ビートルズと息することと
「中島敦と中村晃子と」にて、高校時代での音楽にまつわる話をちょっとした。
だからというわけではないが、音楽関連の話を引き続き。
好きな音楽、好きなアーティストというと、小生の場合、やはりビートルズ以外にない。
→ the Beatles ザ・ビートルズ (画像は、「ビートルレコード -Beatle Record- 壁紙(wallpaper)」より)
無論、邦楽や洋楽を問わず、好きなミュージシャンは少なからずいる。
演歌など歌謡曲も好きだし、民族音楽やクラシック、ジャズも好き。
でも、一番、好きな音楽家というと、ビートルズになってしまう。
別に小生に、ビートルズについて語る何物も持っていないが、まあ、素人の思い入れとして少しだけメモっておきたい。
ビートルズが、日本の一般家庭や学校などでも話題に登り始めたのは、いつからのことだったのか。
小生が小学生を卒業する頃、あるいは中学生になった頃には、小生のように音楽に疎いものも、いつしかビートルズの名を耳にするようになった。
しかし、我が家は音楽に限らず芸術の香りの薄い家風で、音楽というと、あくまでテレビ(やラジオ)で話題になった歌手などに限られる。
我が家でビートルズのことがようやく話題に上ったのは、ビートルズの武道館公演がテレビで中継されて初めてだったように記憶する。
その公演の数年後、ビートルズが解散したというニュースが世界中を席捲した時、我が父が(かなり音楽には疎いのに)知ったかぶりで、ビートルズの解散があんなに早いのは、演奏が下手だったから、なんて下手な評論家めいたコメントを吐いて、不快に感じたのを覚えている。
しかし、かといって、まともに反論できるほど、ビートルズのことを知っているわけもなく、ただ不快感だけが澱(おり)の様に胸に沈んでいったのだった。
しかし、小生にしても、音楽音痴なのは同類のようで、情けない思い出が印象深く今も浮かんでくる。
中学生になって間もない頃、休み時間だったか、ビートルズのことが話題になり、その中で、では、メンバーのうちの誰が好きか、その名前をそれぞれが挙げることになった。
それぞれがジョンだポールだという中で、小生の番になった。
小生は、返答に窮してしまった。
実は、小生は、ビートルズのことは殆ど全くといっていいほど、何も知らなかったのだ。
まして、ビートルズのメンバーにどんな人物がいるかなんて、論外だった。
その時、小生は苦し紛れにリンゴの名を挙げた。
そう、辛うじて、リンゴの名前だけを聞きかじっていたからである。
同級生は、怪訝な顔をしていた。
よく言えば、マニアックな奴だな、であり、もしかしてこいつ、何も知らないんじゃないかと、疑いのマナコで自分を見ているようでもあった。
幸い、すぐに話題は変わってしまって、小生の冷や汗もすぐに引いてくれた。
実を言うと、リンゴの名前にしても、リンゴ・スターだとも分からず、リンゴしか言えなかったのであった!
高校時代は、LPもSPも何もほとんど買えなかった。
僅かに友人に貰ったレコードが数枚、あるだけだった。小林旭やら石田あゆみやら、ニニ・ロッソやら由紀さおりやら…。
今、思い起こしても、そもそもレコードプレーヤーを所有していたかどうかすら、記憶に定かではない。
かといって、ミュージックテープでもなかったはずで、一体、どうやってレコードを聞いていたものやら…。
まあ、そんな程度の音楽環境でもあった。我が家の誰も、ラジカセさえ、持っていなかった!
