ヴィヴィアン・リーとバタイユの命日
今日が忌日の方に、『風と共に去りぬ』や『欲望という名の電車』などで有名なヴィヴィアン・リーがいる。
小生は学生時代、映画館で『風と共に去りぬ』を観て感激。
人に誘われない限り、映画館には足を運ばない人間なのだが、この映画だけは、その後も、映画館で再上映されるたびに観に行った。
← 我が家の花壇の隅っこに、一輪、ポツンと咲いていた。地面に這うように咲いていたので、支えとなる棒を立ててあげた。今夜の強い風に負けないでね。
当然ながら、小説も読んだし、続篇の『スカーレット』も読んだ。
そのヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)が1967年に53歳の若さで亡くなっていたとは。
小生が彼女の主演する映画を見たのは、70年代の前半だから、当時、既に亡くなっていた。
いろんな作品に出ているが、小生にとっては、最後まで『風と共に去りぬ』のスカーレットだった。
そして、今も。
だからこそ、一層、自分にとっての永遠の女優であり続けているのかもしれない。
さて、今日が命日の人物に、ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)がいる。
1962年に64歳で亡くなっている。
バタイユへの思い入れや彼に傾倒した頃の思い出などについては、拙稿の「バタイユ著『宗教の理論』」の中で大よそのことを書いている。
今更、何を付け加えることもない。
とんでもない、見当違いな思い入れに過ぎなかったとしても、わざわざ古書店で全集を買うほどに読み浸った時期もあるという事実は厳然として残り続ける。
→ 夕食の片付けが終わったあと、近くの公園へ。西の夕空を望む。七夕の夜だけど、こんな雲行きじゃ、織姫と彦星の出会いは…藪の中! 反ってそのほうが二人に都合がいい ? !
以下、上掲の拙稿から、一部、抜粋して示す。
いかに、ピント外れな空想・妄想に突っ走っていたか、知れようというもの。
せっかくなので、間に合わせの題名を付して掲載する:
「バタイユへ寄せるオマージュあるいは懺悔」エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。
快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。
が、いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵まれて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とばかりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っているのである。
どこまでも後退する極楽。どこまでも押し寄せる地獄。地獄と極楽とは背中合わせであり、しかも、ちっぽけな自分が感得しえるのは、気のせいに過ぎないかと思われる悦楽の飛沫だけ。しかも、舐めたなら、渇きが促進されてしまい、悶え苦しむだけ。
何かの陥穽なのか。何物かがこの自分を気まぐれな悪戯で嘲笑っているのか。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。しかし、一旦、悦楽の園の門を潜り抜けたなら、後戻りは利かない。どこまでも、ひたすらに極楽という名の地獄の、際限のない堂々巡りを死に至る絶望として味わいつづける。
明けることのない夜。目覚めることのない朝。睡魔は己を見捨て、隣りの部屋の赤い寝巻きの女の吐息ばかりが、襖越しに聞え、女の影が障子に悩ましく蠢く。かすかに見える白い足。二本の足でいいはずなのに、すね毛のある足が間を割っている。オレではないのか! オレではダメなのか。そう思って部屋に飛び込むと、女が白い肌を晒してオレを手招きする。そうして…。
夜は永遠に明けない。人生は蕩尽しなければならない。我が身は消尽しなければならない。そうでなければ、永劫、明けない夜に耐えられない。身体を消費しなければならない。燃やし尽くし、脳味噌を焼き焦がし、同時に世界が崩壊しなければならない。
そう、我が身を徹底して破壊し、消尽し、蕩尽し、消費し尽くして初めて、己は快楽と合体しえる。我が身がモノと化することによって、己は悦楽の園そのものになる。言葉を抹殺し、原初の時が始まり、脳髄の彼方に血よりも赤い光源が煌き始める。宇宙の創始の時。あるいは終焉の祭り。
← 帰りは東の空を望みつつ自転車を駆った。雲行きが怪しい。二人も妖しい夜を過ごすのか ? !
さて、今日の日記の表題を「ヴィヴィアン・リーとバタイユの命日」としたのは、別に意味はない。命日が同じく今日(8日)だからというに過ぎない。
ただ、自分の中では、ほぼ同じ時期、熱中したという不思議な事実があるばかりである。
(09/07/07 作)
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