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2009/12/09

今日の漱石忌に思う

 今日九日は、漱石忌慶応3年1月5日(1867年2月9日) - 大正5年(1916年)12月9日))だという。
 高校時代から大学にかけては、ご他聞に漏れず(?)太宰文学にいかれていたが(あまりの耽溺に未だに改めて読み返す気になれない…というより、気力が湧かない…あるいは、ホントはのめりこむのが怖い?)、やや遅れて、学生時代から漱石文学に親しむようになっていった。

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← 知り合いが家に居てくれたので、ママチャリを駆って、ちょっと外出。いつもの川の土手を眺めおろす。

 島崎藤村作品を読み漁るようになるのは、ずっと後年だが、漱石や藤村文学に親しむこともあったが、明治の気風や、それ以上に曽祖父の世代の人たちの息遣いに触れたい思いで読んでいるという側面もあったように思う。

 我が家は、父の祖父が本家から田畑などを与えられて分家した。
 それが明治の半ば頃のことだった。なので漱石や藤村作品を通じて、その(ほぼ)同世代の気質や気骨の一端にでも触れたかったような気がする。

 まあ、それはそれとして、漱石(や藤村)の作品に魅せられたのも事実。

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→ すっかり葉が落ちて裸木となったカエデの枝に小鳥達が止まる。お腹が減っていて、掴む力が抜けたのか、ひっくり返って、大慌て! 鳥も木から落ちる ? !

 中学や高校時代にも、文庫本で読めるものは大概、手にしていたはず。
坊ちゃん」や「吾輩は猫である」などが我が入門篇だったか。

 やがて、漱石全集(角川版)を大人買いというか、まとめて買うほどに惹かれていった(但し、古書を安く入手した)。
 それは、「明暗」に感激してのことだった。

 それでも飽き足らず、サラリーマン時代に岩波書店から刊行された漱石全集を、今度は予約してまで購入していった。
 小説作品だけじゃなく、漢文や俳句、文学論も含め、漱石文学の全貌を展望しようなんて、僭越なことを考えてのこと。

 そのわりには、漱石について触れることは、このブログではあまりない。
一葉忌」で若干と、あとは「季語随筆拾遺…紫陽花と雛罌粟」にて、「雛罌粟 (ヒナゲシ)」の別名が 「虞美人草(ぐびじんそう)」だということから、漱石の話題に回り道をしてみただけ。

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← 数年前、人手に渡った田圃の片隅に柿の木。僅かに残った柿の実(多分、渋柿)を鳥たちが奪い合うように突っ突く。雪の降る日も間近だ。


 以下、当該の部分を転記してみる:

「中国歴史上の絶世の美女である虞美人にたとえた」など、詳しくは当該頁を読んで欲しいが、特に、「夏目漱石の小説に「虞美人草」がある。漱石が新しい小説のタイトル名を決めあぐねていたときに、街角の花屋さんで見た「虞美人草」の名に ”おっ、いい名前♪ これにしよう”ということで名づけた、ということらしい」(改行は小生が都合上、変更させてもらいました)というのは、これまで二度ほど、「虞美人草」を読んで、作品の世界の中に没入できなかっただけに、微笑ましいようなエピソードである。
 漱石の小説で、「夢十夜」はそもそも消化などできるはずがないと感じさせる作品だが、「虞美人草」と「坑夫」は、特に小生にとって理解可能であるはずなのに、なぜか消化不良の感の残る小説でありつづけた。
 が、10年ほど前の失業時代に改めて漱石の小説を全て読み直した中で、「坑夫」には興奮した覚えがある。どうしてこの小説の面白さが今まで分からなかったのかと我ながら不思議に感じられたほどだった。
 漱石の小説の中で、これらはあまり触れられることは少ない。「虞美人草」もだが、「坑夫」は尚更である。「坑夫」は、現代性をさえ、十年程前に読んだ時、感じたものだが、今、更に読み直したら、どう感じることか、確かめてみたいものである。
 それにしても、「作家としての漱石の、『虞美人草』に続く新聞連載第二作目」というが、こんな当代に在っても、意識の流れ的な手法を駆使した極めて高度な現代文学を読んだ新聞読者は幸運だったのか、それとも当惑したのか、当時の読者の反応の如何を知りたいものである。

                           (以上、転記終わり)


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→ すると、川面を泳ぐ水鳥を発見。細波は眺めている分には綺麗だけど、水は冷たくないの?


