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2009/09/15

『オブローモフ』にはまった頃のこと

 文学として断固、最高峰にあると感じさせたのが、例えばドストエフスキーの諸作品だったとすると、自分のある種の嗜好…希求する何かという、そのツボにドンピシャな小説というものはあるものだと感心させられたのが、イワン・ゴンチャロフ作の『オブローモフ』だった。

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→ 今朝(14日)の「クレオメ(西洋風蝶草)」。

 確か、学生時代のある頃、恐らくは教養課程を終え、学部生になったある時期だったとおもうのだが、この小説を読んで嵌まった。
 手にしたのは、米川正夫の訳で、岩波文庫だった。

 ネット検索して驚いたのだが、「イヴァン・ゴンチャロフ『オブローモフ』全3巻 - 読書その他の悪癖について」によると、こんなに面白い、無類の小説が、一昨年に復刊していたという。
 こんな<痛快な>小説が、一時たりとはいえ、絶版になり、書店の書棚から消えていたなんて、信じられない。

 この小説に付いての紹介は、「イヴァン・ゴンチャロフ『オブローモフ』全3巻 - 読書その他の悪癖について」に譲る。

 ドツボに嵌まったといいつつ、実は、小生、この小説を一度しか読んでいない。
 ドストエフスキーの小説群だって、どの大作であってもそれぞれ最低、3回は読んでいるというのに。

 そう、ある意味、あまりに自分の中の嗜好にピッタリ来すぎていて、次に読んだら、もう、その悪魔的な誘惑、強烈な引力に打ち勝てそうにないと感じたからなのである。

 この小説の内容を纏めてしまうと、「イヴァン・ゴンチャロフ『オブローモフ』全3巻 - 読書その他の悪癖について」に示されているように、以下に尽きる:

 イリヤー・イリッチ・オブローモフは純な心と聡明な知性を備えているが、役所勤めに耐えられず職を辞してより、領土のオブローモフカから送られてくる年貢に頼って、ペテルブルグで引きこもり同然の暮らしを続けていた。彼の親友シュトルツは彼を生活の場に引っ張り出そうと奮闘する。シュトルツの紹介で少女オリガと知り合ったオブローモフは、彼女と恋しあうようになって復活しかけるが、破局に終わり、家主の未亡人アガーフィヤのもとで再び怠惰な暮らしに戻る。

 たったこれだけの内容なのだ。
 が、語り口の上手さ、対話の妙、計算されつくした秀逸な構成などが相俟って、一旦、読み出したら、頁を捲る手が止まらない。


 岩波文庫で3分冊となっていることでも分かるように、大作なのだが、読み始めたと思ったら、作品の世界に引きずり込まれ、気が付いたら最後の頁に至ってしまっている。
 ああ、もしかしてオレも、「少女オリガと知り合ったオブローモフは、彼女と恋しあうようになって復活しかけるが、破局に終わり、家主の未亡人アガーフィヤのもとで再び怠惰な暮らしに戻る」というパターンを踏襲することになってしまうのではないか。

 所詮は、揺り篭から墓場…それがあまりなら、閉ざされた空間に舞い戻って、そのままその窒息せんばかりの空間の中で縮小再生産する、不毛な夢想を貪るしかない人生に終わるのではないか。
 そう、自分の近い将来を予言する書なのではないか。

 ドブロリューボフに『オブローモフ主義とは何か?』(金子 幸彦 訳 岩波文庫)なる本がある。
 むしろ、イヴァン・ゴンチャロフの生前は、「オブローモフ主義」なる妖怪のほうこそ、時代を風靡していた。
農奴制にあぐらをかき、何百年もロシアの農民=勤労人民を収奪してきた地主・貴族階級、ロシアの支配者階級」に蔓延する生き方ということになるのかもしれないが、ゴンチャロフの『オブローモフ』なる小説は、そんな時代の制約を遥かに超えている。

