野球大会の思い出
米大リーグ、マリナーズのイチロー外野手が9年連続200本安打の新記録を達成したことは、小生のようなスポーツに縁が遠くなった人間にも、とても誇らしいし、凄いし、嬉しい!
野球の門外漢には想像も付かない精進と苦悩と試行錯誤の果ての偉業、孤独な戦いの結果なのだろう。
小生如きがイチロー論を綴っても、仕方がないので、ここでは、野球に絡む、小生にとって忘れられない苦い思い出を載せておく。
作ったのは8年以上も前のことで、ネット活動を始めて二年にもならない頃に書いた懐かしい草稿でもある。
← 今朝(15日)の「クレオメ(西洋風蝶草)」。余談だが、今日、昼前、蛇を見た。体長は二十センチほどの、ほんの子どもの蛇。我が家の門前、路上のど真ん中で、横たわったまま、動かない。死んでいる? 突っ突いても動かない。でも、息があるようでもある。道の真ん中では、車の通りもあるし、踏み潰されてしまう。可哀想なので、路肩に寄せた。何故、可哀想に感じたかというと、一昨日も、この蛇(恐らく、同じ蛇だと思われる)を、我が家の庭の片隅で見かけたからである。我が家の庭で蛇を見たのは、中学か高校以来だろうから、40年以上ぶりに家の周囲で蛇を見かけたことになる。何処から来たのだろうか。何故に姿を現したのだろうか。何処へ行こうというのだろうか。土のある庭を離れ、コンクリートの車道に出たのは、道を間違ってしまったからなのか。蛇は嫌いである。爬虫類は虫が好かない。それはそれとして、あの幼い蛇の行く末が気になってならないのである。
こんな(?)小生だが、運動が嫌いだったわけじゃないし、草野球は熱心にやっていた。高校生になっても、昼休みには、天気さえよければ、必ず校庭に出てソフトボールで野球である。
大体、似たようなメンバーが十数人、校庭に集まる。
特に小生は運動部には所属していなかったので、体育の授業を除けば、運動というと、学校での昼食後のソフトボールでの野球が全てだったこともあり、下手糞なのを押して、参加していたものである。
(その他、卓球、ゴルフ、バイク、スキー、テニスなどをやった。サッカーも少々。)
野球については、小生にも幾つか、思い出がある。
大概が苦い思い出だってのが、情けないが、記憶に刻まれる体験というと、辛かったものが多いのだから、仕方がない。
特に鮮烈なのは、社会人になって間もない頃、二十歳台半ば頃の、恋に絡む野球大会の思い出なのだが、それはまた後日、書いてみたい。
小学生の多分、六年生の頃、町内での(というより、いろんな町の野球チーム同士の大会…だから、子供にとっても、町内の大人たちにとっても、結構、大きな関心事だった)野球大会の、悔しい思い出なのである。
「野球大会の思い出」(旧題「少年野球大会」)
あれは確か私が小学生として送った最後の夏のことだった。私の父もそうだったというが、私も地元で毎年開催される少年野球大会のピッチャーに選ばれていたのである。何年か後には数歳年下の従弟(いとこ)もやはりエースに選ばれた。
それは私の一族の苗字の頭文字がAであることが大きいように思う。大概の場合、何をするにしても先頭を切ってということになりがちなのだ。しかも、私についていえば、中学校に入って急激に身長が伸びるまでは身長順に並ぶとクラスの中でも一番低いか二番目か、という事情もあり、成績も悪いのに、質問などが名前でも身長の上でも最初の私に当たる確率が高く、緊張を強いられていたものだった。
そうした事情が気の小さい私には何か責任感めいたプレッシャーとして圧し掛かっていた。野球大会でも、町内で誰かがピッチャーになるとなれば、自分以外にない、自分が遣るのだという<自覚>があったように思う。
それなら勉強のほうも少しは自覚があってもいいのに、そっちのほうは一向うだつが上がらなかったのが不思議だが。
そういうわけで、夏休みに入って私は町内の野球大会の世話役をしていたKさんらの熱心な指導の下、毎日野球の練習に余念がなかった。
私は自分では引っ込み思案の性分だと思っているが、それでも体を動かすことは好きなガキだった。自分から遊びに誰彼を誘うことはできないが、誘いがあればまず、断ることはなかった。学校から帰ると近所のガキ連中と一緒に、日が暮れるまで缶蹴りやら草野球やら縄跳びやらチャンバラやらを厭きることなくやっていた。
そう、昔は原っぱというのが方々に残っていたのである。何しろ今はとても立てこんだ住宅街になっている一角には、私が少年の頃には防空壕の後がちゃんと残っていたものだ。そういえば、私の家の蔵の漆喰の壁には戦闘機に銃撃された弾痕さえも残っていた。我が家に限らず、富山は大空襲を受けた過去があり、我が家も戦禍に塗れ、昔はあったはずのそれなりの家財が灰燼に帰してしまったと聞いている。
我が家を出て街道とは逆の方向へ歩くと小さな川が流れていて、その川向こうに結構広い空き地があった。その川は小学校の高学年くらいだったら飛び越えることは不可能ではなかったし、実際自分も幾度となく飛び越えたものだ。一度ならず失敗して、その頃はまだ淵がコンクリートで固めていなかった縁からズルズルと川に嵌り込んだことがあったけれど。
もっとも当時は未だ周辺に田圃が広がっていたわけだから、農作業が終わり、収穫が終わった秋から田植えの始まる春先までは空き地には事欠かなかったが、さすがに田圃で野球というわけにはいかない。せいぜい凧揚げとか蓮華草を摘んで花輪を作るとか、遠い呉羽山の向こう側めざして田畑を突っ切って走っていくとか、冬ならスキーとかだろう。