 漱石の小説作品の大半は最初から読んで楽しめたのに、「虞美人草」と特に「坑夫」はその世界に入り込めなかった。
 それが、岩波版の漱石全集の各巻を入手したその都度、片っ端から読んで、当然、「坑夫」にも触手が伸びたのだが、やはりなかなか馴染めない。
 それでも、上記したように、94年頃の失業時代に、改めて読んで、この小説のほかの作品とは別格の表現手法に驚かされたのだった。
 やはり、89年頃から、ノルマとして日々原稿用紙に換算すると5枚は必ず書く(創作や随筆、コラムなどなど)という修行を積んだからこそ、初めて気付かされたのかな、などと思ったりする。
 夜毎、少ない睡眠時間を削って創作に励んだ。
 白紙…ではないが、空白の画面に向かって、徒手空拳で、何もアイデアもないのに、とにかく創作を自分に強いる、その自分なりの研鑽の日々があったればこそ、「坑夫」をも楽しめたのかな、と思えるのだ。

 …と言いつつ、この十年余り、漱石文学からほとんど離れている(漢文や俳句の巻、文学論は読み返したが)。
 その意味で、やや忸怩たる思いで、この漱石忌を迎え、過ごすことになりそうである。

                              (09/12/08 作)

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コメント

スズメの写真、おもしろいですネーーー--ッ!
どういう状況で撮れたのですか?スゴイです。
考え事をしてたのか、トリプルアクセルで着地に失敗したのか、
やいっちさんの推測通り空腹のあまり足元がおぼつかなくなってしまったのか、
真相はわかりませんが、
いずれにしても、一生に一度出くわすかどうかというくらいレアなシーンですね!
(受験生が出くわしたらショックでしょうが(@△@))

漱石作品ではないのですが「にわか産婆・漱石」という本があります?
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AB%E3%82%8F%E3%81%8B%E7%94%A3%E5%A9%86%E3%83%BB%E6%BC%B1%E7%9F%B3-%E6%96%B0%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AF%A0%E7%94%B0-%E9%81%94%E6%98%8E/dp/4404037724/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1261699070&sr=1-1-catcorr

出産のその時を迎えた漱石家の様子を胎児の視線から書いたもので、
胎児のモノローグで構成されています。
出産を前に、うろたえていることを妻にさとられないように必死にとりつくろう漱石のあわてぶりがおもしろいです。
これを読む限り、漱石はしょっちゅう夫婦喧嘩をしています。
それというのも、漱石は外面がよい反面、
女子供や世間の多くの人を下郎とか有象無象とか言って小バカにしているのです。
男尊女卑を信条とする漱石は立て続けに女の子を生む奥さんを‘下等’、
子供たちを‘へちゃむくれ’と言っています/。
女は従順であるべき、と言う漱石ですが、
言われれば言って返す、従順とは程遠い奥さんもNICEです!

お札の肖像画からは金切り声でキーキーまくし立てる漱石など想像できませんが(^_^;)

歴史文学賞を受賞し、直木賞候補にも挙がったことがある著者は、
医者でありながら歴史や史実の研究や探求がすばらしく、
文章がとてもわかりやすくてリズミカル、ブイブイ読めますヨ。

投稿: ひらりんこ | 2009/12/28 22:59

ひらりんこさん

うっかり枝から落っこちそうになっている小鳥は、頭が黒いことからも、スズメではないようです。
ただ、種類が分からないので、小鳥と曖昧に表記しています。

枝から足を踏み外して落ちても、地上に落ちる前に宙返りするとか、そこは鳥らしく振る舞えるはずなのに、この小鳥ったら、なんとか枝にしがみ付こうと必死だったりする。羽をバタつかせて!
滑稽でした。
我が家の庭に訪れる鳥たちの姿を撮るのが楽しみの一つなので、内庭に枝に止まる小鳥を見て、急いで撮っていて、こういう場面に遭遇したのです。
ビデオに撮ったら、もっと面白かったでしょうね。


