我がタクシードライバー時代の事件簿(7)
→ 『タクシー・サンバ』 (「緒形拳主演、タクシー運転手の目を通して、現代社会の断面を描く」というもの。画像は、「NHKドラマ名作シリーズ タクシー・サンバ ~全集~ 全2枚セット」より)
今回の話も、実話を元にしていますが、生々しいので、敢えて虚構の形で書いてみたもの。
あってはならない、でも、ありがちな(?)事件。誰しも、似たような経験があるのでは?
読まれるに際しては、予め、別ページの注意書き をどうぞ、よーく、お読みください!(← いえ、読まなくて結構です。)
「ここは何処?篇」
[運](あああ、今日は不調だ、客が見つかんねえや。今日は、じゃねえな、今日も、だ。このままじゃ、一時間も空気、運んじゃう、辛い! 仕方ねえや。何処かの駅に付けるか。何処がいいか。近場だと…、あ、○▲駅がいい。あそこはターミナル駅じゃないから、そんなに空車のタクシーの列も長くないし…。)
ターミナル駅とは、複数の(鉄道)路線の交差している駅で、新宿駅、東京駅、品川駅などを指す。
[運](長くないと思ってたのに、付け待ちの列がやたらと長い! 不況なんだなー。みんな、考えることは同じか。それに、集配のトラックとか、送り迎えの自動車などが多くて、止めるのも容易じゃねえな。クソ!)
[運](さっき、お客さんを降ろしてから、一時間以上も経過しちゃったよ。日報にブランクが。休憩もしてないのに、一時間半も乗せていない時間帯があるなんて、情ねー。さて、このお客さんは、何処かな。サラリーマン風。近場は間違いない。いいんだ。とにかく、まずは、乗って貰って、仕事のリズムを変えることだ。自分じゃ行かないような場所にお客さんに連れてってもらえるし…。)
[運]「はい、どうぞ!」
[客]「運転手さん、近場で悪いけど、◆○ビルまで頼むよ」
[運]「はい、◆○ビルですね」(いいのよ、いいの。近場だって、遠慮しないで乗ってね。空気よりはずっとましなんだから。大体、ターミナル駅じゃない駅だと、客さんってのは、大概が近場なんだから、こっちもそのつもりなんだけどなー。ま、お客さんは、そんな事情、知らないから、人のいい客、普段、タクシーに乗り慣れない客だと遠慮がちになっちゃうんだよねー。)
タクシーは走り出す。目的地、目指して…。が、あまりに長く、お客さんを乗せなかったせいか、それとも、何か考え事をしていたせいか、いや、もしかしたら、さっき、目の前を通り過ぎた女性が素敵で見惚れてしまったせいか、いずれにしろ、つい油断したせいで、とんでもない事態が発生した!
[運](やっと、お客さんだ。とりあえず、目的地まで走らせて、無事、お届けして、走行のリズムを変えて、流しでお客さんを拾えるようになったら、いいなー。……、はて?)
[運](あ、まずい。目的地が何処か、分からなくなった。場所のこと、頭から綺麗に消えちゃった。町の名前だったっけ、ビルの名前だったっけ、それとも、交差点の名称? ああああ、まずい。地名が吹っ飛んじゃったぞ。)
運転主君、パニックである。コメントしようにも、目的地を忘失した原因が不明。まして、何処へ走らせるべきか、告げる術(すべ)もない。自業自得だ、頑張るしかないね。さて、奴、どのように苦境を打開するか。それとも、打開できずに瓦解するかな。
[運](ダメだ。完全に消え去ってる。なけなしの脳味噌を掻き削っても、何も出てきやしねえ。お客さんに、もう一度、聞くか。あの、わたし、何処へ行けばいいんでしょう。まさか、そんなこと、言えるはずがない。あああ、何処だ? オレは何処へ行けばいいんだ?)
[客]「(無言)」
[運](お客さんの顔を見て…も、分かるはずないし。えっと、車はこっちを向いている。この方向だと、あの交差点とあれと、あれと…。ビルだと、あれかこれか、それか、どれか。分かるわけねえや。とにかく、走り出した瞬間は、間違いねえはずだ。ああ、一体、何処へ行けばいい。あと少し走ったら、交差点だ。信号がある。頼む、信号機よ、赤になってくれ。赤で信号待ちしている間に、きっと、思い出すから…。おお、天の恵みか、日頃の行いがいいせいか、黄色だ、赤に変ったぞ!)
