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2009/08/23

プラプラしているわけじゃないのだが

 週に二度、母がデイサービスでお世話になっている。
 過日、その業者の方がもらされたちょっとした一言が気に掛かっている。
 朝食も終わり、あとはデイサービスの車を待つだけになっていた。

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← 今日(土曜日)は、わが町のお祭りの日。前日に撮った写真。準備万端(23日の地蔵盆祭りは、どうやらここではなく、今年から違う場所(新しい公園の一角)に変更されたみたい。確かにそちらのほうが広いし、新しい大きな公園ということで場所的にも分かりやすいのかもしれない。でも、お地蔵さん(観音様)たちとは縁がない祭りとなったのでは。数十年の昔から、今の地蔵堂(観音堂)で小さな祭りが続けられてきたことを思うと、ちょっと淋しい(09/08/24 追記))(なんと、今日24日、月曜日にこの観音堂(地蔵尊)でお祭りがあった。夏休みとはいえ、月曜日に祭りとは、意外で驚いた。小生は、草臥れて寝込んでいた(09/08/24夜 追記の追記))。

 二度のデイサービスの日は、たまたま、燃えるゴミを出す日に当たっている。
 なので、車を待つ間に、庭の植物に水をやったり、ゴミを出したりする。

 過日のことである。
 そこへ、サービスの車がやってきて、業者の方が出迎えに玄関にやってきた。
 ゴミを脇に置いて、いつものように母を送り出す介添えをする。
 その時、業者の方が脇のゴミ袋を見遣りつつ一言、「あら、家のこともされるんですね」と漏らされた。

 何気ない一言だし、意味など特にないのだろう。
 ただ、業者の方の目線からは、小生は家では何もせず、プラプラしていると思われているだろうということは、何故ともなく、ひしひしと伝わってくる。
 母を送り出した後は、家で終日、ボヤーと過ごしている、役立たず…。

 家で家事していること、洗濯や掃除や、炊事や買物や、父母の介添えや、庭や畑のメンテナンスや…、そんな雑事をこなしていることなど、想像の外のことのようだ。
 一時はできずにいたバイトもやっていること、それも、夜だったり、早朝(未明)だったりで、朝方は寝不足でボーとした頭、疲れが芯にたまっている体、そんな状態でいることなど、もっと想像の外のことなのだろう。

 まあ、別に知ってもらう必要など、ないわけだが。

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→ 隣家の庭先に咲く「モミジアオイ(紅葉葵)」。つい先日、名前を教えてもらった。何処となくハイビスカスの風情も。夕方には萎むが、日中、明るい間は思いっきり咲く。対で咲いて、二つの風車みたい。

 自分が宣伝して回るわけにもいかないのだが、近所でも家でプラプラしている人間と看做されがちだってことも、以前、この日記で書いた。
 たまに近所の方と立ち話をすることもあったりするが、そんな込み入った会話になるわけではない。
 父や母は、体の都合もあり、終日、家に篭りっきりで、小生の代わりに誰かが内情を説明してくれるってことも、期待はできない。

 町内で同じデイサービスを利用している家の方だったりすると、小生が家事などしていることはあるいは知っているかもしれないが、それでも日中は自由な時間があって、プラプラしている…とか、あるいは、そこまでさえも考えなどしないのだろう。
 それはそれで仕方がない。
 
 でも、デイサービスへは父母が行っているわけで、要介護度の高い母はともかく、要支援の父は、たまには施設内でお喋りする機会が、職員などともあるだろうし、その際には、息子が家事などやっていると言ってくれるってことはないのだろうか。

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← 今朝、仕事の途中、間もなく明ける空を撮ってみた。夜明けの空は、生憎、住宅街の中を走行中だったので、撮影できず。

 やはり、実際のところ、父は歩行訓練(といっても、施設内などを歩いて回る)などで自分が頑張っていることをアピールするだけで精一杯なのかもしれない。

 となると、プラプラしていると思われるままに、何処にも厄介者の居候が家に居るものだと、軽くいなされ看做されて、それで事が…小生のイメージや人物像などが決まっていくのだろう。

