愚人薄明
雨はもとより、分厚い雲が空を覆っていると、論外として、少々の雲であれば、たとえ夜空を全面、覆い尽していても、月が満月に近いのであれば、足元がボンヤリながらでも明るい。
その明るさは、快晴の夜空の新月の空よりずっと際立っている。
夜空に星々が煌き渡っていても、月影がないのなら、薄曇りに姿を阻まれ雲を透かしてようやく半月の光が漏れ溢れる夜空の明るさには叶わない。
無論、快晴の満月の日、しかも、月影が天頂周辺を横切る時が一番、明るいのは言うまでもない。
そうした光の変幻の恩恵を日々、つくづくと感じさせられる。
街灯があるわけだし、バイクにはヘッドライトがあるではないか。
月影がなくたって、走行には支障がない…はずである。
が、一軒一軒の家の前で、バイクを止め、バイクを降り、道路と家の敷地の境目を越えて、人様の家の玄関まで分け入る。
道路と敷地との境から玄関まで数歩の家もあれば、十数歩の家もある。
家の敷地に街灯の明かりが届く家もあれば、立派な庭木で阻まれる家もある。家の軒灯が点灯している家もあれば(これは少数派)、夜の早い富山のこと、九時過ぎには軒灯を消す家もある。
街灯も届かなければ、軒灯も消し去る家だと、もう、真暗である。
街灯が立派だったりすると、バイクのヘッドライトに依存して走っていることもあって、光の漂わない家の庭や玄関は、その暗さが一層、際立つし、目にも心にも心許なく感じさせられる。
(ちなみに、我が家も夜の始まりは早くて八時過ぎ(!)には玄関の外は消灯していたものだが、今の仕事を始めて、灯火の有り難味を痛感し、我が家にも新聞配達のための人が遣って来ることを思い、この頃は軒灯を灯すように習慣付けるようになった!)
とにもかくにも夜の闇の深さを肌身に感じれば感じるほど、月光の有り難味を痛感させられるわけである。
ドイツも含め北欧の言語では、太陽は女性名詞で月が男性名詞だったりするが、太陽は白夜の朧な白さに尽きるとすれば、それだけ月夜の月の明るさは深い闇に凄みを帯びて感じさせられるのだろう。
月に吠えたくもなろうというもの!
さすがに我が日本にあっては、温厚なる(?)小生のこと、間違っても月に吠えたりはしないが、月明かりよ、もっと光を! と祈るような縋るような気持ちにはしばしばなってしまう(単に臆病なだけなのか?)。
月光も恵まれない、軒の明かりもダメ、星影はただ冷たく地上世界を睥睨するだけとなると、そんな時、他人様の敷地へ分け入るのは、ドキドキものである。
何しろ、玄関への道(敷地)に何があるか、分からない。
植木鉢やら自転車やら空気入れやら刈り取った雑草が放置されているやら。
コンクリートで舗装されているならいいが、土のままの庭地だと、雑草の生えるままにされた家もあるし、庭が前夜の雨でデコボコになっていたりする。
→ ほぼ満月の日は、清かなる月影の恩恵をたっぷり享受させてもらう。眺めもだが、それ以上に足元の確かさという形で。
一番、怖いのは、舗装されている庭の道や玄関などに微妙に段差があったりすることだ。
やや明るい道路側から真暗な玄関へと、(悪意を以てではなく!)忍び込むように、段差の有無や位置を確かめつつ歩み行く。
闇の海を泳ぐように…というと、表現は恰好いいが、実際は、日本のコメディアングループのドリフターズのリーダーだったいかりや長介さんが(生収録の)舞台で披露していた、及び腰の滑稽な歩き方そっくり、だろうと思う。
さすがにある時期から、懐中電灯を持参するようになった。
ちょっとでも暗いとか視界が不良だと感じたら、即、ポケットから懐中電灯を取り出し、他人様の家の庭や玄関先を主に足元に焦点を合わせつつ、照らし出す。
主に、というのは、家によっては立派に手入れされた庭木の枝葉が玄関への、これまた立派に舗装された道に張り出すように伸びていて、その枝に頭を(無論、ヘルメットを被っているが)をしたたかぶつけることがあるからだ。
庭の中だし、夜だから、歩いている。決して飛び跳ねたりはしていない。
小生の身長は172センチで、図体が大きいわけではない。
その小生の頭が枝で叩かれるわけだから、家の方だって、家への出入りには神経を払わざるを得ないだろうが、まあ、日中だと、よく見えるのか(あるいは家の方々の身長が170センチに届かないのか)。
スーパーカブを駆っていると、過日、書いたが、このバイクのヘッドライトは、普段、頼り切っていて文句を言うのも恐縮だが、やはり、夜道を存分に明るく照らし出してくれるわけではない。
特にカーブなど、バイクの車体の向きと目指す方向とにズレが必ず生じる。その死角が怖いのだ。
(この死角については、後日、書くことがあるかもしれない。)
真夜中過ぎのほんの数時間の中に、数々の<ドラマ>がある。
(このドラマの数々についても、徐々に語っていくことになるだろう。)
そんな真夜中の沈黙のドラマの数々を越えて、仕事が終わる頃には、薄明の時を迎える。
快晴の夜空が、真夜中には底知れぬ闇の深さを震撼たる思いで感じさせられていたものが、微妙に透明の度の端緒らしき気配を覚え始め、次第に明るみを増して、純粋な宝石の透明さを遥かに凌ぐ、清冽で壮絶でもある天界の純度を感じさせられてくる。
夜の底に別の世界の始まりを予感させられてくるのだ。
「薄明」には、別の呼び方があって、「黎明(れいめい)、払暁(ふつぎょう)、彼者誰(かわたれ)、明け(あけ)、夜明け(よあけ)、暁(あかつき)、東雲(しののめ)、曙(あけぼの)などの名」があるという。
「ブルーアワー」という呼び方もあるようで、「夜明け前に数十分程体験できる薄明。 レイリー散乱効果で優先される青色の日光が全半球の空を満たす」のだとか。
(但し、「薄明」は、「日の出のすぐ前(ブルーアワー)、日の入りのすぐ後(マジックアワー)の、空が薄明るい(薄暗い)時のこと」とのこと。ここでは、ブルーアワーの薄暗い(薄明るい)状態を指すものとしておく。)
← 夕焼けや夕景を愛でる機会はめっきり減ってしまった。仕事柄、夜は早く床につくからだ。
薄明の時には、仕事も終わっていて(あくまで順調に作業が終わった場合に限る。しばしば、筆舌に尽くしがたいドラマが発生する)、ようやく闇の中の沈黙の業(行)の終焉を迎えて、ささやかな解放感のような気分に浸ってもいる。
だから、闇の世界を超えたからこそ、薄明であっても、光の時の始まりの到来が我が(暫しの)解放の時と相俟っているわけで、光の、陽光の有り難味を体感し尽しているわけである。
しかし、家に辿り着いた頃には、太陽がすっかり姿を現すわけだが、我輩はと言えば、夜明けを愛でることも、光の恩恵を賞賛することも叶わず、疲労と睡魔とで、呆気なく脳髄の闇夜へと沈みいく、というわけである。
皮肉といえばそれまでだが、何処となく我がひねくれ気味の人生を象徴しているような気もしないではない。
(09/10/06 作)
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