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2009/09/04

年初早々の痛烈な批判コメント

 既にテレビをはじめマスコミでも大きく採り上げられているように、3件目の裁判員裁判で、初めて性犯罪を対象に行なわれている:
ニュース So-net 3件目の裁判員裁判、初めて性犯罪を対象に

2009_0903071003tonai0008

← 今日(3日)のゴーヤ、ヘチマ、朝顔たちの競演・共演・協演・饗宴!

「裁判では、女性2人に対する強盗強姦 ( ごうかん ) 事件などが審理される」わけで、性犯罪というのは、この上なく深くプライバシーの領域に関わっている。
 そういった微妙な機微に渡る問題を裁判員裁判で行なう是非も論議されているようである。

 こんな制度があると、親告罪であるレイプ犯罪などは、ただでさえ訴えること自体を躊躇う傾向を助長するのでは、という論議もある。

 小生は、あまりに人間的な事柄に踏み込む記事(日記)はあまり書いてこなかった。
 まして、レイプの問題となると、小生には、迂闊に手を出せる事柄ではない。

 それでも、よんどころない(私的な)事情で、レイプ犯罪についての小文を書いたことがある。

 小生としては、基本的に被害者(女性)の立場に立って書いたつもりだったし、そのように、読者に受け止められるものと勝手に思っていた。
 が、それは小生の甘い認識(期待)に過ぎなかったようで、年初、小生には全くの誤読、誤解としか思えない、痛切なコメントを戴き、あまりに意外で、且つ心外で驚きうろたえてしまった。
 
 その批判を受けた記事とは、7年半前に書いた、下記の記事である:
『御直披』という言葉に篭められたもの」(02/03/31筆)

 この記事は、最初メルマガで公表し、のち((03/02/23))にホームページに所収とした。

 その上で、ブログに掲載している:
壺中水明庵 板谷 利加子著『御直披』」(2005/04/03)

 このブログに今年の正月(2009/01/04)、痛切なコメントを戴いた。
 コメントというより、指弾というべき内容。
「あなたみたいな奴、死ねばいいのに」とまで書いておられる。

 さすがに名前は不詳。
 小生には全くの誤解としか思えないし、こんな批判は青天の霹靂なのだが、内容が真摯なので、書き込んだ方(女性)の名称は不明だが、敢えてアップした。

 まずは、長文のブログ記事である「壺中水明庵 板谷 利加子著『御直披』」を読んでいただき、このブログに寄せられた、名前不詳の方の批判が妥当なのかどうか、第三者の立場で判断願いたいのだ。

 小生は自分では被害者の気持ちが痛切に感じられるからこそ、被害女性の気持ちを汲んでもらおうと、当該の本から長い引用を、せっせと入力したのだし、男性の立場を正当化するためなら、こんな面倒な作業などするはずはないと、思ってくれるものと思っていたが、甘かったようだ。
 
 年初早々、こんなコメントを貰って、暗澹たる気分で今年は始まっていた。
 もしかして、この名前不詳の女性と同じ感想を抱かれ、小生をその女性と同じような心証を抱かれたままに遠ざかった方も居るのやも知れない。
 コメントさえ、寄せずに。

 いずれにしろ、小生の記述に舌足らずなところ、あるいは誤解を生む余地のある表現があるのだろう(きっと)。
 
                                (09/09/03 作)

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コメント

 たしかに、手を出さないのが賢明でした(〃^∇^〃)。
 対立させるのは、男女の枠組みではなく、個対個でしかないと思います。
 女性の立場に立つ、とか、男性の立場を、とか言っちゃうことじたいが変なのでは?
 国見さんは、男の代表ぢゃないし。
 それでも、男の代表として書いたのなら、死ねばいいのに、も甘受すべきかな、と思います。
 個対男の代表として。