クラシック音楽にしても、友人宅で聞かせてもらっていた次第だった。
← the Beatles ザ・ビートルズ (画像は、「ビートルレコード -Beatle Record- 壁紙(wallpaper)」より)
音楽にズッポリ浸かったのは、読書同様、学生になってからのことである。
早々に中古のレコードプレーヤーを、さらにラジカセを購入し、ラジオのFMは、在宅(在室)の場合、常時、流しっ放しだった。
何かしら曲を流しながら、読書するというスタイルは、学生時代に始まったわけである。
但し、日本人の歌手の曲は、読書の際には流さない。
それは、歌詞がどうしても耳に引っ掛かるからである。
流すとしたら、今もだが、ジャズかクラシックの曲。
一方、ビートルズも読書の際には御法度である。
そう、耳に思いっきり引っ掛かるからである。
さて、ビートルズの何が小生には魅力的なのだろう。
その要素は数々あるだろう。
リズムもメロディもハーモニーも、その全てがピッタリ嵌まる。
学生時代、クラシックやジャズは別にして、ポピュラーなアーティストでボブ・ディランとかにも一時期、凝ったが、やはり、ビートルズに戻ってしまう。
歌詞も本来は魅力的である、と述べるべきだろうが、レコードなどを聴く際も、歌詞を眺めることは昔も今も、滅多にない。
そもそも音楽雑誌は一切、買わないし読まない。
これは文芸雑誌同様、全く手が出ない。出す気にならない。
あくまで作品だけを楽しむ、というのが我が流儀なのである。
ビートルズの場合、ひたすら聞き入る。
どうやったって、聞きながら読書なんて芸当は小生にはできない。
ラジオを聞きながら読書していても(この場合は、ポピュラーかクラシック、ジャズの番組に限る)、他のアーティストだと、BGM足りえるが、ビートルズは無理であった。
一瞬でも耳にビートルズの曲が触れたなら、頁を捲る手は直ちに止まってしまう。
耳は、全神経は、ビートルズの曲に傾けられている。
繰り返すが、一体、そこまで魅力的なのは、ビートルズの音楽の何処にあるのだろうか。
あれこれ理由は挙げられるが、小生にとって最大の要因は、呼吸法、あるいは息継ぎにあるように思える。
メロディーラインの流麗さという特徴に留まらない、メロディの流れの息との不可思議な呼応関係があるように思えるのだ。
音楽の専門家なら、もっと他の表現や説明法があるのだろうが、とにかく、ビートルズの歌を聴くと、歌っている際の息継ぎがひたすら快感なのである。
息継ぎの際に、たっぷり息をお腹に溜め込んでおいて、思いっきり、あるいは徐々に、あるいは敢えて金魚が息が苦しくて喘ぐかのように、しかし、適度な苦しさに止めるテクニックを魔術をポールやジョンは天性の才能で持っているのであって、不快な苦しさではなく、うまく息を吐き出させ尽してしまうので、最後は快感と共に、次のメロディの波の高まりに移っていけるわけである。
仏教での声明や念仏も、呪文も、祝詞も何処かしらに人間の息をうまく快適に吐き出させる魔法を心得ているのだろうと察せられる。
宗教の基本は、呼吸法にあり、と小生は勝手に思っている。
だからといって、ビートルズの音楽世界が宗教的だということではなく(違うとも言わないが)、人間が心底からの快感を以て歌い尽くし得る秘法に何処か深いところで関わっているのではないか、などと思ったりするのだ。
メロディのことばかりを書いたが、言うまでもなく、ドラムなどのリズムも大事な要素である。
太鼓を叩くリズムや響きは、心臓の鼓動や心拍と無縁であるはずがないし、ハーモニーも、人間の体の中の血やリンパや肉体、そしてハートとの共鳴や共感、共振が大切だと思う。
その全てが高い次元でハーモニーを奏でているのだ。
歌詞や思想、スタイルといった要素も大事だとは思うが、小生は、ビートルズに必ずしも敢えて思想を求めようとは思わなかった。
それだったら、他のアーティストや思想家がいるのだろうし。
→ the Beatles ザ・ビートルズ (画像は、「ビートルレコード -Beatle Record- 壁紙(wallpaper)」より)
息は吐くだけは成立しない。
当然、吸うも併せてで一体である。
たとえば、「ガール(Girl )」という曲など、息を吸うジョンの声(音)をわざと使っているし、意図的に録音している。
吸うと吐くとの、動物の生きる上での基本を、最高度に快適なものとして実感させてくれる音楽、それがビートルズの音楽なのではないか。
まあ、そんな理屈を考えながら音楽を聞いているわけではない。ただひたすら、快適なのである。
そして、それで十分、至福なのだ。
(09/12/05 作)
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コメント
『ビートルズの解散があんなに早いのは、演奏が下手だったから』!
ええっーーー!こ、こ、こ、これはぁーーーっ!
この1年、私はいろんなブロガーさんの記事を読みましたが、
これには大笑いです!
