んでもほんの少しでも理解を深めてもらったという記憶はない。
 生意気なようだが、自分がドストエフスキーの作品を読んで受ける感銘の幾許をでも、解きほぐしてくれたとは全く思えなかったのである。

 私事で忙しく、今は改めてドストエフスキーについて書く余裕がない。
 ドストエフスキーを初めて読んだ時の昂奮を綴ったエッセイもあるが、ここでは、数年前に書いた雑文『ペチカ…サモワール…ドストエフスキー』から一部を抜粋させてもらう。
 この日記を書いた際には、小生は『罪と罰』の(少なくとも)六度目の読了と相成ったものだった。

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2010/01/27

『相棒』……エルガー『愛の挨拶』を求めて

 テレビドラマ『相棒』は、特に寺脇康文さんの演じる亀山薫が辞めるまでのものは、結構、好きで見ていた。
 再放送も、録画までして見ていたほど、好きな番組の一つだった。
 水谷豊さんの演じる杉下右京と亀山薫とのコンビネーションも良かったのだろう。
 それぞれの演技もいいが、二人が絡み合うことで持ち味が相乗効果式に一層、深まったものと思う。

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→ 「相棒 Classical Collection:杉下右京 愛好クラシック作品集 (画像は、「テレビ朝日|相棒season8」より)

 ところで、このドラマ、主人公(の一人)の杉下右京の好み…というよりプロデューサーか演出家、音楽担当の方の好みなのだろうが、クラシック音楽がよく使われる。
 好きな曲、耳馴染みの曲もあれば、クラシックに(も)疎い小生には初耳と思しき曲も流れてくる。

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2010/01/26

「天神様信仰と梅の花」再掲

 過日、8年ほど前に書いた旧稿である「天神様信仰と梅の花」にちょっと脚光を浴びせてもらった。
短詩・樹花たまには歴史の歳時記」である「めぐり逢うことばたち」を運営されているかぐら川さんが同上ブログの記事で参考記事として紹介してくださったのである。
 嬉しい反面、ちょっと忸怩たる思いも過(よ)ぎった。

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← 昨年の正月の奥座敷の光景。父が整えた。「12月25日から1月25日に飾るのが本来」だが、今年は、飾りを片付ける必要はなかった……。 (画像は、拙稿「年越しの銭(?)はありません!」より)

 上掲の拙稿の冒頭で、「小生の郷里、富山は、天神様信仰が古来より盛んでした」とあるが、これが実に問題なのだと気付かされたのである。
 そもそも「我が郷里・「富山」は、天神様信仰が古来より盛ん」だとして、その富山とは富山県(全県)なのか、富山市なのか、あるいは富山と言いながら、実のところ、小生の近隣(近所)だけってことはないのか、などなど、曖昧なのである。
 天神信仰は、富山(のどの辺りなのかは別にしても)だけではなく、全国各地(複数の地域)にあるらしい。
 その辺りを小生は全く調べないまま、放置してしまっていたのだ。

 この点については、例えば、「天神信仰 - Wikipedia」では、天神様を祀る風習について以下のように記されている:

これ(天神信仰に関わる風習)は幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、石川県など前田藩の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。

 問題点など、調べるべきことも含め、改めてかぐら川さんのブログ記事(「天神様をお送りする」や「「天神祭」の不思議」など)を読んでもらうとして、再掲となるが、拙稿を旧稿のままに改めて本ブログに載せておく。

                           (以上、10/01/25 記)

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2010/01/25

『百人一首ハンドブック』で正月気分

 正月だから、だろうか、今月上旬、図書館に寄ったら、新入荷本のカウンターに久保田 淳【監修】『光琳カルタで読む百人一首ハンドブック』(小学館)があった。

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→ 未明。ある寺の境内の光景。灯明なのか、闇夜を導く…何処へ?