投稿: 青梗菜 | 2009/09/04 20:58

青梗菜さん

>たしかに、手を出さないのが賢明でした(〃^∇^〃)。

いや、返す言葉がありません。

最初から何もせず、何も語らなければ、何も問題は生じなかったわけですね。
個対個。せいぜい、小説の形で表現するしかないのかな。

投稿: やいっち | 2009/09/04 21:18

う~ん、表現する者の危険負担は承知でのこと。
だから慎重に書いて、
でも、個対個であることは、それはもう誰にとっても自明なので、あまり誰もそのへんをついてこないはずなのですが…。


話しが変わりますが、

フーコーによれば、
「愛情とは相手を喜ばせることのできる一切の事柄の総計」、
なるほど、お上手、言い換えるなら確かにそんな感じです。

反対語としては、
相手を喜ばせないことの一切の事柄の総計、
加えて、
自分を喜ばせることの一切の事柄の総計、になるとします。


「愛情の反対は憎悪ではなく、無関心である」、
マザーテレサのことばですが、
僕はなんだか苦手だったんです、このきれいな定義づけ。

南風の反対は、風が吹かないことではなく、
僕たちは、冷たい風が吹くことを知ってます。

無関心よりも、憎悪よりも、もっとひどいことがありますよね。
それらひどいことの一切の事柄の総計、
愛情の反対語は、それくらいの射程でもって言い換えたい気がしてきました。

投稿: 青梗菜 | 2009/09/04 22:08

青梗菜さん

書き手(表現者)は、一旦、書いた(公表した)以上は
読み手の誤解や、時には思いも寄らない深い理解(洞察)も含めて、恵まれることを常に自覚しておかないといけないのでしょうね。
個対個だけど、つい、個(自分)のことだったりするはずなのに、一般化して真正面の逆風を受けるのを回避(緩和)しようとする。
弱い、あるいはずるいってことなのかもしれない。

ところで、愛情の反対語は無関心、だなんて、さすがに青梗菜さんは優しい。
小生に逃げ道を用意してくれるんだから。

小生に愛情があるかどうかは別にして、止むに止まれぬ思いで、口を出してしまった。
(小説の形で書いたのが、『フェイド・アウト』(文芸社)なのだけど、当初の目論見とは全く違う、わけの分からない森に迷い込んでしまった!)
まあ、書いた以上は、いろんなことを甘受しないといけないけれど、同時に、恵まれるかもしれないことを、改めて意識させてもらいました。

投稿: やいっち | 2009/09/05 19:11

 少々日にちが経ってしまった記事に、失礼しますね。

 これは、私の一意見なのですが。。。。。。。


 私は、「ああ、こういう意見の人もいるのだな」という認識でしか読みませんでした。
 べつにやいっちさまが「男性代表」で書いているとは微塵も思いませんでしたし、これを記事にしたから何だどうしたと言う感慨もありません。

 やいっちさまがそういったことを肯定するお人ではないことは今までのブログを読んでいれば重々わかりますし。


 ただし、もし万が一、私に強姦された経験があったとしたら。
 やいっちさまのお人柄を知らなければ。
 それが記事にされたということだけで嫌悪するでしょうし、それでも読み進めていったのならば、言葉尻だけを捕らえ、書き手の言いたいことを正しく理解しないままに批判だけが先立ってしまうと思います。
 そう、そもそも。
 そういう経験があったら、冷静に読み進めることなど不可能なのですよ。

 つまりは、そういうことなのだと拝察します。

 まぁ、ブログを読む人はかなりの数上りますからね。
 いろいろな経験を持ち、いろいろな考えを持つ方々がやってきては通り過ぎていくのです。

 受け入れられないこともあるでしょう。
 思わず、傷つけるようなコメントを受けてしまうこともあるでしょう。


 けれど、私たちが「言霊」を扱うものである以上は、それを受け入れ、明日の糧にする、そんなことも必要なのではないのでしょうか。

 ・・・・・ところでこの方、本当に女性・・・・・かな?
 少なくとも、私にはここに記述するのも憚られるような直情的な表現があったものですから。。。。。。。
 (それも人それぞれだとは思うので断言するのはどうかとは思いますが。。。。。。。)