ビートルズの解散の原因には諸説ありますが、
演奏下手説は初めて、おそらく世界初。
今年も残るところ数日ですが、たぶんこのおもろさを越えるものは出てこないでしょう。
ジョンやジョージも草葉の陰で思わずプッと吹いたでしょう。
子供世代の音楽に疎く、そもそも知ろうともしなかった一昔前のお父さんが
たまに何を言うかと思ったらとんでもない自論をブッぱなす、
ということは間々ありますが、これはレベルが違います。
役所広司と竹内結子なら
「そう来たか、って感じです」「やられました」と言ってるとこです。
思い出すと笑ってしまいます。
ビートルズって演奏が下手だったから解散しちゃったのかぁ…。
思い出さないようにしようとしても、「一体何を思い出さないようにしてるのか」と
つい自問してしまい、「それは…」と文章がフッと頭に浮かびます。
特に思い出し笑いなどしてはいけないところで思い出しそうです。
精神を強くしてちゃんとコントロールしなくては!
私は、ビートルズの思い出としては
「大人の男なのに、なんであんなかわいい声をしてるんだ」とすごくビックリしましたねぇ。
あと、何で来日した時JALのハッピ着てたんでしょうね^^。
特に気に入ってよく聞いていたのは「ALL MY LOVIN'」
明るい曲なのに実は別れを歌った内容だと知ったのはずいぶんあとになってからです。
投稿: ひらりんこ | 2009/12/10 18:48
ひらりんこさん
>『ビートルズの解散があんなに早いのは、演奏が下手だったから』!
この妄説、凄いでしょ。
当時の何かの週刊誌の記事を読み齧ったのでしょうが、父の知ったかぶりという癖が出たものと思います。
自身は、音楽については無知だし、興味もないのですが(父が音楽番組を好んで観ることはないし、ラジオにしろカセット(テープ)にしろ音楽に聞き入る姿を見たこともない)、薀蓄を傾けたいという性癖が強いのです。
知ったかぶりってのは、小生も似ているかもしれない。
見栄っ張り?
後で振り返って、自分の発言を悔いることもあるし。
なので、ネットで文章を書く際には、ネット検索で裏を取りながら、人様に助けられながら、たしなめられながら、を心がけているのですが、さて。
>何で来日した時JALのハッピ着てたんでしょうね^^。
ビートルズが来日した際、JALのハッピを着てタラップを降りたあの光景は印象的ですね。
日本の多くのファンには尚更で、何年か前、来日40周年を記念して、日本航空では、「JAL」のロゴ入り法被の復刻版を作ってお客さんに提供していたとか。
国際便といえばJAL、そのJALさんにとっては、ビートルズの来日に使ってもらったことは、光栄なことだったろうし、宣伝効果抜群だったでしょう。
だから、特製の「JAL」のロゴ入り法被をプレゼントしたのではないでしょうか(← 推測が入っている)。
>特に気に入ってよく聞いていたのは「ALL MY LOVIN'」
曲調と内容と、ちょっと印象が違う場合ってありますね。
ビートルズで好きな曲は、あまりに沢山あって、選びきれない。
解散してからの、ジョンやハリソンやポールらの曲も好きだし。
投稿: やいっち | 2009/12/11 16:35
>この妄説、凄いでしょ。
はい、凄いです。参りました^^。
湯川れいこさんが聞いたら憤慨するでしょうが、
テリー伊藤なら素晴らしいリアクションを見せてくれそうです。
マイケル・ジャクソンの「スリラー」や「ビートイット」のPVを日本人が見ると、
脳波が‘心地よさ’を示し、自分も同じように踊りたいとの衝動に駆られるそうです。
この実験を行った心理学者が
「集団で同じ動きをするマイケルのダンスを好むのは、阿波踊りを見て自分も参加したい、と思う心理と同じだ」
と言ってました。
これを聞いた時はブッ飛びましたが、ビートルズの演奏下手説には遠く及びません。
ビートルズはリマスターCDの発売が話題になっていますが、
今月初め、埼玉の『ジョンレノン記念館』が来年の秋頃、閉館の危機というニュースが流れてました。
記念館のURLはwww.taisei~。
建設だけでなく、HPの運営も大成建設のようですネ。
http://www.taisei.co.jp/museum/news/news/000309.html
ところで、記念館というと、隣の佐賀県に『黒澤明記念館』があるということ、
ほんの先日知りました。
ヘンリー・ミラーという人も日本に美術館ができる(できた)ほど有名のようですが、
私は全く知りませんでした。
入館者の見込みを年間5万人と踏んでいたようですが実際は1万人、
これはキツい、というか、見込み違いもはなはだしい、ひど過ぎます。
建物は県の「建築文化賞優秀賞」を受賞するほど凝ったデザインのようですが、
中身が魅力的ならハコは普通でいいと思うのですが…。
http://www.st.rim.or.jp/~success/hakomono_ye.html
長崎には[遠藤周作文学館]がありますが、
遠藤作品と縁のあるところにあるからか、今のところ赤字の心配はないようです。
やいっちさんは遠藤作品は何か思い出ありますか?