 うむ。確かに正月である。元旦とは言いかねる日と相成っていたが、正月には違いない。
 たまには、床しい和歌を詠んでみるのもいい。

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2010/01/24

複素数から虚構を想う

 加藤文元著の『物語 数学の歴史』(中公新書)を読んだ。
 その感想(にもならない感想)に過ぎないが、既に若干のことを書いた
 その稿を書きながら、以前、似たようなことを想ったことがあったし、思いつくがままに綴ってみたなと、探していたら、もう6年前となる拙稿が見つかった。

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← 昨日までの寒気の緩みで、積もっていた雪の大半が溶けてしまった。シャベルで懸命に雪掻きしても消えない雪も、雨にはあっさり負けてしまう。けれど、今日からまた寒波の襲来である。天気の急激な変化を今日ほど感じたことはなかった気がする。昨夜半の曇りに始まって、雨、霰、雪、曇り、晴れ間、雨、霙、雪…。昨夜半には稲光と雷鳴。さすがに矢だけは降らなかったけど。

 我ながら一向に発想が深まっていないのは情けないと感じつつも、やはり何かしら懐かしい気になってしまう。
 虚の世界。ネットの世界はどうなのだろう。

 時々、ドラマなどで、ネット(や携帯やパソコンなど)を嫌う年輩の小父さんが、あるいは評論家が、架空の世界じゃなく、現実の世界が大事とか、実際に会って話するのが大事とか、したり顔で言ったりする場面を目にすることがある。
 しかし、今更ながらだけれど、虚といいながら、現実と引き合うほどにリアルであることは言うまでもないだろう。

 そもそも、現実だって、人によっては現(うつつ)と喝破することがある。
 別に自分までが、「世の中は鏡に映る影にあれや在るにもあらず無きにもあらず」とか、「現とも夢とも知らぬ世にしあればありとてありと頼むべき身か」(『金槐集』)とか詠った源実朝ほどに透徹した世界観を標榜するつもりはないけれど。

                             (以上、10/01/23 記)

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2010/01/23

虚構というロマン

 自分が数年前に書いた日記を探していたら、目当てとは違うのだが、ちょっと懐かしいエッセイに行き当たった。
 創作熱が昂ぶっていた頃の、自分でも気恥ずかしくなるような内容であり文調である。

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→ 買物帰りに近くの公園を見たくて遠回りしてみた。すると、その反対側にある田圃に目が止まった。積もっていた雪が一時的な寒気の緩和で溶けて、「稲孫(ひつじ)」の田となっている光景なのである。

 ほんの数年経っただけなのだが、今では到底、書けそうにない気がする。
 その意味で少なからざる感懐を以て読み返すことになってしまった。
 生活に疲れたというわけではないが、涸れ果てた心が少しは癒える日が来るのだろうか。
 といっても、当時にしても案外に醒めている面もあって、今はそのエアポケットの一番、深いところに嵌まっている状態ということなのかもしれない。
 問題は、そこから這い上がることが出来るのかどうか。
 あるいは現状が実は楽だし居心地がよかったりするのでは、なんてことも思ったりする。

                            (以上、10/01/22 記)

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2010/01/22

いろんな意味での可視化・透明化を ? !

 四方田犬彦著の『白土三平論』(作品社)を読んだ。
 白土三平の漫画は、ほかのどんな本や自らの体験より自分に影響を与えたような気がする。
 井の中の蛙(かわず)状態の中高生の小生に、広い世界への窓を齎した方でもあった。

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← 四方田犬彦著『白土三平論』(作品社)

 せっかくなので、この労作を読んでの感想文を書こうかと思ったが、自分がいかに白土三平という巨峰のほんの一端をしか知らなかった(読まなかった)かを思い知らされ、断念。
 小生の中では白土三平は伝説の人だったが、現在『カムイ伝 第三部』を構想中と、現役バリバリであることも判明して、自分の不明を愧ずるばかりである。
 尤も、「白土三平 - Wikipedia」を覗いてみても、一定の世代のものなら多くのものが読み漁った範囲の情報しか載っていない。
 確かに、「『忍者武芸帳』に世界観を学び『カムイ伝』に自己同一化した60年代」ってのが、白土三平の世間の中での日向時代ではあるが、彼の画業はそれだけに留まらないのだと思い知らされた。
(決して瑣末なことではないはずだが、作画にしても、白土三平だけではなく、時代によって、弟の鉄二をはじめ、小島剛夕、小山春夫、楠勝平らが担ったりしている!「赤目プロ」参照)