 以前もこの日記で書いたが、そこには小生がわが町ながら、町に溶け込めていないってことも大きな要因としてある(と思われる)。
 36年ぶりに帰郷して、地元に小中高を問わず、同窓生との交流は切れているし、昔の遊び仲間もみんな大人になり(当たり前だ!)、それぞれに家庭を仕事を持ち、いずれにしても、地元に在って雑談などする相手も未だに作れないで居る。

 内助の功は、独り身の小生の場合、期待できない。
 母は交流は無理だし、父は付き合いは苦手だったり近所を散歩するのも嫌いときては、小生自身がコミュニケーション能力に劣っていると、マイナスのイメージは一層、負の方向へ固まることはあっても、改善されることはありえないわけだ!

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→ 上の夜明け間近の空の写真は、雲が多い。実は、前日の金曜日は、ほぼ終日、雨で時折、強い雨も。玄関先の臼も、雨水をたっぷり溜めている。雨は夜半過ぎまで続き、我が外仕事も雨の中の辛い作業となるかと心配していたが、雨は全く降らなかった。
 
 まあ、プラプラしている人間と思われているなら、もう、それで開き直るしかないのかもしれない。
 実際、36年間、郷里を離れてフラフラしてきたわけなのだし、あながち間違っているとも言いきれないわけである。
 36年の歳月のツケが今、回ってきているということなのだろう。

                                (09/08/22 作)

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コメント

申し訳ないですが、「家では何もせず、プラプラしていると思われているだろう」には思わず笑って仕舞いました。

この点は、(旧)農村部の方が都市部よりも偏見がないかと思いましたが、どうも違うようですね。毎朝畑仕事に出かければ良いのかもしれませんが、家周りの庭弄りや家庭菜園程度ではそのように見られるのでしょうね。

私が分からないのは、こうした子息による親の自宅介護が一般化しているのかと思ったのですが、奇異に映るとすればあまり一般化していないことになりますよね。一つは経済性の問題で女性に対してやはり男性の方が経済力が大きいので、介護よりも他の仕事に従事する方が多いという事でしょうか。

私などは個人的に主夫希望者ですが、介護を兼ねた家事が出来るかどうかは大変怪しいです。しかし実際には人手が足りない昨今こうした男性による家事介護も増えて来ていると思うのです。

やはり旧農村部の意識がそうした偏見に残っていると思いますか?

投稿: pfaelzerwein | 2009/08/23 02:11

pfaelzerweinさん

都会のほうが偏見が少ないのかどうか、分からないけど、人の生活に干渉しない、乃至は分からないから関心を持たないという傾向はあるような気がします。

田舎は、(といっても農村というわけではないのですが、富山は駅を車で十分も離れると、田畑の目立つ町が大半となります)近隣の眼が結構、厳しい。

恐らくは、主婦仲間での口コミの影響力が絶大、乃至は決定的な面を持っているようで、特に噂好きの人が一旦、あの人はこうだという決め付けをし、それが広まったら、もうどうにも抗い難いようです。

ここには男性の自宅での介護に理解があるかどうかという一般的な事象とは違うレベルの、卑近だけど(他人から見た)人物像が決定されてしまう、噂(口コミ)の論理があるようです。

介護など家事のため、帰郷したなんて事情を知る者も少ない(いない)ようですし。
都会で仕事にあぶれて、余儀なく放蕩息子のご帰還となったと思われているのが、周辺の方の理解の大半なのでは。


親も含め、誰も擁護する人が居ない以上、プラプラしている人間という決め付けは動かし難いものになっていると思うしかない。

自分なりに反省してみると、確かに、春先だと、鳥の姿を追って、あるいは年中、花の姿を追ってデジカメを構えたりすると、奇異な人間に思われてしまうのだろうなって、仕方ないと思っているところです(ほぼ、諦めの状態)。