漱石の話、面白かったです。
漱石に限らず、一昔前の男は多くは男尊女卑の文化で育ってますね。
川端康成の「雪国」は、小生の大好きな小説で、5回は読んでますが、主人公は駒子をあくまで冷徹に眺めるだけ。
その意味で駒子を愛しているとは到底、言えない。
まあ、どこまでも自分が観察者、傍観者でしかない孤独を描いていると強弁もできなくはないでしょうが。


それにしても、ひらりんこさん、物知りだし、読書家ですねー。話題、豊富です。

投稿: やいっち | 2009/12/29 20:58

あっ、ホントだ!頭が黒い!
スズメじゃないですね、ハハッ、シジュウカラでしょうか。
http://www.digital-dictionary.net/wildbird/wb_3_001.html

枝に止まることにそれほどまでに必死になるなんて、小鳥にも根性があるのですね!
受験生に見せられないどころか、頑張っている人(やいっちさんも、ですね)みんなに
見せたい姿です。
見せたくないのは、椅子にしがみついて保身に執着する議員のセンセイでしょうか。

病気や貧困、酒乱、人間嫌いが原因で壮絶な人生を送る文化人は少なくありませんが、
放哉はそれに加えて帝大卒というプライドが破滅へのスピードをさらに加速させました。
放哉は死ぬまでこのプライドを持ち続けた、というか、振りかざしました。

<焼き捨てて日記の灰のこれだけか>
山頭火は自分で日記などを燃やしていますが、
放哉の残した手紙や日記の多さは半端ではありません。

『海も暮れきる』はドラマ化されましたが、
ホッとする場面もなく、41歳でボロ布のようになって悲惨に死んでいく内容のドラマが
なぜ正月の特番だったのかは謎です。
見終ったあと、正月気分など消え去ってしまっていたでしょう。
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-22460

私はぜんっっっっぜん読書家などではありませんヨ^^;
恥ずかしい話、大きな字では書けませんが…
ゆ、『雪国』、よ、読んでません。
「国境の…雪国であった」の後、どう続くのか知りませんし、
冒頭の「国境」も最近まで「こっきょう」だと思っていました。
作品より飼っている犬の名前に関心が向いてしまいます。
今まであまり読んだことのなかった純文学の領域にも踏み込んでみようかなと思っています。

投稿: ひらりんこ | 2009/12/30 23:13

ひらりんこさん

あの必死に枝に掴まっている根性の小鳥は、シジュウカラ?
なるほど、教えてもらったサイトを覗くと、模様などピッタリですね。
まあ、小生の画像だと不鮮明で、「のどから腹にかけて黒い筋(帯)」がハッキリしないのが残念ですが。


川端康成の『雪国』は、純粋無雑といった作品です。
宝石のように美しい、但し価値観によるだろうけれど。

「国境」は、「くにざかい」と読むという説も有力でしょうが、小生は前後の脈絡(音韻的な流れ)からして、「こっきょう」と読むのが至当だと思っています。
「くにざかい」と読ませる雰囲気の小説ではないと感じているのです。
まあ、人の好き好きですが。

川端の「眠れる美女」なんて、どうでしょう。
小生の大好きな作品の一つだけど、女性が読んだら、どう感じるか、興味津々です。

投稿: やいっち | 2010/01/01 13:25

やはり「こっきょうの」ですよねぇ。
冒頭が「くにざかいの」では字余り気味だし、韻が美しくないです。
同じ「ざ」でも、「丹沢の」とかだと字数も韻も収まりよく滑らかな滑り出しです。
「くにざかいの」はダメです。レールでなく凸凹道のようです。

ベストセラーになった『声に出して読みたい日本語』は、
最新版は「くにざかい」のルビですが、初版(2001.09.18 第1刷)では「こっきょう」とルビが振ってあるそうです。
讀者の指摘によつて改めざるを得なかったとようですが、
著者自身が「こっきょう」派なら「こっきょう」のままであるべきだと思うのですが…。