 ということで、今日は、日頃、やや内向的なことばかり日記に綴ってきた小生だが、政治も含め社会問題にも関心を持っていることを示す意味でも、若干、毛色の違う日記に仕立ててみた。

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2010/01/21

今日は久女忌

 今日21日は明治~昭和期の俳人・杉田久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 - 1946年(昭和21年)1月21日)の忌日だという

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→ 春の陽気に恵まれた今日、鳥の姿も何処となくのんびりしているように見える(茶の間の窓越しの撮影なので、画像がぼやけている)。

日溜まりに鳥の背中の温みけり   (や)

 本ブログは少なくとも当初は季語随筆を銘打っていながら、杉田久女についてはほとんど採り上げたことがない
 段々、季語随筆から離れ、季語随筆日記と銘打ち、ついには「季語随筆読書創作愚痴日記…富山情報も」などと、何でもあり、つまりは雑談ブログと化してしまった!

 せめて今日は、久しぶりに俳句関連の話題を綴ってみる。

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2010/01/20

数学の歴史から「この世ならぬもの」を想像する

 加藤文元著の『物語 数学の歴史』(中公新書)を読んだ。
 物語と銘打ってあるが、随所に出てくる数式などを読解するには大学の数学科に在籍する学生でもちょっと無理で、大学院レベルの素養と訓練などが必要だろう。
 それを高校三年の夏に理系への進学を断念した小生が読むのは無理がある。
 でも、雰囲気は楽しめる。

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← エッシャー(1898-1972)『滝』 (画像は、「Nikon 光と人の物語 脳がつくる見る世界」より。エッシャーについては、拙稿「 ケルト…エッシャー…少年マガジン」や「エッシャーの迷宮に今目覚めけり」などを参照願いたい) この絵が本書でどのような意味を持つものとして示されているかは、拙稿「加藤文元著『物語 数学の歴史』から数学の凄みを知る」を参照願いたい)

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2010/01/19

未明の空の星影に想う

 昨日、そして今日の未明、星空だった。
 満天の星空というわけではないが、夜空に星が見えた。

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← 冬のとある日の夕刻の光景。

 …ただそれだけのことである。
 でも、気持ちの上ではあまりに久しぶりに思えて、感激に近い戦慄が胸中を突き抜けた。

 冬の北陸の空は、曇天が日々当たり前のように続く。

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2010/01/18

つらつらツララなど眺め入る

 デイヴィッド・リンドリー著の『そして世界に不確定性がもたらされた―ハイゼンベルクの物理学革命』(阪本 芳久【訳】 早川書房)を読んだ。

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→ 今日になって寒気が緩み、少し雪解けが進む。御陰でツララが見事に。右奥の倒木は、昨年秋の台風で折れた杉の木の幹の残骸

 本書は、「世界を揺さぶった不確定性の概念と、それをめぐる著名な科学者たちの人間ドラマとをみごとに描き出した、渾身の科学ノンフィクション」といった本だが、小生は、図書館で本書をパラパラ捲って、その冒頭の一節を読んで借りることに決めた。

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2010/01/17

1995年の二つの事件

 15年前の1月17日という今日、阪神・淡路大震災が発生した。
 この未曾有の震災と、同年に発覚したオウム事件とが小生のその後の生き方に大きく影響した。
 影響したというより、自覚を促した、というべきかもしれない。
 その大よそのことは、数年前、本ブログにて書いている

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← 過日、所用があって、ネコちゃんたちの居る家へ。久しぶり!