というわけで体を動かすことの好きなガキで、小学校の半ば頃までには駆けっこや長距離を走ることなどは得意だったが、しかし運動神経が人と比べて抜群というわけではないらしいことは渋々自覚するようになっていた。
けれど、私は自分では意識の上で認めていたわけではない。
さて、野球大会の話だ。
少年野球のこと、使うボールは軟式なのだが、それでも小学校の校庭で練習する時、Kさんのノックのボールは早く感じられて、自分は必死の思いで捕球したり送球したりしていた。
ただ、投げる事に関しては、抜群に早くはなかったが、しかしコントロールだけは自信があった。変化球は父に子どもが試みるのは早いと諭されて、カーブくらいは投げたが、ドロップはやらないようにしていた。あるいはただ、出来なかったのかもしれない。
厳しい練習は夏休みに入って毎日続いた。
そうしたある日、野球大会にあと一週間余りとなった頃、私は肩に痛みを覚え始めていた。しかし、そのことを誰にも打ち明けることは出来なかった。指導してくれるKさんが怖かったのである。
目の細い、真っ黒に日焼けした、まだ二十歳代の前半くらいの痩せぎすの人だった。やや高めのハスキーな声で、気の弱い小生は話を交わした記憶がない。まして自分のほうから何かを語りかけるなんて思いも寄らなかった。
そのKさんは当時の私には厳しさと怖さばかりが感じられて、近寄り難かったのだが、しかし、後年になり、すこしは客観的に見られるようになると、彼がいかに優しい人間か、そして、いかに自分の時間を犠牲にしてまで地元のガキどものために尽くしてくれているかが分かるようになった。少なくとも自分には彼のような真似は到底出来ない。
チームとしては結構まとまりがあったと感じていた。自分のチームだから贔屓目に見ているのかもしれないが、しかし、Kさんを始めみんなの口ぶりに自信のようなものが伝わってきていた。練習にも遊びの感覚はまるでなくて、ピリピリしていたというと語弊があるかもしれないが、緊張の糸は張り詰めているようだった。
練習の合間のお茶や差し入れが楽しみだった。
私は後年、高校一年の中間テストが終わった頃から、春休みを迎える直前までの半年余りだけ、サッカー部員として体育会系の生活を味わったが、それ以前のこの少年野球大会を前にしての練習の日々はガキの自分には、もっと厳しい体育会系の生活だった。でも、充実していた。
しかし、私の肩はますます痛みを増していった。コントロールだけは自信があり、キャッチャーの兄さんのサインというか、構えた位置に投げ込むことができた。肩が痛かったが、しかし、無理して投げれば投げられないことはなかった。試合が近づくにつれて、ますます投球は冴えてきた。チームのみんなにも、これなら結構やれるという自信が高まっているようだった。
が、自分だけは分かっていた。自分の肩は限界に近いということを。
けれど、私は誰にも正直に打ち明けることはできなかった、泣きたいほどに肩が痛いとは。
いよいよ大会の当日となった。その日も快晴に恵まれた。試合が順延になることなどありえないようだった。
私の胸中は不安で一杯だった。周りの人は自分が緊張していつも以上に口数が少ないのだろうと、温かく励ましてくれるのだった。が、その度にますます暗くなっていくのだ。 試合が始まった。不安は的中した。球がまるで走らないのだ。
コントロールだけは自信があった。そのコントロール通りに投げられた。
しかし、そのコントロールはキャッチャーが構えたコースに投げるというコントロールではなく、キャッチャーの体のど真ん中に投げるというのがやっとというコントロールに過ぎなかった。
私はていのいいバッティングピッチャーに成り果てていた。球は走らない、コースはど真ん中なら、目を閉じていても打てるくらいのものだ。
私はいよいよ萎縮するばかり。すると尚のこと球は死んだ球になり、打ちごろになってしまう。
試合は散々なものに終わった。いや、今でも試合結果をまるで覚えていない。こちらのチームもそれなりに反撃したが、あまりにも打たれすぎた。サンドバッグ状態だった。
試合が終わって、みんな憤懣を胸に黙々と帰った。ピッチャーがひどすぎた、という声を聞いたような気がする。
すくなくとも私は自分のせいだと痛感していた。我々は緒戦で敗退したのだ…。試合にならない形で消え去ったのだ…。結構、上に行けるという自信があったのに…。そうした声が耳元で聞こえた。
私は悔しかった。ベストで試合に臨めたなら。それで負けたのなら悔いは残らない。なのに…。ズキズキ痛む肩以上に私の胸中は悶々とするばかりだった。
きっと回りのみんなは、ピッチャーの自分が情けないから負けたんだと思っているだろう。できるなら弁解したかった。でも弁解できるくらいなら、試合の前に自分の状態を打ち明けられていたはずなのだ。つまり、自分のような人間にはどっちにしても八方塞なのだということは明らかなのだ。
問題は肩が悪いことではなく、当日調子が悪かったというのでもなく、結果として実力を発揮できなかったということでもなく、自分の立場や状態を公に示すことが出来ずに、ただだらしない人間だ、いざという時に役に立たない人間だという屈辱に満ちた評価をを甘んじて受けるしかない、そういう人間だということなのだ…。
私は試合に負けたことより、自分の性分に絶望してしまった。そうした性分が直るとはとても思えなかった。
最後まで投げとおしたのだ。ぼろ負けしたとはいえ、責任を全うしたのだ、せめて自分でそう慰めるのがやっとの遠い夏の日の野球大会だった。
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