夏の終わりの気配を感じつつ
8月26日は、アメリカの哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズ(William James)の命日である。
→ 今日は期日前投票のため、市役所へ。さらに図書館へ寄り、返却と借り出し。CDは、加藤登紀子に代わって研ナオコを選んだ。その帰り、スーパーへ向かう途上、天気もよかったので、富山城のお堀の脇を通った。なんだか、絵葉書みたいな写真になってしまった。こうしてフラフラできるのも、自転車の気軽さの御陰だ。
彼に付いては、ブログでは、「上村一夫…劇画なる世界に焦がれ戯画に生き」の中で、書いた日が1月11日、つまり彼の誕生日ということで、若干、採り上げたことがあるだけ。
← 今朝、朝食後、水遣りのため表に出たら茶の間の直下の日陰にトンボの姿を見た。チャンスとばかりに近付いたが、なかなか逃げない。気づかない? 秋の気配の漂う風にお疲れなのかな? 御陰で直近で撮影することが出来た。
学生時代を中心に、サラリーマンになってからも含め、彼の主著『宗教的経験の諸相 上・下』(桝田啓三郎訳、岩波文庫刊)を3度も読んだにしては、扱う頻度(も内容も)少ない(し薄い)。
但し、ウィリアム・ジェームズの哲学に初めて接したのは、高校時代のことで、『パース・ジェイムズ・デューイ』(世界の名著59)中央公論社)を読んだ中でのこと。
その前に、ラッセルの『数理哲学入門』を読んで感激したことが前史としてあるので、その際に(解説文などで)ウィリアム・ジェームズの名に接していたかもしれない(…そのはず!)。
→ 我輩の部屋の脇の庭の隅っこに、いつの間にやら見慣れぬ植物が育っていた。雑草? 今更、引っこ抜くのも可哀想なので、当分、様子を見る。
ブログでは触れることは稀だったが、ホームページでは、長文(だけ)の思い出話めいた記事を書いている:
「ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(前文・承前)」
← 今日の「クレオメ(西洋風蝶草)」。今回は、茎をメインに撮影。
これを読み返して、我ながらびっくりなのは、3度めに読んだのは、わずか6年前のことだということ。
自分でもすっかり忘れている!
→ 未明から早朝にかけての仕事を終え、帰宅の途上、とある橋の上から東の空を撮ってみた。五時半過ぎだったろうか。仕事は肉体労働なのに、汗を掻かない涼しさだった。
今日は、懐かしさもあるので、ウィリアム・ジェームズの命日に事寄せ、上掲の雑文から一部、抜粋しておく。
(09/08/26 作)
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コメント
僕は、どうやら、
世のなかの不思議を感じないタイプだと思います。
ある、がなければ、ない、もなくなり、以下余白、
黙りこむよりほかはないかなと思います。
ですが、それは、あんまりです、
困ります。
ある、ということは大問題ですが、
大した問題ぢゃない、そう思ってしまいます。
ある、のなら、
たしかにあるのか、嘘ぢゃなくあるのか、
それもどっちでもいいでしょうね。
不確かでもいいし嘘でもいい、ほんとうも嘘も大差ありません。
どうせみんな消えてなくなりますから。
それを言っちゃおしまいですが。
なくなる、のは、ある、の一部を成してます。
たまには、ある、がなくならないと、ない、を忘れてしまいます。
僕の世のなかは、おそらく僕が作ってきたので、
誰かのそれとは比較不可能ですが、
僕の世のなかで僕は承認されたい、なぜかそう思っています。
僕が僕を認めることができれば、
自己肯定感が世界を支えてくれれば、
世界は僕を支えるでしょうか。
だから、世界がある、ということを、
ある、ということを、あるものすべてを歓迎しましょう。
ていうか、不思議でもなんでも、理屈でなくて、なきゃ困る。
あったら困るという人もいるのでしょうが。
夢でもいいのです。
実体なんてあってもなくても、どっちでも。
僕が利口でも馬鹿でも、なにも気づいていない鈍感でも、
そんなものは、たぶん、どっちでもいい。
そんなものは、たぶん、本質ぢゃない。
そのあたり、もう、どうでも。
僕が僕を認めることができれば、
そこから、深刻ぶったふりをして、ある、とか、ない、とかを考えますが、
ほんとうは、もっと鈍感に、何も考えないでいられます。
健全ですよね。
思考が浅いし、開かれていない。
それでもいいかなと思います。
その方がいいかな、とむしろ積極的に肯定します。
もとより、浅くても深くても価値の上下はつけないようになりました。
不肖、青梗菜、ものわかりのいいおじさんになってきました。
下の子は9か月になりました。
この子は確かにあり、ますね。
不思議でもなんでも、なきゃ、困る。
理屈ぢゃない。
困るから、あるよりほかはありません、ですよ。
投稿: 青梗菜 | 2009/08/31 23:19
青梗菜さん
含蓄がありますね。
お子さんが生まれ育っているのを間近に目にして、とっても健全で豊かな発想になっているような気がします。
奥さんや、ましてお子さんを前にして、斜に構えてなど居られませんでしょうからね。
返す言葉はないです。
青梗菜さんのコメントをそのまま、皆さんにも読んでもらいたい。
それだけです。
投稿: やいっち | 2009/09/02 09:51