 要点は、以下に尽きる:

 小生は、実はタクシードライバーになるかどうか、94年の後半から考え出していたが、迷いもあった。
 が、迷いを断ち切ったのが阪神・淡路大震災であり、さらに止めを刺したというか追い討ちを掛けられたというか、背中を押されたような気分にさせられたのがオウム事件だった。
 世の中には何でも起こりえる。人間の想像力など圧倒する出来事がありえる。
 決めた! オレは書くことに生活の焦点を置く。生活費はタクシードライバーという仕事で得る。
 人生は一度限りなのだ。何がどうなろうと構わない。好きなことに徹底するのだ。

 タクシードライバー稼業も辞めざるをえなかったし、必ずしも思い通りにはなっていないけれど、決心という意味ではいささかも変わっていない。
 自民党によるあまりにも長い一党支配の歴史も昨年、終焉した。
 世界も激変しつつある。
 世界も日本も漂流している。その行方は未だ誰にも見えていない。

                          (以上、10/01/16 記)

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2010/01/16

「ごぶる」じゃなく「ごぼる」ながけ?

 またまた雪にちなむ話題。
 しつこく雪が降り続いているので、小生も意地になって雪絡みの話を持ち出すことにする。
 どっちのネタが尽きるか、勝負だ! って、我輩が負けるに決まっているか。

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→ 雪は今日も小止みなく降り続く。ちょっとでも寒気が緩むと、屋根の雪がドサッと落ちてくるから大変。

 富山は雪国を実感する日々である。
 この数年は、雪国富山を標榜するのはやや躊躇われたが、今年に限っては久しぶりに堂々と(?)雪国を自称できる。
 全然、嬉しくないけれど。
 

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2010/01/15

南天の実に血の雫かと訊ねけり

 細切れな睡眠を取る日々が続いている。
 眠りが細切れなのは、忙しいから?
 そうではあるが、仮にそれほど忙しくなくても、小生の睡眠は苦しげに息継ぎするような、むしろ喘ぐような仮の眠りにすぎない。

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← 数十センチの新雪を踏み締め、ポストへ向かう。これだけ雪が積もると、「ごぶる」!

 寝入る時よりも常に目覚める時のほうが疲れが倍加する睡眠。
 起きるには、時に凶暴なほどの意志が必要になる。
 何のための起床なのか分からないだけに、ただただ徒労であり、無為でもある。

 睡眠障害はどうにもならない。

 この日、三度目の仮眠を取ろうとしていた時のことだった。

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2010/01/14

デューラーのモノグラム(サイン)の謎

 過日、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Durer 1471-1528)を扱った
 せっかくなので、ちょっと瑣末なことをついでにメモしておきたい(後日の調べもののためにも)。

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→ 「キリストのモノグラム「ラバルム」。ギリシア語「Χριστος」での最初の文字「ΧΡ」の重ね合わせ (画像などは、「モノグラム - Wikipedia」より。詳しくは、「ルドルフ・シュタイナー 『内的霊的衝動の写しとしての美術史 』 (GA292)」を参照のこと) 

 彼の絵で(絵の本題には直接関係ないのだろうが)、つい気になったのは(というか、彼の絵を見るたびに気になってしまうのは)、絵の作者を示すサイン代わりの、AとDを組み合わせたあのマークである。

 見ようによっては、デザイン化されたAは、まさに鳥居のように見え、そうした神社の鳥居の下にでっかい岩でも置いてあるようなこのマークは、専門的は、どう呼称するのか。

 モノグラムでいいのかどうか、分からないが、本稿では、正式名称だという理解のもとに先に進む。


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2010/01/13

酸っぱさもちゅうくらいなり木守柿

 一昨日、「鳥餌果実のつもりじゃないのだが」なる日記を書いた。
 ちょっと関連した日記を書いておく。

 我が家の裏庭に育つミカンの木。

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← 鳥…ハト(?)の後ろ姿。雪化粧の野を見渡しても、餌はなかなか見つけられない。