投稿: RKROOM | 2009/09/05 22:31

一般化とか、普遍化とか、客観化とか、
ある程度、大きくは偏らない文章でないと読めませんよね。
誰も国見さんの純粋なモノローグは読むことができませんから。

結論、
文責です、
しょうがない、以上。


以下、脱線、します。
ぶっちゃけです。

国見さんてば、自分が好きですよね。
自分と自分以外のなにかは比較できないとしても。
ひいては、世のなかが好きなんですよね。
なんだかんだいっても、自分の書いたものを拾いあげて、
またぞろ語ってしまうなんて、
そりゃもう、自分が好きなんですよ。
この際、認めてしまってください。

自分、なんてものを放っとかずに、わざわざ難しくしてしまう、
そんな語りをする人は、なべて自分が好きなんです、間違いないです。
もちろん僕も含めて。

少なくとも、自分に無関心ではいられない。
メタに出たり、また入ったりしながら自分が自分を悩んで、
面倒くさい自分もまたかわいいと自分で思う。
ことばを選ばずにいえば、情けない、男らしくない。
恥ずかしい作業ですが。


それをブログで表現してしまうなんて、
ああ、もう、だめでしょう、
正真正銘、厚顔無恥のナルシストです。


話を戻して、
いずれにしても、送信ボタンを押すことに慣れてはいけないと思いました。
改めて、自戒しましょう。
このクリックひとつの重さは、
思いがけず、どこかで傷つけられる人の最後の抵抗です。

投稿: 青梗菜 | 2009/09/06 15:17

RKROOMさん

書き手の責任の重さを今更ながら、感じてしまいます。
こんな小さなブログですが、どれほど読まれるかは別にしてアクセスだけはそれなりにあります。

少しは継続的にあれこれ書いてくると、ややモノローグ風に、あるいはその時の自分なりの思い入れ(思い込み)で書いていて、表現が至らない、あるいは観点が他にも十分にありえることに思い至らない、そんな自分というものをつくづくと感じさせられるのです。

自分の感性や感じ方に、どうにもならない枷(かせ)のようなものがあって、自由に伸びやかにと思っても、つい、何か偏屈な方向へ思考が勝手に先走ってしまう。

事柄が他のどんな事柄より微妙なだけに、自分には本来、手に余るものだったと思うしかないのでしょう(今更そんな後悔は遅すぎますが)。

いずれにしても、一旦、書いてしまい、読まれしまい、しかも、多くの読み手は、一瞬、垣間見て、それで立ち去って二度と戻ってこない以上、批判は誤解も、あるいは深い意味で正解も甘受しないといけないのでしょう。

かのコメントを寄せてくれた方は、会ったわけではないのですが(← 無論!)、女性と判断されます。
理由は書きませんが、一定の根拠があります。

投稿: やいっち | 2009/09/06 16:14

青梗菜さん

ナルシストになりたいもの。
自分の中から外を眺める分には、一瞬の幻想は抱けるわけですが、鏡を見たり、現実の中でほんの少しでも動けば割れたガラスの破片ばかりに取り巻かれていると感じてしまいます。

ガキの頃(保育所時代)に、あまりに早く自分を諦めてしまった、そのことへの後悔の念が強くあります。
自分を救いたいって思いは、間違いなくあるでしょう。
いや、あります。
誰も助けてくれないし、今のままじゃ、今までのままじゃ、あんまりだ、と強く感じているから。

自分の中の、あるはずのナルシズムと自己肯定の念は、透明なパイプの中で窒息しそうです。

投稿: やいっち | 2009/09/06 16:19

理屈からいえば、ナルシズムや自己肯定は、
気の持ちようみたいな話に還元してしまいたくなるのですが、
しかし、そんなのは、
ナルシズムや自己肯定なんてのを、ことばで遊べる人の謂いなのでしょうね。