書店の近くを通ったのでちょっと川端作品を探そうと寄ってみました。
あまり大きくはない書店ということもあり、
川端作品、すごく少なくて…。
文庫本で『伊豆の踊り子』と『雪国』がありました。
『伊豆の踊り子』を手にすると、
ええーーーっ!表紙の絵がスゴいことにぃーーーっ!
例の‘文豪の名作と人気漫画家のコラボ’によるスペシャルカバーというアレです。
吉永小百合、山口百恵のイメージとはほど遠いラテン系のギャルが踊ってます。
これって、いいんだろうか…。
ちょっと引きながらも中を見ると、
川端本人や原稿、書、ハガキなどの写真が載ってます。
その中に川端が犬と一緒に写ってるのが1枚。
あっ、あれ?おおおーーーっ!
この犬がもしかして‘黒牡丹’ではぁーーーっ!
確か黒牡丹はテリアと狆の雑種。
川端の膝にすまし顔で乗っかっている犬は何となくテリアっぽい狆という感じです。
私が人生で初めて手にした川端作品で黒牡丹に会えるとは!
あ、いかん、いかん。
また作品より犬の方にアツくなってる。

気を落ち着けて中を見ると…
うーん、収録されている5編の中に『眠れる美女』は入ってないですねぇ。
『十六歳の日記』とか、『温泉宿』、ええっ!『死体紹介人』なんてのもあります。
サスペンス好きの私としてはちょっと気になるタイトルです。

巻末の解説には「川端にはこの世の人よりあの世の人の方が親しく身近であった」とあります。
「死者に向かって語りかけるとは、なんというかなしく美しい行為であろうか」と
繰り返し述懐していたそうです。

マラソンの円谷幸吉選手の遺書を「美しい」と褒めていたのに、
文学者である自分は美しい遺書も残さず、
早くに肉親を失って寂しい思いをしたのに家族や犬を残して自死したのは
それほど川端にとって死が日常の普通のこと、
死ぬことは何でもないことだったということなのでしょうか。

『眠れる美女』は図書館で全集を繰って探すことにして
とりあえず『伊豆の踊り子』を購入、
私の本棚についに川端作品が初の仲間入りです。
川端文学の美しさが理解できるかどうか…。

投稿: ひらりんこ | 2010/01/06 17:44

ひらりんこさん

「国境」の読み方については、作者の川端は「こっきょう」と読ませたかったと思います。
文章を読む際の音の流れからして「こっきょう」だと小生は思っています。


古典には古典のよさがあっても、その良さは、若い人には通じにくい…のかもしれないけど、学校の授業でさわりくらいは習ったじゃんと突っこみたくなりますが、かく言う自分だって、「方丈記」などの若干の例外を除いては、授業だから仕方なくだったなって。
教える教師に問題があるのか、古典を味わうには、ある程度の素養と年齢の積み重ねが必要なのかもしれない。
そうはいっても、表紙も大事ですね。
我々は古典と後生大事に扱うけど、書き手は当代の方。
当時としての「今」を、あるいは痛切な過去を抱えていたわけで、その切迫感、同じ(似た)悩みを今昔に関わらず感じていたってことを示すには、今の感性での本の装いも効果はあるのかもしれない。
あくまで入口へ導く効果ですが。


川端作品に接しられるとか。
「雪国」など、幾つかの作品は宝石のような至純さを感じますが、男性と女性では受け止め方が違うかもしれない。
ひらりんこさんの感想が楽しみです。

投稿: やいっち | 2010/01/07 13:16

図書館に寄る時間があったので川端康成の『眠れる美女』探してきました。

「眠ってゐる女の子の口に指を入れようとなさつたりすることもいけませんよ」

ええっ!?な、何、一体どんなストーリー…
普段は数冊を同時にボチボチ読みの私ですが出だしがこれですからね、
一気読みしてしまいました。

‘静かなるドン’という漫画がありますが、これは‘静かなるエロティシズム’、
過激な描写など全くなく、淡々とした‘美しい’言葉で
どうしてこんなにドキドキするんでしょうか。
焚き火に当たって体の表面がカッとアツくなるのと違って
体の奥にある熾火がジワジワと、でも確実に熱を帯びてくるような感じです。