投稿: やいっち | 2009/08/23 09:47

私も暇ちんに見られております。
事実を知っておられる方は少ないですね(肉親を含めて)。
一人でおればすべて一人で行わなければならないわけで、いろいろと憶測を述べられる方がいてもその人たちが手を差し伸べてくれるわけではないですよね?
意外と多いですよ、責任がないわけですから
そのような事に惑わされて貴重な時間?を失いたくないので黙って聞いております。
やいっちさんも最後にはご自身が動くしかないわけですね

投稿: 吾亦紅 | 2009/08/23 21:17

身につまされますね。僕なんかもおそらく得体の知れない人物と思われているでしょう。立派な家に一人暮らし、何をしているんだか、そのうち犯罪犯さなければよいがとー。都会は奇怪な犯罪が最近多いから隣近所の人にも敏感ですよ。何かあればすぐに警察を呼びますし。確かに結婚していないということはお互い不幸ですね、家に二人いれば何となく周りの人も安心感持つと思うし。帰る田舎もなし、これからどうなるやら

投稿: oki | 2009/08/23 23:55

吾亦紅さん

吾亦紅さんも似たような事情を抱えておられますものね。

地元でありながら、孤独の島に取り残されているような気分です。

最後は、自分の打開する能力なのでしょうか。
町内会の雑事はやるけど、何かの行事に積極的に参加するとか、工夫が居るのでしょうね。
でも、現状では、ギリギリで、手も足も出ないのですが。

投稿: やいっち | 2009/08/24 09:19

oki さん

oki さんも、似たような環境にあるんですね。
むしろ、都会にあって、大きなお屋敷に一人住むとなると、余計、変な目で見られる可能性も高いのでしょうか。

結婚はともかく、地元の方と一人でも親しく交流を持つことが特効薬になるのかな。

投稿: やいっち | 2009/08/24 09:21

いろいろ難しいですね。
最終的には「ある程度で良いから納得できる介護・家事がやれたか?」が自分の支えになってくれるんだと思いますが。

ご近所さんの目も出来たら柔らかい方が良いですもんね。
「ちょっと○○で困ってて草臥れが溜まってるですよ」とかゴーヤとかの遣り取りついでに(わざと)こぼす(小出しに!)とアッという間に広がるんですけどね(苦笑)
『大変だ』とアピールしないと何も問題がなく羨ましい。。って事になっちゃう時も。ケースワーカーの方は実情をご存知なんでしょ?知ってくれてる人もいますよ♪

投稿: ちゃり | 2009/08/24 21:48

はじめまして。やいっちさんのブログ楽しみにしています。

プラプラしてる…わけじゃないけど、人目が気になる…わかります。我は我、他人は他人とはなかなか割り切れませんよね。
ひとり暮らしの私などには、誰かに必要とされている方の存在は眩しいですが。
あ…同居猫には私も必要とされてるかも(笑)
また来させてくださいね

投稿: 三日月 | 2009/08/25 00:48

ちゃりさん

自分に欠けることの一つにコミュニケーション能力があると自分でも痛感しています。
ちょっとした日頃の付き合いなのでしょうけど、バイトを始めたこともあり、草むしりの雑事でさえ、なかなかできない。
家の中のことをやったら、もう、グッタリ。
ちょっと余裕がなくなっています。

介護については、母はともかく、父の無反応が情けない。
やりがいを全く感じないので、不毛を感じてしまうのです。
でも、やることはやりますけど、自分がこんなに徒労感を感じて(体の不都合を抱えつつ!)、それでも頑張っているなんて、親も知らないでしょう。

愚痴を言う相手もいません。

例のデイサービスの人は、この頃は挨拶もしない。
こちらから挨拶しようとしても、顔を背けて、知らん顔です。
この方が我が家の内情を、あるいは小生の個人的事情の何を知っているというのか。
表面的な印象で勝手に決め付けて、無視を決め込んでいいのか。
そんな姿勢でデイサービス業に携わっていいのか。

