田河水泡「のらくろ」をめぐって
今日は、「レイモン・ラディゲ」の忌日である。
彼については既に採り上げたことがあるので、今日は同じく今日が誕生日の、違う人物を扱いたい。
→ 「田河水泡・のらくろ館」
実は、同じ小文で採り上げているのだが、その人物とは田河水泡である。
彼の代表作である『のらくろ』に夢中になった、というわけではないのだが(世代が違いすぎる)、いろいろ思い出深いので、触れておきたいのである。
3年前の今日、「ラディゲにはのらくろ生きる我遠し」にて、以下のように書いている:
(前略)今日は、『のらくろ』で有名な田河水泡の忌日でもある。 小生の漫画体験の原点は、まさしく田河水泡の『のらくろ』だった(ペンネームについてのエピソードが面白い!)。物心付くころには「のらくろ」が我が家にあった。
百頁ほどの週刊誌大の冊子で、父が紐綴じにしていた。まるで古文書を保存するかのように。小生とは違って、父は几帳面なのである。
絵本や童話を読んだことよりも『のらくろ』のほうが自分には印象的である。活字の嫌いなガキだった小生は、絵の多い本に惹かれたのだろうか。
といって、『のらくろ』に夢中になったわけではなかった。むしろ、何処か陰気な雰囲気を嗅ぎ取っていて、当時はまだ他に眺める漫画の本がなく、日が暮れて、外で遊ぶのも疲れ果て、余儀なく眺めていたような気がする。
そう、昭和の三十年代前半のことで、まだ、テレビも我が家にはなかったのだ。
その後、漫画の本を読むようになっても、依然として『のらくろ』は手放せなかった。
というのは、読むといっても、未だ買えなかったし、近所の貸し本屋さんで借りるのがせいぜいだったのだ。
常に傍にある漫画の本というと、『のらくろ』ということになってしまうのである。万年二等兵か、せいぜいでもやっとのことで二等兵ののらくろは、陸軍の陰湿ないじめ体質の中で、のびのびと、そして気楽そうに日々を過ごすのだが、印象の中では、あくまで虐められる日々をサバイバルしているという感が強い(実際の漫画の内容は忘れてしまった)。
まあ、平成元年に90歳で他界された田河水泡のこと、「のらくろ」のことは別の機会に書くことがあるだろう。今は、「日本漫画家協会・田河水泡のらくろ館」などを覗いて欲しいと思う。
(以上、転記終わり)
「平成元年に90歳で他界された田河水泡のこと、「のらくろ」のことは別の機会に書くことがあるだろう」なんて書いているが、今日まですっかり忘れていた(冷や汗)!
この小文を読み返して気付くことは、書いていて、「のらくろ」の作者・田河水泡がずっと昔の人、既に物故されている人物として、漫画「のらくろ」を読んでいたということ。
何と(と言って驚くのも失礼なのだが)、田河水泡(たがわ すいほう)は、「1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日)」ということで、小生がガキの頃は無論のこと、小生が三十代の半ばを迎える頃も存命だったということ。
ある意味、作品の「のらくろ」が、何処かセピア的というか、高度成長経済下の慌しい世相からは全く食み出した世界が描かれているように感じたからのように思える。
「のらくろ」を仕方なく読んでいた時期からほんの数年して漫画の本でやや勇ましい傾向の戦争モノを読むようになって、尚のこと、「のらくろ」の世界が戦争の日常とは懸け離れているように感じたのかもしれない。
でも、兵隊といっても、戦争に明け暮れたわけでもなく、兵士の日常なんて、戦争を知らない我々には想像を超えた単調な一面もあったのだろう。
日常の中の、小さな愛憎や嫉妬や思惑の渦巻く人間の世界。
その人間臭さにこそ、反戦という大袈裟な思想や主張ではないにしろ(そういった主義・主張が篭っているのかもしれないが)、作家の田河水泡が大切にしたいと思ったものなのかもしれない。
ただ、その作者の深い思惑が、ガキの小生には鬱陶しいと思えたのかもしれないとも思う。
もっと白黒をハッキリしろよ、とか(…でも、「のらくろ」って、白黒のキャラクターなんだけど)。
「のらくろ」の良さを味わうには、もう少し齢を重ねる必要があったのだろう。
…それにしても、我が家の奥の廊下の書架にあった、あの紐綴じの「のらくろ」は、何処へ行ったのだろう。
↑ 「財団法人 江東区地域振興会 田河水泡 のらくろ館 開館10周年記念特別企画展」 会期:2009年11月10日(火)~12月12日(土) つまり、12日の土曜、今日まで(!)ってこと。
参照サイト:
「田河水泡」
「日本漫画家協会・田河水泡のらくろ館」
「のらくろの街誕生!」
「日本の墓:著名人のお墓:田河水泡」
「asahi.com(朝日新聞社):のらくろ [著]田河水泡 - 漂流 本から本へ - BOOK」
(09/12/11 作)
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