61歳だった川端自身も執筆中に熾火の熱の高まりを体内に感じていたのでしょうか。

おとなしいシーンに、おとなしい文章、それなのにすごく生々しく感じます。
読み手が男か女かでとらえ方は全然違うでしょう。
もはや‘少女’ではない私でさえ
眠らされてる間に老人に観察され触れられるのを想像してしまいます。
宿の女将が息をひそめて耳をそばだてているかもしれません。

二十歳前後の頃だったら、あまりのナマナマしさに胸が痛くなって
半分も読めなかったと思います。
やいっちさんが読んだのはいつ頃でしたか?

乳くさい娘、なれた娘、小さい見習いの娘、あたたかい娘、黒い娘と白い娘二人組。
みんな『眠れる美女』というより‘美少女’ですが、
眠ってて何も喋らない、会話がないという設定には驚きます。

少女たちの素性や、宿に呼び出されて眠り薬を飲むのをどう理解しているのか、
何も書かれていないのもいいですね。

驚く、と言えば当時すでに電気毛布があったのにも驚きました。

それにしても女の子を眠らせて老人相手に商売とは、
今はもちろん、昭和30年代でも法律に触れることだと思いますが、
この小説が発売されたことで、
当時こういう商売が闇の商売として流行ったということはなかったのでしょうかねぇ。

私が読んだのは昭和36年発行のもので、定価三百円とあります。
最近の本は帯に定価が印刷されているので
帯がなくなったらいくらで買ったかわからなくなっちゃいますよネ。
‘深紅のびろうどのかあてん’を意識したのか、
装丁は赤っぽい布張りの装丁になっています。
巻末に‘解説’がないのでちょっと調べてみたら三島由紀夫氏が絶賛したようですね。
川端の感じる美しさをそのまま、いとも簡単に理解できる人のようです。

出だしの女将の言葉、静かに、でも体温や匂いを感じさせる文体、意外な結末、
私が「名作ですね」などと言うのはおこがましいですが、
ずーーーっと記憶に残る作品には間違いありません。
教えてくれてありがとうございます。

そうそう、今夜10時、教育TVですが、
学校に通えず読み書きができなかった女性が60歳で地元の識字学級に通い、
文字と出会ったことで人生の転機を迎え、
ついには文学賞を取るほどの文章を書くに至った過程の特集です。
気持ちさえあれば、遅過ぎる、ということはないのですね。

投稿: ひらりんこ | 2010/01/17 17:51

ひらりんこさん

川端康成の『眠れる美女』を読まれたんですね。

印象的な作品だったろうと思います。
この作品、あるいは『雪国』などを読むと、川端康成のある種の孤独を感じます。
(まあ、誰だって孤独なんですが)

彼は、徹底して内気な人間。どこまでいっても観察者でしかありえない人。
特に女性に対しては。
『雪国』でも駒子を主人公の島村は(当人は冷酷とも思わずに)その境遇や行く末を眺めるだけ。
決して関わろうとしない。あくまで他者。
川端はこの生きている世界に触れ得ない自分を強く自覚していたのではないかと、想像されてしまいます。
そういった透徹した孤独者の、にもかかわらず対象(多くは女性)への愛惜の思いの募るが故の、懸命な(虚構の上での)愛撫の文学、それが川端文学って印象を持っています。


教えていただいた番組は、放送された頃には就寝していたので観れませんでした。
直接は関係ないけど、一昨日だったか、ラジオである役人上がりで政治家にもなった方が、英語での会話能力がこれからの国際人には必要と強調され、70歳を超えて英語の勉強を始めた、なんて話されていました。

