今日は河童忌・芥川の風呂嫌いを詮索する
今日7月24日は、河童忌(別に、我鬼忌や龍之介忌とも)である。
つまり、1927年の今日、芥川龍之介が自殺して果てたのある[1892年3月1日生]。
河童忌だからといって、別に川で溺れ死んだわけではない。
← これは一昨日、発見した6つめのゴーヤの実。本夕、8つめ、9つめを発見。これ以上の数は、小生には厖大過ぎて数えられない。ゴーヤの成長力に、ただただ呆気に取られる日々である。
「芥川龍之介 - Wikipedia」によると、「田端の自室で雨の降りしきる中、芥川龍之介は服毒自殺をおこな」った。
まあ、水に関係がないとは言えないかもしれないが、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」に溺れたとは言えるのかどうか。
小生に芥川龍之介について多少なりとも語るべき何もあるわけではない。
せいぜい、(こじつければの話だが)「河童」つながりで、短編『丘の河童』があるとか(内容的には芥川とは全く無縁!)、よせばいいのに、芥川龍之介の「「蜘蛛の糸」を裏読みする」なんて、裏読みというより浅読みに過ぎない駄文的批評(?)を書いたことがあるだけである。
幾分なりともシリアスな形で(?)芥川作品を扱った(とまでは言いづらい)拙稿に、芥川龍之介の『鼻』にも関連して、「嗅覚の文学」といった小文がある程度である。
まあ、文庫本にある芥川の作品は読んだが、それほど傾倒したとは言えない。
そんな小生なので、今日は河童忌にちなみ、小生らしい変則的な芥川論(?)序章を書いておく。
ところで、「芥川龍之介 - Wikipedia」によると、そのほぼ末尾に、「大の風呂嫌いで、めったに風呂に入らなかったという。入ったとしても、手ぬぐいは持っていかなかったようだ」とあったのが気になった。
彼とは何一つ比高する点も共通するところもない小生、唯一、親近感を抱けそう(!)と、一瞬、思ったのである。 ただし、彼が(本当に風呂嫌いだったとして)風呂に入らなかったのに対し、小生は貧乏で風呂に入れないのだから、ちょっとこれも同列には到底、なれない。
我が家の風呂は壊れて久しい。
お湯が何故かチョロチョロとしか出ないのだ。
夏場は、気長にシャワーを浴びて済ますが、冬はお湯の出の勢いのなさに風邪を引きそうである。
いずれにしろ、信念や骨髄に達するほどの好悪で風呂に入らないのではないわけで、やはり、龍之介には敵わない。
我輩には銭湯へ行くカネもない…云々と書くのは、もう、惨め過ぎて涙物である!
しかし、さて、彼が大の風呂嫌いというのは、本当なのだろうか。
上掲のサイトには、「大の風呂嫌いで、めったに風呂に入らなかったという。入ったとしても、手ぬぐいは持っていかなかったようだ」と伝聞調で書いてあるだけで、典拠が示されていない。
ならばとネット検索の威力で何かしら関連する文書を探してみたい。
すると、すぐに見つかったのは、下記の芥川作品:
「芥川龍之介 温泉だより」
その冒頭に、以下のような記述がある:
わたしはこの温泉宿にもう一月(ひとつき)ばかり滞在しています。が、肝腎の「風景」はまだ一枚も仕上げません。まず湯にはいったり、講談本を読んだり、狭い町を散歩したり、――そんなことを繰り返して暮らしているのです。
ほれ見たことか、温泉宿に行って、お湯にも何度となく浸かっていると書いているじゃないか…と思ったが、どうやらこれは創作作品。
それとも、日記(手紙)の断片なのだろうか。
すると、彼が(少なくとも温泉場では)入浴を厭わないという事実が浮上したことになるのだが。
さて、彼が修善寺などの温泉宿に投宿したことは事実のようだが、彼の入浴について書いてある文章はなかなか見つからない。
「芥川龍之介 手紙」はどうだろう。
