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2009/09/17

星影と月影とのジレンマ?

 未明…というより真夜中過ぎの時間帯に仕事をしている。
 旧い表現をすると、丑三つ時過ぎから夜明け前(五時半頃)までの、真暗な、一番闇の深い時から、やや光明の見え始める時間帯ということになろうか。
 闇が深ければ、それだけ光が恋しかったり頼もしく感じられたりする。

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→ 仕事を終え、事務所を後にして、帰宅の途に付くころ、ようやく朝日が登り始める。

 やや郊外の住宅街や工場の建ち並ぶ地域をバイクで駆け巡る。
 バイクのヘッドライトが闇を照らし、道を浮かび上がらせる。
 スーパーカブという、生活に密着したバイクが我が愛車である(事務所の所有だが)。

 エンジンをスタートさせても、ヘッドライトの照射する光は弱々しい。

 アクセルを吹かせるその程度に応じて、ライトの光も力強さを増す。
 なので、自然、エンジンの音が騒音とならないことを祈りつつ、可能な限りアクセルを吹かせることになる。

 それでも、一軒一軒の家ごとにバイクを停めないといけない(エンジンはさすがに切らないが)。
 家の門を一歩、踏み込むと、街灯の灯りも届かない。
 軒灯の終夜、灯っている家もあるし、街灯の明かりの多少なりとも及ぶ家もないではない。
 が、大概の家は、特に富山のような地方の地域ともなると、夜の始まりは早いし、窓の明かりの消え果てるのも早くて、真暗な、静まり返った状態にある。
 それはそれで、健全なのかもしれない。
 夜は、きっと、眠るべき、休むべき時空なのだ。
 
 夜、外での仕事をしていると、天候に敏感になるし、星や月の多寡やや雲の有無・厚さが気になってならなくなる。
 雨ともなると、仕事は悲惨なものになりがちなのだ(今日は、雨の中の仕事ぶりについては、触れない)。

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← 世の多くの人が活動を始める前には、仕事を終え、静かな夜明けの時を愛でるだけである。…そういえば、東京でタクシードライバーを生業(なりわい)としていた頃も、夜明けを迎える頃、自分の仕事も終わりになるのだったっけ。

 晴れていると、星の数が日によって随分と違うことに気づかされる。
 雲のせいで少ないとは限らないようだ。
 大気が日中のうち、夜のうちに舞い上がった埃や排気ガスなどで靄ってしまって、せっかく夥しい数の星が瞬いていると察せられても、実際に見えるのは数えられるほどになってしまう。
 薄い雲であっても、空を覆っていたら、煌く星の数が激減するのは言うまでもない。
 
 富山は雨の覆い県(地域)である。まして、雨にならずとも、雲が空の半ば以上に懸かっていない夜は少ない…年の半分にも満たないのではないか。
 それでも、時に夜空が晴れ渡っていることがある。

 日中、雨で洗われたのか、それとも、風で吹き払われたのか、大気も透明度の高さを感じさせ、夜空に鏤められた星のひとつ一つを最後の一つまで数え上げられそうな、そんな気にさえさせられる夜空に恵まれることがある。
 但し、そうした場合でも、月影との兼ね合いという条件次第である。
 月影が清かで、地上世界を満遍なく照らし出してくれる夜だったりすると、星もその影を薄くする。
 星の明かりが月光に負けてしまうのだ。

 そう、新月か、それに近い、空気の澄明度の高い晴れ渡った夜にこそ、星の数も多いし、星明りの有り難味を享受しえるというわけである。

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→ ゴーヤやヘチマ、朝顔などに覆われた我が部屋の、今朝の様子。

 しかし、星明かりが嬉しいといっても、月光の代わりには到底、ならない。
 例えば、今朝(16日の未明)は、空は晴れていたが、新月にあと二日ばかりという、あまりに薄い、三日月と呼ぶのも憚られる月影だった
 星の煌きを圧倒するような月光ではなかった。
 星明りが恵みであることに異存はないのだが、地上世界は暗い。
 
 満月の夜の明るさにはまるで敵わない。
 それどころか、薄い白い雲に月影がそっくり覆われていても、雲を透かして地上世界に恵まれる光にさえ、遥かに及ばないのである。
 星明りは、明かりとはいいながら、あくまで眺めて愛でることの相応しい、天に鏤められた宝石の煌きなのである。

 月光は、新月に近い、薄い三日月であっても、星明りだけの夜よりもずっと明るい。
 家の門を潜って、軒の明かりのない庭を歩くと、星明りだけの夜だと、真暗に近いのだ。
 分厚い雲に覆われた、雨でも降りそうな夜よりは、きっと明るいはずだが、民家の庭を歩く覚束なさにほとんど違いはない。

 家々の門を潜って、あるいは、街灯のない地域を走って、改めて、月影の凄みを感じさせられる。
 星影は眺め愛でるものであろうが、月光は眺めてよし、地上世界を光で満たす、そんな僥倖をも恵む、格別な存在なのだと、闇夜を駆けずり回る仕事に携わって、改めて感じさせられた次第である。

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← 6月の初め頃、作り始めた梅酒、昨日、ふと、冷蔵庫の上に蔵置(放置?)してあったのに気づいた。ほぼ、完成なのか。「梅から鳥へ、鳥からツルへ!」なる頁を覗くと、作り始めの様子が分かる。同じ頁には、苗を植えたばかりのゴーヤの画像も載っている。今昔の感を覚える!

 …とはいっても、月影のない夜空の星の瞬きの神秘さに変わりはないのだし、星を眺めるごとに、今、この瞬間、数年前、数千年前、何万年前の光と、この地上世界で、いや、我が目の中で、脳髄の深みで、時空を越えて際会しているという奇跡に近い、しかし紛れもない現実を思い知らせてくれるのは、天にあっては星明り以外にないのだ。

 そう、足下の大地は、どの物質も数十億年の歴史の積み重ねと変幻とを経て、今、ここにある。

 だから、天にあって星、地にあっては、どんな路傍の石ころも、雑草も、ゴミも、塀も、看板も、道路の路面も、田圃の土や稲穂も、屋根瓦も窓も窓ガラスも、その構成する物質(元素)の全てが、時の結晶、凝縮された時、光の塊なのである。

                             (09/09/16 作)

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