投稿: ひらりんこ | 2009/12/14 17:59
ひらりんこさん
「ヘンリー・ミラー美術館は閉館の憂き目に遭っている」と我がブログで紹介したことがあるので、まだ存続していることに驚きです:
http://atky.cocolog-nifty.com/manyo/2005/01/post_11.html
彼の小説は「北回帰線」か「南回帰線」のどちらかを若い頃、まさに若さに任せて読んだのを覚えていますが、再読を期しつつも、未だに読めないで居ます。
欧米に限らず(かのガルシア・マルケスも!)、ヘンリー・ミラーを賞賛しているので、尚更、読み返してみたいと感じているのです。
小説もですが、彼の画家としての側面も結構、有名で、上掲のブログで紹介したことがあります。
池田満寿夫が褒めていたっけ。
遠藤周作は今も人気がありますね。
小生は、あまり読んでいないのですが、ただ、我がブログの名前は「壺中(山紫)庵」なのですが、東京は皆説くの三田にある「庭園の一角にある料亭「壺中庵」の名前は、作家遠藤周作によって名付けられた」とか。
このことは最近、知ったのですが、遠藤周作ファンであれば、「壺中(山紫)庵」という命名で、ああ、こいつは遠藤周作のファンの一人なんだろうなって、思うかもしれないですね。
思うに、これは推測ですが、「壺中庵」は、遠藤周作の号(愛称)である狐狸庵を連想させるので、その連想から命名したのかなって。
今、思い出したのですが、学生時代の最初の二年は下宿生活だったのですが、同じ下宿生の一人がクリスチャンで、遠藤周作の本を(も)結構、読んでいて、その影響で「沈黙」か何かを読んだ記憶が。
若い頃って、友人の書棚って気になって、友人の書架にあるものは、何でも読みたくなりますよね(← 小生だけ?)!
投稿: やいっち | 2009/12/14 21:39
やいっちさんの推測通り、
やいっちさんが熱心な遠藤周作ファンだと思っている人は
少なからずいるでしょうね(^▽^)。
『沈黙』読みましたか!
「遠藤周作文学館」は、まさにその『沈黙』の舞台になった場所にあるのですヨ。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/endou/
近くには「沈黙の碑」が建っていますが、
碑を建てる場所は遠藤氏に任されたそうで、
HPを見ると、彼にとってこのポイントがどれほど大きな意味を持つのかがわかります。
物語は禁教時代の日本にやって来たロドリゴが臆病者の信徒キチジローに裏切られて長崎奉行所に捕らえられ、
踏み絵に足をかけて棄教した、という内容。
1966年に発表され、高い評価を受けながらも、カトリック教会に否定され、
長崎では長い期間、禁書扱いでした。
遠藤周作は長崎を訪れた際、擦り減った踏み絵を目にしたことから執筆のアイデアが浮かんだそうです。
「転び者(棄教者)ゆえに教会も語るを好まず、歴史からも抹殺された人間を、沈黙の中から生き返らせる」ために書いたと語っています。
この小説の舞台となった外海(そとめ)町に『沈黙の碑』が建ったのは、1987年。
『沈黙』の発表から21年、碑には氏の直筆で
「人間が こんなに哀しいのに 主よ、海があまりにも碧いのです」
と刻み込まれています。
いろいろなことを思いながら、海をいつまでも眺めてしまうような言葉です。
つい‘からゆきさん’や奴隷海岸にまで思いが飛んでしまいます。
「遠藤周作文学館」は碑の建立から13年後です。
遠藤氏の没後10年に当たる2006年には幕末に建てられた国宝の教会で
「遠藤周作とすべての切支丹のためのミサ」が行われ、
TV局のホールで行われた橋爪功さんによる「沈黙」の朗読劇は大大大反響でした。
橋爪さんは声でも魅せてくれますからね。
元祖‘違いのわかる男’の狐狸庵先生、ネスカフェのCMはよかったですよネ^^。
http://www.youtube.com/watch?v=fYd2qsugZx4
文学館や碑のある外海町は、
信号の少ない海岸沿いの道と水平線に沈む夕陽の美しさでライダーならずとも人気の場所です。
やいっちさんはバイクで九州を走ったことはありますか?