英語に限らず、年齢のハンディをものともせず、何か新規に始めたりするのって凄いと感じます。
自分にはなかなかそんな意欲が湧かないし。

投稿: やいっち | 2010/01/18 16:11

女性は吉田一子さんという大阪の人で現在84歳、
字を習うきっかけになったのは銀行の窓口で
用紙に名前を書けずに年金が受け取れなかったから。

兄弟がいて、子供も3人いるのですが(孫やひ孫も)、
自分の名前や可愛い子供の名前くらい書けなければ、
と強く言ってくれる人はいなかったのでしょうか。
60歳過ぎまで鉛筆を持ったこともなかったそうです。
識字学校など通わなくても、
紙と鉛筆があればコタツに入ったままテレビを見ながらでも教えられます。
文学賞をとったことよりそちらのほうが心に残った私は変わり者かもしれませんネ。

年齢的にハンディがあっても新しいことに挑戦するきっかけは
実際に不便を感じていて‘必要に迫られる’ということだと思います。
私は運転免許を持っていませんが
それほど不便ではないのでなかなか免許を取りに行く意欲がわきません(* ̄ー ̄*)。

今さら、という感じですが
書き込みがいつも長くてすみません。
やいっちさんが時間に追われているのはわかっているのですが
短く要領よく、というのが苦手でつい。
これからは短文を心がけます(できるだけ(≧m≦))。

投稿: ひらりんこ | 2010/01/20 18:06

ひらりんこさん

吉田一子さんの話、感動的ですね。

我が父にも聞いて欲しいような話です。
面倒だからと、(一番、機能の単純な)携帯電話も使うのを嫌がる。
その実、電話は身近に置きたがるし。

小生は今は、家のことに掛かりっきりなので、時間が取れませんが、せめて読むこと、書くことだけはと、ほそぼそブログを続けています。

ところで、書き込みが長いなんて、そんな!
そんなことは全くないですよ。
長い文章を書くのが習いの小生ですもの、ひらりんこさんのコメントを読むのに面倒を感じたことなど全然、ありません。

話題が広まってとても嬉しいです。

実を言うと、ホームページを開設した当時、掲示板を持っていて、コメントを貰ったら、可能な限り早くレスを書くようにしていたのです。
それがいいと思って!
でも、それだと、コメントするほうも、億劫になったりしがちで、互いにコメント(対するレス)をし合うのが億劫になりがちと反省した次第です。

なので、コメントを貰っても(とっても嬉しい!)、敢えて意図的にワンポイント遅らせてレスするようにしているのです。

ひらりんこさんをはじめ、いろんな方に、そしていろんな記事にもっと気軽に気兼ねなくコメントやメッセージをもらえたらいいなって思っています。
これからも宜しく!

投稿: やいっち | 2010/01/20 21:05

<話題が広まって嬉しい>だなんて!ホントですか!
こちらこそ嬉しいです。(言葉をそのまま受け取る方ですから^^)

こんなコメントでよかったらこちらこそこれからも宜しくお願いします。

掲示板でのやり取りはちょっと難しい部分がありますよね。
以前他の掲示板で私なりにこれで終わり、と思って書き込み、
しばらく間をおいて久しぶりに板を覗いたら最後のはずだった書き込みに返事をくれてて
それを放ったらかしにされてることに激怒したコメントが追加されてました。
すぐに謝りの書き込みをして結構経ちますが返事はありません。
私は返事がなくても何とも思いませんがネ(あー、怖かったぁ(lll゚Д゚))。

コメントに敢えてワンポイント遅らせてレスするなんて、すごい気配りですね^^。

やいっちさんのお父さん、携帯電話を持ちたがらないのですか。
考えを曲げない意地の強さはある意味元気な証拠かもしれないですネ^▽^。
携帯電話を持たされることを「敗北」と感じるお年寄りは少なくないそうです。
一体何に負けたのかわからないですけどね(おそらく本人もわかってない)。

投稿: ひらりんこ | 2010/01/25 17:55

ひらりんこさん

>コメントに敢えてワンポイント遅らせてレスするなんて、すごい気配りですね^^。

すみません。
これはレスし損ねていました。
大切な、嬉しいコメントなのに!