嫁とか子どもらとか、しごと場の人たちとか、友だちとか、
そんな人たちに囲まれていれば、
思考が行き詰る前に逃げ込んで、自分自身も煙に巻くことができます。
それらの関係性は、僕がよく逃げ隠れるシェルターです。

人によっては、経歴とか資格とか容姿とかカネとか、
頭がいいとかコミュニケーション能力があるとか、
明るさとか優しさとか感受性とかでも、
若さとか、あまり根拠のない将来性とかでも、
優位性はあればあるほど自分を丸出しにしなくていい、
素の自分と向き合わなくていい気がします。

ひと言に要約すれば月並みに、愛情と承認、になりそうです。
なべて観念なので、自己申告でも、思い込みでも構いません。
誤謬でいい、投影でいい、気の持ちようで構いません。

ネットは、なにか受けて立たなければならないような、
いいえ、凡百の、もっとゆるゆるのブログならいいのですけどね、
国見さんのように、上手に書けるし、だから上手に読めることは間違いなく、
人並み以上の、人並み外れた書き手のブログでは構えてしまうので、
こんな書きようになってしまうのですが、
ふつうなら、書いたものを褒めて、元気づけて、励まして終わりですよ~(〃^∇^〃)。

投稿: 青梗菜 | 2009/09/06 21:20

青梗菜さん

戴いた最後のコメント、これをこの記事の最後のコメントにしようかなと思ったりしました…が、それでは放置と受け止められかねないので、蛇足のレスを(にもならないけど)。

青梗菜さんと遣り取りしていると、なんだか自分が褒め殺しじゃないけれど、真綿でくるまれていくような錯覚を覚えそう。

実際には、愚か(少なくとも舌足らず)で、思いも寄らないことを先走る、口走ってしまっている自分がいるのだろうなって思う。
まあ、あとで殊勝にも、そう思う、気づくわけで、遅きに失していることが大半のようで。

でも、対話のない生活を何十年も送っていると、縮小再生産(悪循環)の罠の甘みから抜け出すのは、ほとんど絶望的なのかなとも。

それでも、発作的にもがいてしまうのですが。

ふと、数年前に書いた「誰もいない森の音」というモノローグ風のエッセイを思い出しました:
http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/2005/11/post_74f7.html

例の厳しいコメントを寄せてくれた方が、このエッセイも読んでくれたら言いのだけど、ありえないか。

投稿: やいっち | 2009/09/07 17:58

> 真綿でくるまれていくような
窒息しそうですが(〃^∇^〃)、まだ続きます。
国見さんなしでも続けます、
誰か僕のあとに書き込んでいただければ。


誰も見たことのない雨…、
猫はこんな台詞を言ってました、懐かしいな~。

「誰も観ていないと言うのなら、
 一滴の内も外もないはずだ。
 なぜ一滴の中に入り込もうとはしない?」

誰も見たことがない、というときでも人は人が見るってことを除外しません、
ひいては自分が見るってこと以外を考えません、だから雨粒の一滴を外から見ていると。
猫だからそれに気づいたのでしょうね。

音も同じかな。
誰もいないと言いながら、
人が聞くってことを外せません。
だったらもう、音はしないんでしょう、
人がいないのだから。

人なんかどこにもいない昔から、
木は倒れてましたけど、幾度となく。
人ってのは、なんて自己中なんだろう。

誰もいないところで倒れる木に、
猫は少しの感慨も持ちません。
自分が生きることにも、殺されることにも、
猫は意味を探しません。

なぜ猫を殺しはいけないのかだって?、
猫は理由など探さないのに?
猫に代わって理由を探す理由が分からない、
っていうのなら、そりゃわかりにくいだろうにゃあ。
人ってのは、なんて自己中なんだろう。
こんな構造をもった問いかけが好きだったのでしょう。