イヴァン・ゴンチャロフ『オブローモフ』全3巻 - 読書その他の悪癖について」のサイト主の方も書いておられるように、「19世紀にして、昨今流行の「引きこもり」を主題にした先見性」が、あまりに自分には痛切だったように思う。
 無論、小生の若い頃に「引きこもり」などという呼称はなかったが、たとえば、ドストエフスキーの『罪と罰』だって、「引きこもり」小説と言えそうなわけで(ラスコールニコフは、要するに、狭い部屋から刑務所へ居場所を移動したわけである)、狭い部屋の中での不毛で非現実的な夢想と妄想に脳味噌が腐っていってしまう、そんな危機感さえ覚えさせた。

 『罪と罰』もだが、それ以上にイヴァン・ゴンチャロフの『オブローモフ』は、小生を刺激した。
 昼と夜が逆さまの生活になっていた。
 毎日、一時間ずつ生活時間帯がずれていって、一ヶ月弱で同じサイクルの生活に戻るという暮らしだった。
 何処へも行かず、誰をも訪ねず、誰も来なかった。
 出かける理由も契機もなかった。
 なんとか、そんな暮らしから抜け出したいという欲求もあった。
 もしかして、本当に文学や哲学に惑溺する<勇気>も決意もなかっただけなのかもしれない。
 ともかく、このままじゃ、ダメだと、まあ、ゴンチャロフの『オブローモフ』は小生の場合、ショック療法的に作用(利用)したのである。
 それほど、インパクトのある小説だったということになる(こんな奇天烈な読み方をする奴もいないだろうが)。

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← ゴンチャロフ著『オブローモフ』(米川 正夫 訳 岩波文庫) 「上・中・下」の3分冊。米川 正夫さんの翻訳には随分とお世話になったものだ。(画像は、「Amazon.co.jp: 通販 - ファッション、家電から食品まで」より)
 
 今、日々、懸命になってあれこれやっている。睡眠時間だって、細切れの状態の日々が続いている。
 相当程度の緊張感を保っている。やっとのことで、日々をやり過ごしている。
 今のバイトだって、月に一度の休みもなかったりする。

 そんな自分が、今、イワン・ゴンチャロフ作の『オブローモフ』を読んで、無為の生活への誘惑に嵌まっちゃったら、静と動の両極で股裂きとなり、辛く憂鬱な気分に陥ってしまうこと必定である。
 まあ、夢想の中で耽溺するだけに終わってしまうかもしれないのだが。

 そう、「9月15日 今日は何の日~毎日が記念日~」によると、今日(9月15日)がイワン・ゴンチャロフの忌日なのである。
 小生には、学生時代のある時期を象徴する、懐かしい小説であり、その書き手の忌日ということで、ちょっと採り上げてみた。
 再読するかどうか、悩ましいところである。

                                    (09/09/14 作)

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コメント

やいっちさん、こんばんは。
庭の草花や空の写真、日々のエッセイをいつも楽しみにしていますが、やいっちさんの絵画や書籍のお話も大好きです。
こちらのブログに辿りついたのも、ベクシンスキーやベックリンを検索していてヒットしたからでした。
今回は『オブローモフ』、引きこもり小説ですか…読んでみたいです。引きこもり願望旺盛なもんで。
猫も引きこもりの友になってくれる…はず(笑)
ではまた

投稿: 三日月 | 2009/09/16 03:30

三日月さん

「こちらのブログに辿りついたのも、ベクシンスキーやベックリンを検索していてヒットしたから」とは、まさにネットが縁での関わりなのですね。
彼らなどの検索でアクセスされる方が相当、いらっしゃいます。
なかなかコンタクトは取ってくれない。
その意味で、どんな縁にしろ、メッセージをいただけるのは、とても嬉しい、感激です。

『オブローモフ』は、とっても、面白い小説です。
引きこもりの気味があってもなくても、人間の根源(人間とはを問い掛けている)に手が届いている、一級の作品です。
引きこもりどころではないかも。

それはそれとして、大作ですが、長さを感じさせない、頁を捲るのがもどくなる、残る頁数の減るのが惜しくなる、今後も読まれ続ける小説だと思っています。

三日月さん、引きこもりになろうがなるまいが、時に思い出したら、我がブログにちょっかいを出してくれると嬉しいです。

投稿: やいっち | 2009/09/16 13:06

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