 秋ともなると、結構な数の実がなる。
 土壌も弄っていないし、肥料も施していないのに。
 だから、食べるとちょっと酸っぱい。
 でも、スーパーの店頭に並ぶミカンは大半が妙に甘口だったりする中、むしろ、この酸っぱさが新鮮に感じられたり、ずっと昔のミカンってこんな味じゃなかったっけ、なんて思われて来る。

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2010/01/11

デューラー『メランコリア I』の「I」再び

 過日、図書館へ足を運んだ。
 いつものように自転車を駆って、ではなく、車で。

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← アルブレヒト・デューラー『Melencolia I』(メランコリア) (画像は、「Albrecht Dürer – Wikipedia」より)

 不本意ながらも車を使ったのは、車道はともかく歩道には雪が残っていて、走行に不安を覚えたからである。
 早く、快適な風を浴びながらサイクリングを兼ねて図書館などへ向かえるような季節が来て欲しいものである。

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2010/01/10

2010年リベルダージ New Year Party のお知らせ!

 最新版!
2010年リベルダージ New Year Party のお知らせ!

 開催日が迫っています:2010年1月24日(日)

(「2010年リベルダージ New Year Party のお知らせ!」なる記事を既に提供していますが、上記は、その本家本元からの情報です。)


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鳥餌果実のつもりじゃないのだが

 前の年の暮れ、裏庭のミカンの木にミカンの実がたくさん、生っていた。
 嬉しくて、せっせと収穫。大き目のザルに2つ分ほど。

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→ 根雪が昨日や今日の雨でかなり減ったので、庭木などを見て回った。長期予報で今年は暖冬と聞いていたし、雪吊りなど一切しなかった。御陰で雪の重みに耐えかねて倒れたり折れたりした木や枝が数知れず。まあ、草などは根雪に折れ伏しているのは自然な姿なのだろうが。隣の方に裏庭の「ユリノキ」の枝の一本が折れて電線に倒れ掛かっていると指摘された。見ると、2メートルほどもある枝が根元から折れて、納屋へ続く電線に圧し掛かっている! さっそく、脚立を持ち出し、一番上の台の上に立ち、枝の取れかかったノコギリで枝を切り落とした。

 すると、家人などに自作のミカンの実は、正月に縁起物になるから枝付きがいいとか、そもそも庭のミカンなどの実は、収穫の際に、敢えて数個は残すものだ、などと意見された。

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2010/01/09

ラジオから西田佐知子さんのことへ

 今日は歌手の西田佐知子さんの誕生日だとか。
 最近、雪に悩まされつつ、車での仕事の日々を送っている。
 車ならではの便利さもあれば不便もあったりする。

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← 「西田佐知子 ベスト10 」(ユニバーサル) 「竹内まりや」が好きなのは、あるいは西田佐知子の面影をつい思い浮かべてしまうから…?

 便利というか、嬉しいのはラジオを(細切れになってしまうが)聴けること。
 何と言っても音楽(歌)を聴けるのが嬉しいのだ。
 ポップスも聴けるし、歌謡曲も。
 小生が聴取する時間帯が真夜中過ぎだからだろうか、若い人向けの曲より、年輩向け、あるいはトラックなどの運送業のファン向けの曲が多いようだ。
 自宅では歌謡曲に限らずポピュラーな曲を楽しむ機会が滅多にないので、車中での束の間の音楽タイムを楽しみにしている。

 歌謡曲が好きと言いながら、歌謡曲(に限らず音楽全般についてもだが)関連する文章はあまり書いたことがない。
 まあ、(小中高生時代の授業での嫌な体験などがあって)音楽が苦手ってことも大きい。
 聴いて楽しむが、音楽について語る(書く)のはつい憚られてしまうのである。