投稿: ひらりんこ | 2009/12/16 22:35
ひらりんこさん
遠藤周作の「沈黙」は、正統な(?)キリスト教の立場からは、解釈の上で、疑義があったのでしょうね。
かなり日本的…情緒的?
でも、踏み絵についての思いは、日本的な受け止め方なのかもしれない。
小生には深入りできないけれど。
>TV局のホールで行われた橋爪功さんによる「沈黙」の朗読劇
さすが素晴らしい試みがされたのですね。
バイクは、ツーリングが好きで、散々、走ったのですが、悲しいことに、本州から出たことがないのです。
北は青森、南(西)は広島や島根・鳥取まで。
四国も九州も、北海道も未踏。
いつか、日本全国走破の夢を叶えたいものです。
投稿: やいっち | 2009/12/18 21:00
バイクと一緒にフェリーに乗って島を一周したりしたことはないですか?
九州、四国、北海道など一周するツーリングは、
スタート地点がゴール地点ということで、ゴールした時の達成感が一味違いそうですよね。
全国走破の夢、かなうといいですね!
僧尼の肉食妻帯蓄髪は明治政府によって(なぜ政府が?)解禁されるまで1200年続きましたが、
親鸞は800年も前に
「妻を持ち、肉を食う者が救われないなら、一般の者は誰も救われません。
修行をするごく一部の人間にだけ仏の慈悲はかけられているのではありません」と
言い放って妻帯、しかし、裏切り者どころか‘聖人’と呼ばれています。
親鸞の目的は‘すべての人を救う’という阿弥陀様の本願を開顕させるところにあったのです、というのが仏教界での苦し紛れの解釈のようです。
親鸞の言葉を借りると「イエスはキリスト教徒だけを救うのか?」ということになりますよネ。
仏や神の言葉を理解するために身を清め、心を研ぎ澄まさせるのが修行の目的、
そして人々にわかりやすく伝えていくというのが宗教家であるはずなのに、
自分だけが救われたいという気持ちが新興宗教の乱立につながったりするのではないでしょうかねぇ。
ところで私が遠藤作品で一番心に残っているのは『私が・棄てた・女』です。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8C%E3%83%BB%E6%A3%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E3%83%BB%E5%A5%B3-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-1-4-%E9%81%A0%E8%97%A4-%E5%91%A8%E4%BD%9C/dp/4061311417/ref=pd_sim_b_2
心に残る、というか残り過ぎて、読後のショックは数年続きました。
読んだときの私の年齢が、癩を発症する主人公・ミツに近かったからかもしれません。
私は昭和57年発行のものを読みましたが、平成に入って発行されたものは、
差別表現ととられかねない言葉を他の表現に置き換えてあり、
そのことについて遠藤さん自身の真意が巻末に短く書き添えられています。
それにしてもハンセン病が遺伝せず、感染力も極めて弱いとわかった後も
患者を隔離し続けた処置はホントひど過ぎますね。
数年前、熊本の温泉ホテルが、ハンセン病者の宿泊を拒否したことが問題になりました。
旅行を主催したのは県で、「他のお客様への配慮」を理由に受け入れを拒否したホテルを旅館業法違反で訴えました。
ホテル側は「ハンセン病患者の団体だと予約段階で言わなかった県にも責任がある。
加害者は県で、ホテルと患者は被害者だ」と主張しましたが結局、ホテルは有罪。
翌年には廃業し、従業員は全員解雇、建物は取り壊されました。
受け入れ拒否が報道されたことでホテルには抗議の電話やいやがらせが相当数あったようで、
廃業も「自業自得」と思う人もいたようです。
私もそうでした。
でも…もし私が温泉に浸かってたとして、
体にできもののようなものがたくさんある人がワラワラと入ってきたら、
かなりビックリして、患者の方に心で詫びながらお湯から出ると思います。
ホテル側が拒否したのは偏見からではなく、
多くの人が利用する施設だということ、他の利用者の心情を考慮した結果だと思います。
ホテルが受け入れていたらまた別の問題が起きていたと思います。
やはり加害者はホテルではなく、事前報告しなかった県ではないでしょうか。