でも、他の職員も右習えしているみたい。
ま、これが現状です。

投稿: やいっち | 2009/08/25 09:49

三日月さん
はじめまして。コメント、ありがとうございます。
自分が必要とされている…とは感じていません。
母はともかく、父はそんな気持ちを表に出す人じゃないですし、何をやっても知らん顔の人。

昨年2月末に帰郷し、父母と暮して気づいたのですが、母は介護度が3で体が憂いので、仕方がないのですが(それでも、母は、何かをすると、必ず「ありがとう」を言ってくれます)、父は、洗濯をしても頼まれた用事や買物をしても、食事の用意をしても、草むしりなど外の用事をしても、何をやっても知らん顔。テレビを見、新聞を読むのに忙しい。

一番、驚いたのは、父の誕生日に贈り物(お酒)をした時。
その時でさえ、父特有の溜息をつくだけで、「ありがとう」の一言もなく、ただ、黙って収め、黙って呑むだけでした。

父は、小生が家事をやるのは当たり前、家の用事を果たすのは当たり前、そんなものにいちいちお礼やねぎらいなど、必要ないと思っているらしい。

家に息子(小生)を置いてやっているのだ、お前などいなくても、自分たちだけでやっていけるのだ、感謝するのはお前のほうだとでも思っているらしい。

どうも、自分の妻と勘違い(混同)している節があるような。
恐らく、妻(つまりは小生の母)が、買物をしたり、料理したり、配膳したり、洗濯したり、用を足したりしても、それはやるのが当たり前で、わざわざ言葉でねぎらう必要など、あるものか、というわけです。
母は黙々と、自分の務めを果たしてきたのでしょう。
思えば、自分にしても、母をどれだけねぎらえたかと思うと、覚束ない。

でも、小生は息子。母と同じ憂き目では困ります。

内心、父だって小生に感謝していると思いたいけれど、お礼(感謝)の念や一言を父が表に出したことは一度もない。

但し、父は小生以外の人、外の人には愛想がいい。
なんでも、ありがとうとか、言う。
また、新聞にも載るような表彰を受けたりする立派な人間。
感謝の気持ちも、多分、小生には理解できない形で(本人的には)示している…のだろうと思います。
また、世間的(地元の扱い的)には、立派な父の不肖の息子という評価なのだろうと思われます。

いずれにしろ、他人は、まさか家の中では、小生に対しては父が無表情を装っていることなど、想像も付かないでしょう。

小生は、帰郷してからの一年半で、父には呆れ果ててしまいました。

なので、頑張り甲斐がないのです。
小生自身、10歳からの体の不都合を抱えて、それでも、やるだけのことはやっている、なんて、誰も知らない。
一番、体のことを知っているはずの親(父)でさえ、小生の体の億劫さには無関心です。

まあ、父は母の面倒を見るのに懸命なのだ、小生のことなど構っている余裕などないのだ、と自分に言い聞かせていますが。

結局、自分の中の倫理観と責任感だけで不毛と徒労感と戦いつつ頑張っている。

時には励ましも欲しいものです。
ネコでもいいから!

投稿: やいっち | 2009/08/25 09:53

弥一さんはお父さまがいらっしゃっても難しいのですね、けどいるだけ感謝しないと、経済的にも年金がでるでしょ大きいですよ、遺族年金だと半分になりますから。都会は近所付き合いといっても住んでいる人がころころ変わります、相続税が払えないで土地売ると三分割されて新しい人が入ります、挨拶もない回覧板はポストに入れる習慣になりました、まあ孤独死しないようにしないと

投稿: oki | 2009/08/25 23:46

oki さん

まあ、家族ですから、いろいろあります。
でも、家族ですから、いろいろあっても、協力してやっていくしかない。
ブログでは愚痴を吐きましたが、やるだけのことやっているし、家族の恩恵も受けていると理解しています。

回覧板…。今まで、ずっとポストに投函されていました。
そんなものじゃないのかな?

投稿: やいっち | 2009/08/26 11:16

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