 それでも、幾つかは書いたことがある。
 西田佐知子さんについても!
(以下、転記する文中で、西田佐知子さんの旦那さんである関口宏氏について失礼なことを書いている。二人の結婚当時の複雑な事情や、結婚に際して乗り越えなければならなかった高いハードルなど何も知らない奴の、半ば嫉妬心からの戯言と読み流してほしい。文中、敬称を略しているのも、敬愛の念を籠めてのことである。失礼の段は予めお詫びしておく。)

                                (以上、10/01/08 作)

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2010/01/08

ボーマルシェの知られざる功績

『セビリアの理髪師(Le Barbier de Séville)』や『フィガロの結婚 (La Folle journée ou Le Mariage de Figaro)』などの戯曲(オペラ)の原作を書いたことで有名な劇作家のカロン・ド・ボーマルシェ(Beaumarchais)は、クラシックやオペラファンなら名前くらいは知っている…かもしれない。
 あるいは原作者の名前は、素通り?
 小生は、全く彼の名前は認識していなかった。

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→ ボーマルシェ (画像は、「カロン・ド・ボーマルシェ - Wikipedia」より)

 そのカロン・ド・ボーマルシェは、「カロン・ド・ボーマルシェ - Wikipedia」では、まさしく代表作として「フィガロ三部作」の名前を挙げてあるだけ、あまりに簡単な扱い。
 しかし、彼には他に(見方や立場によっては、だが)偉大な功績のあることを知った。

 年初より、保苅瑞穂【著】の『ヴォルテールの世紀―精神の自由への軌跡』(岩波書店 (2009/11/19 出版))を読んでいるのだが、本書の中でボーマルシェのヴォルテール(1694年11月21日 - 1778年5月30日)に関わる功績がわざわざ言及されているのだ。

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2010/01/07

マーク・ホウ著『ミドルワールド』でブラウン運動の驚異を知る

 1905年というと、物理学好き、あるいはアインシュタインをニュートンと並ぶ科学の英雄とガキの頃に思い込んでしまった小生のようなものには、特別な年である。

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← マーク・ホウ著『ミドルワールド―動き続ける物質と生命の起原』(三井 恵津子【訳】 紀伊國屋書店 (2009/12/12 出版))

 言うまでもなく、「アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表した」わけで、これらの何れの論文も当時の、そして後世の科学に非常な影響を与えた年だから驚異の年と呼ばれるわけである。

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2010/01/06

雪明りに魅せられた頃

 我がブログの記事(日記)に、何かの言葉をキーワードにしての検索でヒットし、アクセスされることが多い。

 どんな記事が読まれているのか、つらつら眺めていたら、中にちょっと懐かしい日記というか思い出譚に再会した。
 例によって長々しい日記なのだが、その一部が思い出話なのである。

 遠い、学生時代のオートバイによる2千キロにも及ぶ、ツーリングでの一場面を記したもの。
 夏休みの帰省の往復のロングラン。
 せっかくなので、「真夏の夜の夢の旅」と即席の題名を付して単独の文章としてアップさせた。

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← 「岐阜市の奥座敷の離れ、というべき 松尾池の雪景」だそうです。(写真は、J次郎2さんの手になるもの。同氏のサイトは:「J次郎2nd(じじい)のメモランダム」など)

 ところで、これもある切っ掛けがあって久しぶりに読み返すことになった小文。
蛍の光 窓の雪 そして富山の雪」とあるが、その中のかのサンパチ豪雪などの思い出にチラッと触れている。
 この小文を書いた頃は帰郷するとは夢にも思っていなかった。
 まして、我が富山の地で、降り頻る雪の中で仕事をするような羽目になるとは思いも寄らなかった。
 雪を懐かしんでいる余裕というか、暢気さが文章に感じられる。
 雪の凄みを他人事風に、あるいは風情…情緒を醸し出す小道具的に見ている。
真冬の明け初めの小さな旅」もだが、同じ自分が同じ雪(景色)を題材に書いても、これほど違うニュアンスの文章になるとは、我ながら面白いと思った。