「誰もいない森の音」、
ぜんぶ真に受ける人がいるかもしれません。
作品ですから、念のため。

もう4年になるのですね~。
人は時間の総和ですから、
時間の経過は、新たなつっこみを生みます。
命の感覚を確かめるために、何を努力したのかと。

受験勉強もしないで学問への憧れを語っている人が、
3浪しようが4浪しようが、そりゃもうどうしようもありませんもの。

でも、努力ができない、ってことは、
すごくあって、誰にでもどうしようもなくあって、
帆かけたる舟、人の齢、春夏秋冬、
などと、たそがれてみたりするわけです。

投稿: 青梗菜 | 2009/09/08 01:51

青梗菜さん

「誰もいない森の音」については、ナルシストという決め付けに関連してここに持ち出したわけで、ここでは読んで欲しいかったのは、下記の部分です:
 しかし、中には、物心付いた時に、心が枯れていることに愕然とする奴もいる。
 風にも心が騒がないし、大地を裸足で走り回る悦びを感じない奴もいる。
(中略)
 心が閉じている人間に、さて、どうやって世界の広さを告げたらいいのだろう。命の感覚、切れば血の吹き出る漲る生命感をどう伝えたらいいのだろう。命というのは、時にはかないものだから、だからこそ大切なのであり、それこそ再生可能で、あるいは傷付くことも腐ることもないプラスチックかステンレススチールのような肉体を人が、生き物が帯びているのなら、命の切なさという感覚など最初から無縁だったに決まっている。そうではないからこそ、傷付くのだろうけれど、でも、心が寂れ果てている人間に、はかなさともろさと他愛のなさこそが命なのだと、どう分かってもらったらいいのだろう。
                  (抜粋終わり)
 やや婉曲に自分は、そんな殻に閉じ篭ってしまって生きてきたってことを告白している。

 物心付いた時から自分の魂が発した言葉は、ただ一言、「助けてくれ!」だけだんじゃないか。
 実際、この数年…だけじゃなく、物心付いたころから、一体、何を見たことがあるのだろうか、なんてつくづく感じています。

投稿: やいっち | 2009/09/08 17:45

心が枯れている、
とは、とても思えません。
恋愛もする、失恋もする、大学に行く、
枯れているとしても、枯れかたが半端です。

風にも心が騒がないし、
大地を裸足で走り回る悦びを感じない人もいますが、
それは国見さんぢゃない。
国見さんは、むしろ大騒ぎに騒ぎます。

それだけのことばを紡ぎ出せるのに、
国見さんは、心が閉じているといいます。
かえっていやみぢゃないですか~。

自己申告なので、
そう言われればそうと決まってしまうのでしょうが、
ここに集う人たちは誰もそんなふうに思ってません。


さて、国見さん、
ここからは入り込むなよ、
そんな結界を感じつつ、
でも、ほんとうに他人に侵入されたくない人なら、
他人に弱音をさらしませんから、いいかなと。

助けてくれ、の前に、
国見さんは誰かを助けたことがありますか?

救いかたが分からないと、
救われかたも分からなくなりませんか?

命の切なさというのは、
自分のそれではなく、
他人のそれによって知るものではないですか?

言われなくても分かっているのでしょうが、
それらは、他人と関わる煩わしさと引き換えです。
他人と深く関わらない生き方との選択です。

人を育てるのは面倒くさいです、
自分でやったほうが速いです。
人にものを教えるより、
自分の知識を増やしたいです。
自分の好きなことばっかしてては、無理です。

他人のために遣う時間を自分に充ててきたのなら、
ないものねだりぢゃないですか?

投稿: 青梗菜 | 2009/09/08 21:50

青梗菜さん

的確なコメント、意見、ありがとう!
世の諸賢も、納得されているのでは?

一つの記事に、二人の遣り取りが長すぎるので、意見を承ったところで、このコメントは終わりにしたいと思います。

投稿: やいっち | 2009/09/12 20:35

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