手紙だし、創作ではないだろう。
いずれにしろ、この手紙にもあるが、温泉地(宿)をたびたび訪れているという事実は否めない。
風呂嫌いでも温泉場が好きってことがありえないとは言えないが、大の風呂嫌いというにはやや疑問符が付くことも否めないだろう。
さて、「芥川龍之介 手紙」には、その冒頭に、「僕は今この温泉宿に滞在しています。避暑する気もちもないではありません。しかしまだそのほかにゆっくり読んだり書いたりしたい気もちもあることは確かです。ここは旅行案内の広告によれば、神経衰弱に善(よ)いとか云うことです」とある。
ってことは、神経衰弱を癒すためにも入湯したに違いないはずであろう。
「芥川龍之介 手紙」の末尾近くには、「とにかくK君と一しょに比較的気楽(きらく)に暮らしています。現にゆうべも風呂(ふろ)にはいりながら、一時間もセザアル・フランクを論じていました」ともある。
やはり、大の風呂嫌いとは言えないのではないか。
しかし、この手紙も創作だったとしたら、話は違ってくる…のだが。
いずれにしろ、ネット検索でのデータを見るまでもなく、温泉好きという事実は厳然たるもののようだ。
ただ、だからといって、風呂に入ったと断言もできない。
宿が好き、温泉街が好き、女将が好き、風景が好き、避暑(避寒)、などなど温泉地へ行く理由は風呂以外に数々考えられるからだ。
あるいは、風呂には入らないが、河童忌の芥川だけに、川遊びと称して、川で泳ぐのが好きだったとか?
生前、芥川と比べられることの多かった菊池寛は、バンカラで大の風呂嫌いだったという話は聞いたことがある(「『真珠夫人』菊池寛 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇」参照)。
その伝で、芥川も旧制高等学校生徒が好んで行った蛮カラな風俗といった奴で、弊衣破帽(へいいはぼう)を気取っていたのだろうか。
で、自宅や学校仲間の間、平地にあっては、バンカラを気取っていたが、その実、温泉宿で垢を落としていたのだろうか。
上掲の菊池寛の証言で、芥川は爪がいつも垢などで黒かったとか。
そんなことで、大の風呂嫌いという伝説が出来上がったのか。
今の所、芥川龍之介が大の風呂嫌いだったという、確たる証拠(証言・典拠)が見つからない。
やはり、小生の能力では、彼の風呂嫌いの真偽のほどなど、洗い出すことはできないようだ。
ま、きっと、消息筋には芥川龍之介が大の風呂嫌いだったってのは、常識なのだろう。
できれば、その根拠を教授願いたいものである。
(09/07/23 作)
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コメント
この話題にちょこっと関連したネタも持っていますが、記憶違いかもしれないので確実な資料を探ってからにしたいと思います。
龍之介の死については、山崎光夫『藪の中の家――芥川自死の謎を解く』(中公文庫/2008.7)がスリリングな展開で語っています。まったく縁のなかった芥川に親しむ機会をつくってくれた本でもあります。
投稿: かぐら川 | 2009/07/24 22:42
かぐら川さん
本稿は、24日が芥川龍之介の命日と知り、急遽、書きおろした雑文です。
龍之介の世界にまともに取り組む準備も素養もないので、ちょっと変化球を投げ込んでみました。
あまり、関心を持つ方はいらっしゃらないのかな。
ま、文学とは関係ないのかもしれないけど。
でも、大の風呂嫌いが汚名なのか誤解なのか、実際にそうなのか、信条で嫌いなのか(世を人生を憂えているのに、ゆっくり日々、入浴するなんて言行不一致だろうし)、持ち前の憂鬱症(漠然たる不安感)の故の不精なのか、真偽ははっきりさせたいものです。
投稿: やいっち | 2009/07/25 09:13