ホテルを訴えた県の職員や、有罪を言い渡した裁判官は患者さん達と一緒に入浴や食事ができるのでしょうね。
投稿: ひらりんこ | 2009/12/25 18:47
ひらりんこさん
親鸞の話題が出てきましたね。
親鸞の書を初めて読んだのは高校時代のこと(といっても、ただの思想と生涯の解説書(清水書院)でしたが)。
で、熱中の余り、地元の新聞に信じることとか帰依とかについて(生まれて初めて)投稿。
そしたらそれが(多少、編集されて)新聞に載りました。
我輩の文章が(高校の会誌以外で)活字に成った初めての経験。
富山は真宗王国です。
が、真面目なお坊さんが多いとは思いますが、親鸞の思想をとても安易に<実践>するばかりで、出家者が結婚(妻帯)し、子どもをなし、肉食することの<破壊ぶり>を真摯に問うことを忘れ去っています。
ただ、安易なマイホーム主義のお坊さん。
真宗王国の土壌に甘えきっています。
ハンセン病についても、世論がハンセン病に対する見方を変えてから、ようやくそれまでのハンセン病患者を邪悪視する態度を一変させた。
世論に抗しても、ハンセン病に苦しむ者たちのために立ち上がるのが宗教者の本分のはずなのに、どこまでも世論に迎合するだけ。
風向き次第で姿勢を変える保身に汲々とする連中(誰もがそうだとは思いたくありませんが)。
そんなお坊さんたちに信心や救いを問うたり求めようなんておくびにも思いません。
ハンセン病が話題になった当時、そのホテルのことが槍玉になりましたね。
ある意味、犠牲になったとも思える面も。
>ホテルを訴えた県の職員や、有罪を言い渡した裁判官は患者さん達と一緒に入浴や食事ができるのでしょうね。
そう、痛切な問いかけですね。
世論でホテルを責め立てた連中も、自分はネットや多数の世論の陰に隠れているだけ。
そうはいいつつも、小生も偉そうなことは言えません:
http://atky.cocolog-nifty.com/manyo/2004/11/post_7.html
( http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2006/03/post_fb30.html )
投稿: やいっち | 2009/12/26 13:41
投稿が地元の新聞に載ったのはすごいですね!
でももっとスゴイのは高校時代に親鸞に熱中したということ。
信じること、帰依すること…大学の卒論レベルのテーマですね。
高野山など、「生活のすべてが修行」のお寺もあるようですが、
私の知っているお坊さんに限って言えば俗っぽいお坊さんばかり。
お布施や戒名代は立派な建物や車に姿を変え、
仏教がビジネス化してしまっているようです。
お寺の前を通る時や、お坊さんとすれ違う時、
頭を下げたり手を合わせる気など起こりません。
お寺は子供の遊び場でもなければ、心の癒しの場でもなくなりました。
寅さん映画に出てくる御前様のように、
心を開いて相談してみたくなるようなお坊さんは絶滅危惧種です。
すべての人に仏は慈悲をかける、というのをいいように解釈して、
肉食妻帯蓄髪だけではなく、いろんなものの制約を解いてしまっているようです。
修行などしなくても税金免除の優遇を受けているのだから、
せめて派遣切りなどで住むところをなくした人たちに手を差し伸べるべきです。
遠い昔、飢饉の時に使ったという大釜が保存されているお寺もあります。
食事までとは言いませんが、雑魚寝するくらいの場所の提供はできるでしょう。
派遣村のニュースなど見て何も感じないのか、直接お坊さんに聞いてみたいくらいです。
「全く何とも思わないのですか?、答えてください」
お坊さんではないですが、
『咳をしても一人』の自由律の俳人・尾崎放哉が亡くなるまでの8ヶ月、
寺男などをしながら過ごした小豆島での様子を書いた、吉村昭氏の小説があります。
http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E3%82%82%E6%9A%AE%E3%82%8C%E3%81%8D%E3%82%8B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E6%9D%91-%E6%98%AD/dp/4061835335/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1262002998&sr=1-1
