« 夢のない夢を見る | トップページ | 我がタクシードライバー時代の事件簿(5…前篇) »

2009/11/22

雲に覆われた真夜中の明るさ

 月影について、満月について、今まであれこれと綴ってきた。
 今月に限っても、「月影のワルツ?」では、(ほぼ)満月の真夜中の月影の清冽なまでの明るさ、物の影の輪郭の鮮やかさをメモったし、「「ムーンシャイン」は妖しい言葉」では、「ムーンライト」とはまるで違う意味を持つ、「ムーンシャイン」について語り、「「月影に寄せて」の頃のこと」では、改めて「月影」という言葉の意味を探ってみた。

2009_1121071003tonai0008

← 南天の真っ赤な実。背後には熟したミカン。いずれも水も滴るいい果実!

 今日もまた、月についての話題である。
 …と書きながらも、実はもしかして勘違いしているのかもしれない、月に因する話ではないかも、という一抹の不安もある。

 富山は北陸特有の冬の陰鬱な曇天の空模様がもう、始まったかのような天気の日が続いている。
 毎日、曇りで雨マークがない日は数えるほどである。
 そんな中でのバイクを使っての配達仕事をこなしている。
 丑三つ時過ぎに家を出て、三時前から仕事を始め、日によって(天候によって、あるいは新聞の折込広告の分量によって)随分と配達に要する時間は違うのだが、遅くとも五時半には配達を終え、帰宅は五時半から六時前後といったところか。
 いずれにしても、今の時期、帰宅しても真暗である。
 車のラジオで、そろそろ日の出の時間です、なんて放送を聴きながらの帰宅の途なのである。

 真夜中過ぎだから暗いのは当たり前。
 だけれど、そんな真っ暗闇の中の活動を日々、こなしていると、だからこそ、微妙な闇の深さの違いや変幻に敏感になる。
 ちょっとした闇の濃さの違いが、よそ様の家の中を踏み分けていくに際し、小走りになったり、それこそ泥棒でもするかのように、抜き足差し足忍び足になったり、足どりの様相を随分と左右する。

 さて、まず、満月の夜の明るさ(暗さ)と、新月(…つまり、月影の皆無な月齢時)の、だけど晴れ渡っていて星が満天を埋め尽くしている夜の明るさ(暗さ)とでは、どっちがどうだろう。
 これは、文句なく満月の夜の明るさに軍配が上がる。
 夜明け前の空気が一番、澄んでいる時間帯ということもあって、郊外とはいえ、市内の平野部でも、月のない夜空に鏤められた星々の煌きたるや、時に凄みを感じさせてくれる。
 魂が震撼させられる、なんて大仰な呟きを胸中で発したりする。
 それでも、明るさという一点に絞ると、満月の夜の清澄さは徒(ただ)ならぬものがある。

 ところで、不思議な夜を経験することが間々、ある。
 表題にも書いたが、雲に覆われた月の明るさを感じることがあるのだ。
 時間帯は、例によって夜中の三時とか四時とか五時とか、である。
 空は曇天。
 雨上がりだったり、今にも泣き出しそうな、晴れ間などありえようもない曇天の空。
 当然、月影など、皆無である。
 月が夜空のどの辺りにあるかを窺う術もない。

 薄い雲だったり、ほんの僅かでも雲の切れ目があって、偶然であれ、一瞬でもそこから半月や三日月の影が垣間見られる、なんて期待できない雲の厚さ、広がりなのである。
 なのに、妙に空が明るい。
 晴れ渡った夜の満月の月影には、さすがに敵わないし、地上のモノの影の輪郭だって、鮮やかとはいいかねる。

 だけれど、足元が危うい、なんてことはない。
 よほど、家の中の植木や壁(塀)が立派だとか、駐車場の屋根が門前から玄関まで覆っている、なんてことでもないかぎり、懐中電灯で足元を照らさないと歩けない、なんてことはない。
 曇天なのに、世の中全体が妙にボーと明るいのである。
 曇天の真夜中の玄妙な白々しさという恵みを戴きながら、地上世界を這い回りつつ、不可思議を愛でる。

 月齢からして、月は、三日月と呼ぶのも気兼ねするような薄さ。
 だから、分厚い雲を透かして月の光が地上世界に漏れ漂う、なんてこともありえそうにない。
 いや、そうではなく、月影が雲の上で乱反射して、雲をそれこそ、祭りの夜の灯明に照らし出される綿菓子のように、妖しく懐かしげに光らせている、とも考えられる。
 雲の中に月の光が満ち満ちて、その光が溢れ出して地上世界を優しげに照らしてくれていると考えられなくもない。

2009_1121071003tonai0005

→ 雨の中、内庭の木々を暫し眺める。今日の午後、ちょっと時間的な余裕ができ、数ヶ月ぶりに銭湯へ。忙中閑あり、か。

 一方、低く垂れ込める満天の雲に、地上世界の町の明かりが反射している、月の光じゃなく、町の灯が雲を鏡として、地上世界に翻(ひるがえ)ってきている、という考え方もありえる。
 しかし、これも、夕方の都会や市街地だったら分かるが、小生が駆け回っているのは夜中の三時過ぎ、四時過ぎのことなのだ。

 その辺りの真相を確かめる能は、小生にはない。
 きっと、平明な説明があるのだろう。
 正解は識者に任せるとして、小生は、曇天の夜の不可思議な明るさを感じ愛でるだけである。

                                 (09/11/21 作)

|

« 夢のない夢を見る | トップページ | 我がタクシードライバー時代の事件簿(5…前篇) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

駄洒落・戯文・駄文」カテゴリの記事

オートバイエッセイ・レポート」カテゴリの記事

富山散歩」カテゴリの記事

写真日記」カテゴリの記事

コメント

真相を確かめるには新月の曇天の空を見上げれば良いだけではないですか?その時、雲が見えないほど暗ければ、反射する光も皆無ということになりませんか?