← 昼間、知り合いのものが家に居てくれたので、その間、ちょっと外出。途中、イチョウ並木(モドキ)の道を通った。…が、惜しい。片側は立派な杉並木。できれば、両方をイチョウに、あるいは杉の木に揃えてほしかった。そしたら、素敵な舗道になったろうに。
お客さんは、相変わらず、無言のままである。そりゃそうだ。一人の方だし、携帯電話を使っていないし、一人でブツブツ喋ると、反って怖い!
[運](こうなりゃ、お客さんの口から聞き出すしかない。ええと、どうやって口を割らせるか。そうだ、天気だ。きっかけはー、ライブドアじゃない、フジテレビってんだ。ちと、古いか。さて、この客は、話に乗るか。それとも、逸るか、だ。)
[運]「今日は、いい天気ですね。夕べの雨が嘘みたいですね」
[客]「ああ、ゆんべは、凄い雨だったね」
[運](ゆんべだって、あんた、何処の在所じゃい、なんて、そんな茶々を入れてる場合じゃない。おーおー、このお客さん、乗ってくるよ。いいね。オレッチのタクシーに乗って、話にも乗る。ダブルでラッキーだねって、そんな場合じゃないっちゅーの。)
[客]「ゆんべはさ、オレさ、仕事でさ、外回りで大変だったよ。で、あの雨だろう。パンツまでずぶ濡れさ」
[運]「ほー、それは大変でしたね」と相槌を打つ。
(あああ、信号が点滅している。青になっちゃう。直進か、左折か。それとも、挫折か!)
[客]「でさ、あの雨、パッと上がったじゃない。オレ、営業先のHビルから出るとき、うっかり、傘、置き忘れちゃってね。だってさ、すっかり上がってんだもん。誕生日に女房に貰った、高級な奴でさ。忘れました、じゃ、済まないんだよ。これから取りに行かなくっちゃいけないんだ」
[運](傘、取りに行く…? Hビル…。あ、Hビルだ、思い出した! 右折だ、右折。ウインカーを出さないと。信号が青になっちゃった。)
運転主君、慌ててウインカーを出すと同時に右折開始。急な進路変更で、後ろの車が警笛を鳴らし、アクセルを吹かしながら勢いよく脇を走り抜けていく。
[運]「そうでしたよね。春の雨は気紛れですものね。なーるほど、奥さんからのプレゼントですか。そりゃ、大切にしないと」(ああ、心臓がバクバクしている。どうなることかと思ったよ。お喋りの、気のいいお客さんでよかった…。)と、いい加減な相槌。語調などは平静を装っているけれど、内心は、安堵の胸を撫で下ろしている。
[客]「そうなんだよ。今朝、女房の奴、機嫌が悪そうだったから、傘、置き忘れたの、気付かれてたのかなって。とにかく、早めに取り返しておかないと、先々が心配でさ」
[運](傘を取り戻しにHビルに行くのか! ああ、こんな客もいるんだな。ありがたいというべきか、分からんけど。よしよし、ビルの前は、今日はタクシーを止めるスペースがあるぞ。滑らかに止めてっと。)
「ここで宜しいですか」と、声が弾んでいる。
[客]「ああ、いいよ。ああ、運転手さん、万札だけど、いいかな」
[運]「大丈夫ですよ。」(この際だ、万札だろうと、馬券だろうと、偽造の金券だろうろ、なんでもいいさ。無事が何より。やっと、心臓が落ち着いてきたよ。)
[運]「660円ですので、御釣りは*#円です。領収書、どうぞ」
[客]「領収書はいいよ。それより、悪いねー、近場なのに、万札で」
[運]「いいえ、とんでもないです。ありがとうございました」
バタム! とドアの閉まる音。車内が静かになった途端、運転手の心臓の音が聞えてくるようでもある。心臓に毛が生えているわけじゃなし、まだ、実は鼓動が早い。こんなことが何回もあったりしたら、早死には間違いない。まあ、とりあえずは、一件落着である。終わりよければ全て善し、と、この場合、評していいものか、判断が付きかねる。運転主君、くれぐれも、同じ失敗を繰り返さないように。目的地は、惰性で復唱するだけじゃ、ダメなのよ。日頃、やっているように、脳裏に走行すべき地理の情景を明確に描かないとね。
やがて、運転主君、気まずい失敗を拭い去るようにアクセルを強めに吹かして、走り出すのだった。さあ、気持ちを切り替えて、次ぎのお客さんを早く、探そうね。
→ 今日(一日)、川縁で見かけたサギ。哲人の風格が漂っている…ような。
関連拙稿:
「我がタクシードライバー時代の事件簿(序)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(1)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(2)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(3)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(4)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(5…前篇)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(5…後篇)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(6)」
(09/12/01 作)
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