「水面」について
昔、そう、若い頃、好きだった言葉の一つに「水面」がある。
これは、「みなも」と読ませたい。決して「すいめん」ではない。
読み方が正しいかどうかの事柄ではない、小生のただの我が侭である。
← ゴーヤも凄いが、ヘチマが今、元気。窓は既に覆い尽くしていて、庇をも乗り越えつつある!
水面という字面なのか、「みなも」という読み、あるいは語感なのか、それともそれらのいずれもを含めて好きだったのか。
他にも例えば、「微睡」という言葉が好きだったりした。
「びすい」と読んでもいいのだろうが、小生は「まどろみ」と読ませたかった。
実際、この「微睡」という言葉を使いたいばかりに、『微睡』と題した短編を書いたこともある。
あるいは「細波(さざなみ)」とか、鏡面とか、「消尽」や「蕩尽」とか、妙にこだわってみたくなる言葉があった。
(敢えて例示しなかったが、実際にはほとんど使わなかった、しかし好きだった言葉に「皮膚」とか「化粧」がある。「肌」でもいいのだが。この皮膚(感覚)乃至は皮膚(肌)に密着する化粧なる言葉(観念)を使わなかったのは、きっと、一番、大事に思えていたからだろうと、今にして思う。この「皮膚」や「化粧」については、「蕩尽」なども含め、下記する。)
思い返してみると、好きな言葉というより、むしろ、創作する際の糸口となる言葉、虚構するマインドへ自らの心を昂めるための契機となる言葉だったようにも思う。
やや強引に(他人の理解など度外視して!)、これらの言葉の共通点を挙げてみると、好きな言葉に共通する特徴として、幾分なりとも境界に関わるということが言えると思う。
あくまで自分の中での話である。
「水面(みなも)」とか「鏡面(きょうめん)」とかが自分にとって刺激的であり、一旦、少しでもマインドが集中できて虚構(祈りのエッセイ群も含めて)の世界に入れたならば、普段は思いっきり鈍感な心が発火したなら、そこにはオレンジ色の世界があるばかりとなる。
燃え立つ世界があり、痺れるような快感があり、それは他のどんな手段によっても得がたい領域に分け入ってしまっている、そんな虚の、しかし世界を二次元に変換してしまったなら、その紙面の一点に火が点いてやがては世界を蕩けさせ、焼き尽くしてしまう、そんな感覚があるばかり。
「水面(みなも)」や「微睡(まどろみ)」が好きだった頃、不精というわけでもないが、決して辞書などに当たって、言葉の正確な意味を調べようとはしなかった。
あくまで自分の嗜好に過ぎないのだから、万が一、見当違いな言葉の理解をしていても、どうってことはない。
要は、マインドを昂める突破口でありさえすればよかったのだから。
そんな頃から二十年を経過した。
今になって、遅きに失しているが、例えば「水面」をネットで調べてみる。
(ネットであれ辞書を引くってこと自体、小生の創作欲や表現のパワーが著しくダウンしている証拠である! 心が枯渇していると自分で感じている。)
といっても、「水面 - Wikipedia」では、「水面」を「すいめん、みなも、みのも」などと読めるとしていて、「みなも」限定ではないのだが、まあ、我が侭は脇に置いておく。
すると、「水の表面のことであり、水と空気との境界のことをも指す」とか、一層、興味深い記述として、以下が示されている:
水面は、もっとも古い鏡である。波がない場合の水面は、よい鏡として使われた。ギリシャ神話のナルキッソスは水面に映る自分の姿に見とれて水際に根を下ろした。
要は、「水面」も「鏡面」も、鏡なのだ。ただし、透明な。
「鏡面」でも、普通の鏡のように、自分を映し出す鏡を思い浮かべているわけではない。
鏡面の両方(どちら)であっても、鏡であるような面なのである。
透明な鏡であっても、マジックミラーのように、片方からだけ、透明な鏡でもない。
あくまで、双方向について、透明な鏡であり、結局のところ、「鏡面」と言いつつ、「水面(みなも)」をこそ、思い浮かべているわけである。
これまで、エッセイ(書評を含める)の中で「鏡」に関わる題材を扱ったことが幾度となくあるが、自分の中では、双方向に透明な鏡(面)、つまりは「水面(みなも)」を常にイメージしていたと言える。