山頭火は3歳年下の放哉を慕い尊敬していました。
島を2度訪れ、墓前で手を合わせ涙したそうです。
投稿: ひらりんこ | 2009/12/28 21:41
ひらりんこさん
あとで思い出したのですが、小生の親鸞の信仰についての投稿(葉書)が地元の新聞に載ったら、その反響があって、何人もの方が返信を書いてくれ、新聞に載ったこと。
月末、編者によるその月の講評が載るのですが、さすが富山は真宗王国の県だけはあるなんて。
そんな大袈裟なつもりはなかったから、びっくりしました。
当時としては、小生は真剣だったんですが。
逆に、これに驚いて、こんなに簡単に載るんじゃ、うっかりしたことは書けないし、投稿できないなって、変にプレッシャーが架かりました。
>修行などしなくても税金免除の優遇を受けているのだから、せめて派遣切りなどで住むところをなくした人たちに手を差し伸べるべきです。
大賛成です。
実は、小生の縁者にも僧侶されている方がいたりして、あるいは小生もどうか、なんて話があったとか…。
でも、小生は、自分が仮にお坊さんになったら、例えば、ホームレスの方が訪ねてきて、今晩泊めてくれと頼まれたら断る理由はない。
あるいはグレタ連中がやってきて、人生とはを真剣に徹夜でも論議するなんて状況があったら、断れない。
そもそも僧侶に家があるなんて(少なくとも自分に対しては)許しがたい、などなど、どこまでも(過剰に?)心配されて、とてもじゃないけど、僧侶にはなれないと思ったものです。
僧侶されている方たちは、そんなギリギリの問い掛けを自らに対して行なっているのだろうか。
たまに、ボランティアしてます、なんて善人面しているだけ、アリバイ作りをして糊塗しているだけじゃないかって、思えて成らない。
偏見?
料簡が狭い?
山頭火というと、ここのサイトの真摯な姿勢に頭が下がります:
http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/
尾崎放哉については(も)、あまり知らないので、これから勉強させてもらいますね。
投稿: やいっち | 2009/12/29 20:48
明けましておめでとうございますm(_ _)m
やいっちさんの投稿に何人もの返信が新聞に載ったんですか、スゴいですね。
採用が数人ということは新聞社への返信は相当数あったのでしょうね。
それほどやいっちさんの投稿の内容が、
多くの人にペンをとらずにはいられない行動に走らせたものだったのでしょう。
「ハガキを書いてもどうせ新聞には載らないだろう」と考え
返信をしなかった人が断然多かったことを考えると、
インパクトを受けた人はかなり多かったはずです。
やいっちさんが僧侶になっていたら救われた人が多かったでしょうね。
でも頼られるとみんな受け入れてしまうから逆に僧侶には向いていない、
というのは相手のことも思った、とても思慮深い判断だと思います。
今の僧侶の方に‘ギリギリ’という言葉は無縁じゃないでしょうか。
托鉢や寄付、自給自足などに頼らなくても
お布施や駐車場代など半端じゃない現金収入がありますからね。
毎日(かどうか分かりませんが)お唱えしているお経の内容がどういうものか知りませんが、
自分への戒めや問いかけなどでは決してないのでしょう。
お経の後の法話など、全く退屈な内容で心に響きません。
僧侶が、僧侶であることを捨てて俗人に戻る事を還俗といいますが、
昔に比べて僧侶と俗人の違いは大差がないような気がします。
虐待の一つに‘ネグレクト’があります。
‘無視は悪’なのです。
なぜ世の中の多くの困った人たちを僧侶たちが無視して、
それが特別問題にもならないのか不思議です。
何を求めて修行しているのでしょうか。
修行していれば、人はともかく、自分だけは救われる、という考えなのかしら。
「愛の反対語は無関心」(マザー・テレサ)
「他人のために死ぬことが最高の愛」(コルベ神父)
「世の中で一番尊いことは人の為に奉仕し決して恩にきせないことです」(福沢諭吉)
こちらの方が心に響きます。
投稿: ひらりんこ | 2010/01/04 21:46
ひらりんこさん
明けましておめでとうございます。
本年も、コメントなどで我がブログに喝を入れてください。
コメントとレスがあって初めて記事(日記)が生きてくると感じます。