投稿: pfaelzerwein | 2009/11/22 06:28

pfaelzerweinさん

>真相を確かめるには新月の曇天の空を見上げれば良いだけではないですか?その時、雲が見えないほど暗ければ、反射する光も皆無ということになりませんか?

全くその通りです。
ただ、新月(乃至、新月前後)の曇天の空の下での営業も、何度か経験しています。
必ずしも、今回と同じような明るみを感じなかったような気がします。

…ただ、今回は、妙に明るく感じられたので、初めて不思議に感じただけで、これまでもそうだったのかどうか、実際に比べてみないと分からないですね。

今後、似たような機会があったら、確かめてみたい(でも、寒さで確かめる余裕はないかもしれない)。

ただ、確かめても、単なる印象の違いに留まるかもしれない。
正確を期するには、いろいろな条件下での明度を測定するのが一番なのでしょうね。

それはそれとして、新月(前後)での曇天の日の玄妙な明るさに、言い知れぬ世界を感じた、ということを伝えればそれでいい、それだけの文章なのです。

投稿: やいっち | 2009/11/22 20:52

「雲が照り返す町の灯」は、東京などでは感じ難く、かといって僻地でもないものかと思います。恐らく、同じような新月の状況(雲の底が高度3000メートル程度までにある場合)では、東京の町に光は殆ど天と地の差がないほどに色付いているかも知れません。特に工業地帯の高く上がる焼けた空気などは遠くからでも観察出来るでしょう。

新月の夜に大抵は闇夜とすると直接間接の光が廻り込んで来ている光量は少ない訳で、「上を見上げずに照らされる」感覚はそうした観察者の位置からは、「雲が真っ白に確認できる」状態なので、なんら数値化しないでも科学的な観察は完結するでしょう。それどころかその照らされる方向で光源が定められるかと思います。

投稿: pfaelzerwein | 2009/11/22 23:29

pfaelzerweinさん

さすがに鋭い指摘です。
言われてみるまでもない?

昨夜は、ほぼ新月でした。空は薄い雲があるだけで、星が一杯。

やはり、雲があった一昨日よりずっと暗かった。

となると、雲の玄妙な明るさが原因で、一昨日などは、足元が比較的明るかったと思うしかない。
問題は、雲が光を溜め込んでいるかのような白っぽさの原因、メカニズムです。
バイクで直径だと十キロ以上のエリアを移動しているのですが、特定の地域の夜空の雲が明るく感じられる、という風ではなかったです。
地上の町の明かりが寄り集まって、雲を明るく見せている(雲が鏡として反射している)のか、どうか、小生には分かりません。

ま、小生としては、理由がどうであれ、丑三つ時過ぎの夜の足元が少しでも明るいってのが助かるな、というだけです。

投稿: やいっち | 2009/11/23 21:22

「特定の地域の夜空の雲が明るく感じられる、という風ではなかった」のは、反射ですから観測する位置によって変わる虹と同じですよ。つまり、メカニズムは塵と水蒸気の雲が適当に町の光を反射するのでしょう。

先の書き込みをしてから、朝焼けやそれに類する明るさとの相違を考えました。大きな違いは高層の雲でなければ、地上に反射する形にはなり難いことと、どうしても水平線を廻りこみ易い赤味がさしてしまうので白く照らされることは少ないのでしょう。

似た現象として、高層の雲の夕焼けが夜中観察されている報道がありましたね。

それに引き換え町の明かりは、火事や工場がない限りスペクトルムが限られているため、プリズム効果は現われず、霧の中のヘッドライトのように拡散した反射光になるかと思います。雲が低い時の方が白く見えませんか?

投稿: pfaelzerwein | 2009/11/24 03:54

pfaelzerweinさん

>雲が低い時の方が白く見えませんか?

まさしくその通りで、本文にも書いてあるように、「雨上がりだったり、今にも泣き出しそうな、晴れ間などありえようもない曇天の空」ということで、雲が低く垂れ込めている場合、白くうっすら輝いているように見えます。

実際、今朝は快晴の星空。雲は高い空に薄っすらあるだけ。富山だけに、郊外ということもあって、星の数の多かったこと。
…けれど、足元は暗かった。満天の星空も、月影がないと暗い。


雲の低く垂れ込める鉛色の空。…のはずが、白っぽく薄っすら光っているようでもある。
新月(乃至、新月前後)の月の光が、空一面の雲の上で分散し光が広まる…と考えるより、やはり、地上の光が(特定の高い建物やライトアップは少ないけれど)低い雲を鏡(蓋)として、地上の光をも篭らせ(乱)反射させ、視線を低く足元を見ると、雨の降りそうな曇天にも関わらず、想像に反して明るくなってみえる、ということなのかな、と。


明日(25日)の朝未明は雨になりそう。
足元のことなど、考える余裕のない仕事になりそうです。

投稿: やいっち | 2009/11/24 21:17

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 雲に覆われた真夜中の明るさ:

« 夢のない夢を見る | トップページ | 我がタクシードライバー時代の事件簿(5…前篇) »