例えば、「壺中水明庵 谷川 渥著『鏡と皮膚』」では、以下のような記述がある:
(前略)美を手中にした(かのような幻想に囚われた)者は、美を眺める。眺める、観るとは、触ること。絡むこと。一体にならんとすること。我が意志のもとに睥睨しさること。美に奉仕すること。美の、せめてその肌に、いやもっと生々しく皮膚に触れること。撫でること、嘗めること、弄ること、弄ぶこと、弄ばれること、その一切なのだ。
やがて、眺める特権を享受したものは、見ることは死を意味することを知る。観るとは眼差しで触れること、観るとは、肉体で、皮膚で触れ合うこと、観るとは、一体になることの不可能性の自覚。絶望という名の無力感という悦楽の園に迷い込むことと思い知る。
観るを見る、触る、いじる、思う、想像する、思惟する(本書は思弁の書なのだから、思弁も含めたっていい)、疑念の渦に飲み込まれること、その一切なのだとして、見ることは、アリ地獄のような、砂地獄のような境を彷徨うことを示す。
砂地獄では、絶えず砂の微粒子と接している。接することを望まなくても、微粒子は、それとも美粒子我が身に、そう、耳の穴に、鼻の穴に、口の中に、目の中に、臍の穴に、局部の穴に、やがては、皮膚という皮膚の毛根や汗腺にまで浸入してくる。浸透する。
美の海に窒息してしまうのだ。
窒息による絶命をほんの束の間でも先延ばしするには、どうするか。そう、中には性懲りもなく皮膚の底に潜り込もうとする奴がいる。ドアの向こうに何かが隠れているに違いない。皮膚を引き剥がしたなら、腹を引き裂いたなら、裂いた腹の中に手を突っ込んだなら、腸(はらわた)の捩れた肺腑に塗れたなら、そこに得も言えぬ至悦の園があるかのように、ドアをどこまでも開きつづける。決して終わることのない不毛な営為。
何ゆえ、決して終わることのない不毛な営為なのか。なぜなら、ドアを開けた其処に目にするのは、鏡張りの部屋なのだ。何故、鏡張りなのか。壁ではないのか。
それは、どんなに見ることを欲し、得ることに執心し、美と一体になる恍惚感を渇望しても、最後の最後に現れるのは、われわれの行く手を遮るものがあるからだ。何が遮るのか。言うまでもなく、自分である。観る事(上記したような意味合いで)に執したとしても、結局は、自分という人間の精神それとも肉体のちっぽけさという現実を決して逃れ得ないことに気づかされてしまう。
焦がれる思いで眺め触り一体化を計っても、そこには自分が居る。自分の顔がある。自分の感性が立ち憚る。観るとは、自分の限界を思い知らされることなのだ。
つまりは、観るとは、鏡を覗き込んでいることに他ならない、そのことに気づかされてしまうのである。
だからこそ、美を見るものは石に成り果てる。魂の喉がカラカラになるほどに美に餓える。やがてオアシスとてない砂漠に倒れ付す。血も心も、情も肉も、涸れ果て、渇き切り、ミイラになり、砂か埃となってしまう。
辛うじて石の像に止まっていられるのは、美への渇望という執念の名残が砂や埃となって風に散じてしまうことをギリギリのところで踏み止まっているからに他ならないのである。
→ ゴーヤだって、負けちゃいない。
また、「壺中山紫庵 初化粧」では、このようなことを書いている:
女性が初めて化粧する時、どんな気持ちを抱くのだろうか。自分が女であることを、化粧することを通じて自覚するのだろうか。ただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたり、祭りや七五三などの儀式の際に、親など保護者の手によって化粧が施されることもあるのだろう。
薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。
(中略)
仮面は一枚とは限らない。無数の仮面。幾重にも塗り重ねられた自分。スッピンを演じる自分。素の自分を知るものは一体、誰なのか。鏡の中の不思議の神様だけが知っているのだろうか。
男の子が化粧を意識するのは、物心付いてすぐよりも、やはり女性を意識し始める十歳過ぎの頃だろうか。家では化粧っ気のないお袋が、外出の際に化粧をする。着る物も、有り合わせではなく、明らかに他人を意識している。女を演出している。