 一部を「雪明りに魅せられる」といった仮題を付して掲載する。

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2010/01/05

孤独な配達人の独り言

 昨夜(の延長)というべきか、今朝未明、久しぶりに月影を見た。
 何日ぶりに出合ったのか、定かではないが、気分的には実に久しぶり、と表現したくなる。

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 観たのは、朝方4時半頃。
 日の出は七時前後のはずだから、まだ、真暗である。
 小雪がちらついていて、空は曇っている。
 雨が雪になって、外での仕事は大変だろうなと覚悟していたので、小雪程度の空模様で助かった。

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2010/01/04

雪の日や背を向けられしは我がことぞ ? !

 相変わらず慌しい日々を送っている。
 大晦日の紅白歌合戦も昨日、録画をダイジェスト版にして(つまり、早送りして)30分ほどに縮めて見る。

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→ 朝、いつものように茶の間のカーテンを開け、部屋に光を取り入れる。ついでに、雪の降り具合、積もり具合はどんなものか、確かめようとしたら、納屋への電線に鳥が止まっているのを発見。ハト?

 ほとんどの歌手が知らないか、興味を惹かない存在。
 まるで(自分が気が付かないうちに余人の世界と懸け離れてしまって)異邦人の街に迷い込んだようだ。


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2010/01/03

水は万能の溶液 ? !

 水は万能の溶液で、水で溶けないのは「金(きん)」だけだ。
 また、「金(きん)」は、王水でしか溶かすことはできない。

 なんて<俗説>を聞いたのは、中学生の頃だったか、あるいは高校の理科の授業で、だったろうか。
 この如何にも尤もらしい説を鵜呑みにしたわけではないが、ことの真偽を当時、確かめたわけでもない。

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← 昨日の日記にも載せたこの写真。「雨垂れは岩をも穿つというけれど、万能の溶液である水は、さすがで雪をも溶かす!」なんてト書きを付したけれど、後で、んん、水は万能の溶液というテーゼは鵜呑みにしていいのか、という疑問が湧いた。なので、本稿を急遽、書きおろしたのである。

 ただ、我が耳には正しそうに聞こえたし、「金」を溶かす王水に興味を持ったり、それ以上に、「水は万能の溶液」という断定調の、何処か箴言にも似た表現に真理らしき響きを感じた、のは確かである。
 だからこそ、文献に当たったり、誰かに訊ねたり(間違っても、そんな<箴言>をのたまわった先生に確認する)なんてことはしなかったのだろう。

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2010/01/02

年末年始は世間並みに!

 新年である。
 今日は(この日記を書いている時点ではまだ)元旦である。

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→ 大晦日の昼過ぎ、雪が降り出した(既に積もっている雪は、前回の寒波の際の雪が溶けきらなかったもの)

 本来なら、今日、公表する日記で新年に当たっての抱負など書くはずだが、この数年の習慣で、前日の夜に日記を書いて、翌日の日付に切り替わって間もなく公表するというパターンになっている。
 なので、元旦に載せた記事(日記)も前日の大晦日に書いたもの。
 どうやっても、元旦の気分にはなれない(今日になってもなれないでいるが)。

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2010/01/01

我が『若い芸術家の肖像』余談

[本稿を目にする頃には、年が明けている…はず。明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。本年も凝りもせず書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。]

 信仰について語る
 といっても、信仰とは何ぞやなんてことを考えるのは小生には任が重過ぎる


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← ジェイムズ・ジョイス/著『若い芸術家の肖像』(丸谷才一訳 集英社)

 学生時代のある時期、キリスト教(プロテスタント)に入信するまさに瀬戸際まで行ったことがある、その辺りの思い出を弱冠、メモしておきたいだけである。

 こんな殊勝(?)なことを書こうと思ったのは、丸谷才一が新たに訳したという、ジェイムズ・ジョイス/著の『若い芸術家の肖像』(集英社)を今日、読了したからである。

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