江戸時代もですが、公認された宗教団体に特権を与えるのは、為政者としての知恵なのでしょう。
彼らが特権に甘んじ、殻に閉じ篭り、既成の価値観(伝統に胡坐をかくだけ)に頼りきり、治世に彼らや彼らの檀家や信徒らが多少でも文句を言う勢いの芽を削ぐ。
狙い通りの効果が歴然と示されているようです。
世は安泰、というわけです。
その実、世の中には置き去りにされ、うめいている人、世に封殺されている人が増えていく…決して減ることはないわけです。
刈り上げられたような鎮守の森や、掃き清められた境内の奥で、信仰者がいる、祈っている人が居る、という幻想も一定の功徳というか効果はあるのでしょう。
でも、本当に切羽詰った人たちには、無縁の世界に過ぎませんが。
有り難味があるのでしょうけど、神社もお寺へも足を運ぶ気にはなれない。
でも、どこかに本気で信心する人も居るに違いないと信じています。
そうでないと、あんまりですものね。
投稿: やいっち | 2010/01/05 16:49
為政者としての知恵、なるほど。
‘悪しき’伝統も江戸時代から脈々と継承され増殖しているということですネ。
博多の屋台は数が増え過ぎ、交通の邪魔になる、などの理由で
数年前から新規の参入を止めています。
「屋台の営業権は一代限り」で生計を共にする親族以外への譲渡を認めず、
また、親族であっても屋台以外に収入のある者へは譲渡できません。
売買譲渡も禁止です。
宗教関係も淘汰されるべきで、
それができないならこれ以上増えないようにするべきです。
そして檀家さんに収支を明確にして
駐車場収入などには課税するべきです。
ダンテの「神曲」には
「地獄の一番熱い所は道徳的危機に臨んで中立を標榜する輩の落ちる所である」
とあるそうです。
‘中立’には‘見て見ぬ振りをする’という意味もあったのですね。
マザー・テレサがかつて
「インドの貧困より日本人の心の貧困の方が深刻である」と
言っていたということを最近知りました。
なぜこの発言が大きく取り上げられなかったのか、
大きく取り上げたことで一つの問題提起となっていればよかったのに、と思います。
とてもショックで重い言葉です。
そうそう、お寺と言えば、写真家のアラーキーこと荒木経惟(のぶよし)さん、
経惟という名前の字面、な~んとなく抹香臭い感じしませんか?
彼の生家の向かいには投込み寺として知られる浄閑寺があり、
彼は少年時代、総霊塔を騎兵隊の砦に見立てて西部劇ごっこをしていたそうです^^。
経惟という名前の名付け親は何とこの浄閑寺のご住職だそうです。
惟は「唯」であり、経惟は「お経のみ=常に仏を惟(おもう)」ということ。
これを知って私は「荒木…えーっと、なんかややこしい名前だったな」を脱却、
経惟と覚えることができました(だからどうした、と突っ込まれそうですが…)。
アラーキーと言えばちょっと型破りで楽しいおっさん、
というイメージでしたが「愛しのチロ」でファンになってしまいました。
http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%AE%E3%83%81%E3%83%AD-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BCoff%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E8%8D%92%E6%9C%A8-%E7%B5%8C%E6%83%9F/dp/4582764541/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1263177520&sr=1-1
投稿: ひらりんこ | 2010/01/11 18:14
ひらりんこさん
信仰や信心は、あくまで当人の問題で、他人を救うとか何とかではなく、本人の求道のための宗教的営為もあっていいと思うので、お寺に篭っての修業の日々もあっていいとはおもいます。
ただ、それでも、あくまで一部の寺と思いたいですが、マイホーム主義の、商売本位のお寺にガッカリするばかりです。
写真家のアラーキーこと荒木経惟(のぶよし)さんの話、面白い。
お寺との絡みは、初耳でした。
「愛しのチロ」も含め、彼は人間味溢れる方なんですね。
自分の気持ちに正直な方なのでしょう。
投稿: やいっち | 2010/01/11 21:07