父のための携帯電話、今も毎月、料金を払っています。
通話(通信)は、全くゼロなのですが。
父は、酒もタバコもやめない。
入院して、酒は控えめに、タバコは止めるようにってお医者さんに言われたのですが、退院したら、元の木阿弥です。
タバコをやめたら、控えめにしたらというと、ムキになって怒ります。

父の部屋はタバコ臭いし、床は灰で汚いし、焼き焦がしが幾つも。
(念のために書いておくと、ちゃんと小生が掃除しているのですが、あっという間に灰で汚すんです。)


最近、悲しいことがありました。
実は、東京在住時代に知り合った方の娘さんが亡くなられたのです。
自ら選び取った形で。
ネットでは、娘さんの情緒不安定なことを彼女(お母さん)が嘆いているのを日記で読んで知っていたのですが、まさかそこまで深刻に悩んでいたとは、気付きませんでした。
東京在住時代は、お世話になっただけに、お母さんの気持ちを思うと、胸が傷みます。

投稿: やいっち | 2010/02/04 15:09

たーーーーーいへん遅くなりました、すみません。
パソコンが甦りました。
たまに仮死状態になります、お見知りおきください。

タバコの話になるとムキになって怒る位の元気がある、と考えることにしましょうか^^。
確かにタバコの灰って狭ーい所に入り込んで厄介ですよね。
タクシーに乗っていた頃、車内の掃除が大変だったんじゃないですか?

今や、交通事故遺児より自殺遺児が多いそうですね。
相談されれば励ましたり助言をしますが
耐性は人によって違うのでどれほどの力になれるか、難しいところです。

先日もプロ野球の選手が、また、俳優の船越英一郎さんの実妹さんが命を断ちました。
かたや‘第二のイチロー’と期待され本人も今季は全試合出場を目標に頑張り、
かたや旅館の女将で、湯河原の女将の会会長。
相談できる人は周りにたくさんいたはずなのに一人で逝ってしまいました。
選手は12月に結婚したばかり、
遺体を引き取りに行った新妻の心境は察するに余りあります。
船越さんの妹さんは家族によって発見されました。

残された者は死に等しいほどのダメージを受けます。
事件や事故で亡くしたのと違い、
「気づいてやれなかった」「力になってやれなかった」と、自分を責めます。
自殺のニュースを見聞きするたび、
亡くなった者と同じ名前を見聞きするたび、
テレビや映画で自殺のシーンを見るたび、
雰囲気の似た人を見かけたとき、
思わずハッとなって‘あの日’の自分に引き戻されます。
衝撃と後悔の念が少しも色あせないまま甦ります。

それらが生きている間ずーっと続くのです。

自殺を考えることは多くの人が経験していると思います。
それを思いとどませるのは「もしかしたら明日にでも状況がよくなるかもしれない」
という淡い期待感と、
残された者たちが驚き、絶望し、嘆き悲しむ姿を想像することです。

それを考えてもなお自分の意思を貫くのであれば
献体やドナー登録の意思表示をしてからにしてもらいたいです。

投稿: ひらりんこ | 2010/02/22 18:08

ひらりんこさん

自殺者の心中なんて、当人でないと分からないものだろうし、亡くなってしまわれた方には、何を言っても空しいだけでしょう。

理由はともあれ、苦しさのあまりに自ら命を絶つ人もいるのでしょう。
でも、中には、自分が死ぬことで誰かに、周りの人に腹いせしている…そのつもりになっている人もいるような気がする。

そう、残されたものが、当事者でないばかりに、際限もなく苦しみ続け、自分を苛み続けることもあるでしょうね。

自殺。
死は必ず誰にも訪れる、唯一、平等に与えられた機会。
死が宿命付けられているからこそ、苦しさにも不毛さにも耐えられるのだと思ってます。
自殺するにしても、自殺とは気付かれないよう、事故に見せかけるとか、周囲に配慮くらいはしたいものですが、そうもいかないんでしょうね。

>献体やドナー登録の意思表示をしてからにしてもらいたいです。

自殺する人は、自分の肉体の一部なんて、たとえ細胞一つでも、この世に残したいとは思わないのではないでしょうか(そう考える余裕が在るかどうかは別にしても)。
まして、他人の体に残っていくなんて、怨念を残すようなものに感じられます。

投稿: やいっち | 2010/02/23 20:41

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