他人とは誰なのか。男…父親以外の誰かなのか。それとも、世間という抽象的な、しかし、時にえげつないほどに確かな現実なのか。
(中略)
化粧。衣装へのこだわり。演出。演技。自分が仮面の現象学の虜になり、あるいは支配者であると思い込む。鏡張りの時空という呪縛は決して解けることはない。
きっと、この呪縛の魔術があるからこそ、女性というのは、男性に比して踊ることが好きな人が多いのだろう。呪縛を解くのは、自らの生の肉体の内側からの何かの奔騰以外にないと直感し実感しているからなのか。いずれにしても、踊る女性は素敵だ。化粧する女性が素敵なように。全ては男性の誤解に過ぎないのだとしても、踊る女性に食い入るように魅入る。魅入られ、女性の内部から噴出する大地に男は平伏したいのかもしれない。
一見すると、「水面」や「鏡面」とは懸け離れているようだけど、自分の中では自分でも思いがけないほどに近く感じている言葉に「蕩尽」がある。
主に、「壺中水明庵 バタイユ著『宗教の理論』」で触れているので、そこから抜粋してみる:
エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。
快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。
が、いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵まれて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とばかりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っているのである。
どこまでも後退する極楽。どこまでも押し寄せる地獄。地獄と極楽とは背中合わせであり、しかも、ちっぽけな自分が感得しえるのは、気のせいに過ぎないかと思われる悦楽の飛沫だけ。しかも、舐めたなら、渇きが促進されてしまい、悶え苦しむだけ。
何かの陥穽なのか。何物かがこの自分を気まぐれな悪戯で嘲笑っているのか。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。しかし、一旦、悦楽の園の門を潜り抜けたなら、後戻りは利かない。どこまでも、ひたすらに極楽という名の地獄の、際限のない堂々巡りを死に至る絶望として味わいつづける。
明けることのない夜。目覚めることのない朝。睡魔は己を見捨て、隣りの部屋の赤い寝巻きの女の吐息ばかりが、襖越しに聞え、女の影が障子に悩ましく蠢く。かすかに見える白い足。二本の足でいいはずなのに、すね毛のある足が間を割っている。オレではないのか! オレではダメなのか。そう思って部屋に飛び込むと、女が白い肌を晒してオレを手招きする。そうして…。
夜は永遠に明けない。人生は蕩尽しなければならない。我が身は消尽しなければならない。そうでなければ、永劫、明けない夜に耐えられない。身体を消費しなければならない。燃やし尽くし、脳味噌を焼き焦がし、同時に世界が崩壊しなければならない。
そう、我が身を徹底して破壊し、消尽し、蕩尽し、消費し尽くして初めて、己は快楽と合体しえる。我が身がモノと化することによって、己は悦楽の園そのものになる。言葉を抹殺し、原初の時が始まり、脳髄の彼方に血よりも赤い光源が煌き始める。宇宙の創始の時。あるいは終焉の祭り。
← ヘチマの葉っぱに止まっているのは、蛾? それとも蝶々?
「水面(みなも)」なる言葉から随分と遠ざかっている?
そんなことはない。
自分の中では、あくまで自分の中ではだが、「水面」も「鏡面」も「肌あるいは皮膚」も「蕩尽」も、熱く焦がれるほどに近い。熱すぎて溶けてしまって、境目が分からないほどに背中合わせの言葉たちなのである。
そう、「水面(みなも)」に寄せる思いは、決して澄明とか静穏とかではなく、自分にとっても現実世界への焦がれる思いなのである。
いつか、機会があったら、もう少し真正面から「水面」について、あれこれ考えてみたい。
(09/09/13 作)
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