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2009/09/18

秋爽の感極まれり地球照

 折々覗かせてもらっているサイト(「ひとりごとの夕べ.句日記」)で、「秋爽(しゅうそう)」という言葉を知った。
 句日記とあるように、この言葉も季語である。

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← 我が家の庭も、ミカンやカキはもとより、いろんな樹木も果実が生っていて、賑やかである。

秋爽(しゅうそう)」とは、「季語集・秋」によると、「秋の澄んだ空気がもたらす心身ともの爽快感をいう」という意味の秋の季語であって、「爽気 さやか さやけし 爽か 爽涼」などの類語があるようだ。

 そのブログには、下記の句が掲げられている:

秋爽を破る音無き畔を行く

 仕事柄、外気に触れっ放しである。
 感性の鈍った小生とはいえ、雨風は無論だが、気温の変化、丑三つ時過ぎから未明(早朝)にかけての空(雲や星や月影など)の変化を肌で実感させられる日々である。
 月影は、短い時間の中では位置を変えるはずもないが、こちらがバイクで住宅街を縫うように走り回っているので、背に負って走ったり、右や左にして併走する感覚を味わったり、しばらく家々の塀や壁や屋根に遮られて、月影のことなど忘れていたものが、角を曲がった途端、路地の先、真正面にデンと月影が現れ、不意打ちのような、でも、嬉しい感動を覚えたりもする。

 空気(大気)の変化は、日々、体感する。夏の真っ盛りの日は、吹く風も暑いし湿っている。
 バイクを降りたり乗ったりの繰り返しでたださえ暑い中、体が火照って汗ばむ体を、持て余す。
 やや長い距離をバイクで移動する際は、わざと衣服の胸の辺りを緩やかにし、両足を広げ、風が要所に当たるようにして、天然の扇風機を浴び、汗を熱を少しでも吹き飛ばすようにする。
 それが、僅か一ヶ月経った今、ジャケットのジッパーは喉までしっかり上げるし、ジャケットの下は長袖のポロを
羽織るようになっている。

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→ 今朝(17日)の「クレオメ(西洋風蝶草)」。

 九月も半ばでこれでは、この先が思いやられる。
 秋が深まり、冬が到来し、雪が……なんて危惧や憂いは、脳裏からは思いっきり排除する。

 住宅街とはいえ、そこは富山で、方々に田圃や畑がある。
 田圃の様子も、月光や星明り、あるいはバイクのヘッドライト、街灯に照らし出される夜の闇のもと、逞しさを増しているのを感じさせる。
 稲穂のイガイガした香りの徐々の強まりと相俟って、変幻を誇っているようでもある。

「秋爽(しゅうそう)」とは、上記したように、「秋の澄んだ空気がもたらす心身ともの爽快感をいう」らしいのだが、空気が澄んでいるからこそ、なのだろうか、春から五月にかけての、植物の育ち盛りの時期には敵わないものの、案外と匂いや香りに満ちているようにも感じられる。

 夏から秋にかけて、いろんな草木が実りの時を迎えつつあるからなのだろうか、透明感の中に、生の果物などを絞ったとき特有の、爽やかな香りを嗅ぎ取ることは、無粋な小生でも難しくない気がする。
 車の通行の途絶え、空気が一番、落ち着きを取り戻している、そんな深更だからこその楽しみなのかもしれない。
 栗や柿、枇杷などを目にするから、あるいは気のせいで果実の風味が漂うと期待する、そんな思い込みに過ぎないのだとしても、夜の闇の海をバイクで泳ぐ単調な中、幻想でもいいから楽しみを見いだしたいのである。

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← 久しぶりに自転車で町中へ。用事を済ませた帰り、ある橋の上から日向ぼっこする鳥たちの群れを眺める機会に恵まれた。ここには、この場所の主(ぬし)のような存在である鷺もいるはずなのだが、今日は不在。じっと川面を眺める様子は、哲学者の風格があって、眺めるのが楽しみだったのだが、ちょっと残念。

 今朝(17日の未明)には、地球照を見た。
(「地球照」については、「地球照より地球ショー」を参照のこと。)

 月影は、太陽の光を反射してのもの。
 同じように、地球も太陽の光を反射している。
 その地球が反射した光が月をも照らす。
 満月の時はともかく、月が半月、三日月と欠けていく。
 ついには、三日月と呼ぶのも憚られるほど、薄く細い月となる。新月ギリギリの月である。
 そんな薄い月影のときにしか楽しめない現象である。

 当然、陽光を直接受けて光った部分が明るいのだが、太陽光を直接、浴びていないのに、ほんのり明るく、見える。
 じっくり見ると、欠けている部分も真ん丸の輪郭が仄見えるようだったりする。
 それは、地球で反射した太陽の光が、光の当たらない部分を照らしているというわけである。
(「地球照 - Wikipedia」参照。)

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→ 「地球照」 (画像は、「地球照 - Wikipedia」より)

「地球照」という呼称は知らなくとも、薄切りのレモンのヘタのような月を眺め上げていたら、真暗なはずの部分がうっすら見えるのは、誰しも気づく。
 小生などは、勝手に、明るく照らし出される光が、漏れ零れて欠けている部分を幾分なりとも明るくしているのだと思い込んでいた。
 理屈で考えたら、明るい部分の光が漏れても、暗い部分の一部にしか及ばないはずで、月の暗い部分も丸くみえるほどに光が漏れ届くはずがないと気付くはずだが、そんな頭は小生にはなかった。

 よほど、地球照をデジカメで撮影しようかと思ったが、我輩の腕前では、満月さえ、碌に撮れないのであっては、到底無理と諦めた。

秋爽(しゅうそう)」の話題から離れてしまったけれど、「地球照」を垣間見つつの未明のひと時こそ、秋爽を深く味わった…と言い切って構わない…はずであろう。

秋爽の感極まれり地球照    (や)

                              (09/09/17 作)

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