町の神社は熊野神社として創建
過日、わが町でも地元の神社の祭礼があった。
例年、催されているものである。
昨年の二月末までは東京(など)に在住していたので、五月の連休中は郷里にいないことが多かったj。
90年代初めのころから、我が家での田植えの作業を手伝うという名目で、五月の連休時にも帰省するようにしていた。
← 子供神輿の一行を遠望。
四十歳に近づいたから、里心がついた…のかもしれないが、七十歳になろうという父母二人で守っている田圃を、小生も手伝わないと、という思いがあったのは事実だ。
それでも、帰省の渋滞を避ける意味もあり、連休の前半だったり後半だったりして、祭礼の日に田舎に在宅できたことはあまりなかったように思う。
あるいは、郷里の家に居ても、御神輿を担ぐワッショイという声を他所に、何処かへ散歩に行ったり、読書したり、居眠りしていたりと、あまり強くは関心は持っていなかった。
それでいて、古代史や考古学に関心は持っているし、古代の日本のありよう、もっと絞ってわが町(村)の歴史にも無関心だったわけではない。
神社の由来や文化も、本を通じて、あるいは何かの折に参拝したら、お札書きを読んだりする。
地元の、それどころか、わが町の神社なのに、祭りはともかく、祭礼にはあまりこれという関心を持ってなかったし、もしかして現に今も持っていない気味が強い。
それはどうしてなのだろう。
小生は、一般論好き、ただ、机上の空想で戯れているだけの人?
それとも、何回かは見物したことのある御神輿担ぎの一行の、(小生の、決して当事者になりえない、上滑りな観察に過ぎないのだろうが)どこか寂しげな様子が印象に強いからなのか。
→氏子が少なく、御神輿の担ぎ手が足りなくて、町内会が協力したとも。立派な御神輿をアップで撮りたかったが、チャンスを逃した。
実際、わが町も、マンションが出来たり、田圃が更地になり、木造ではない、最新式の住宅が建ったりして、どこか他所の町からの住人が増えている。
あるいは、古くからの住人は、一人また一人と亡くなられていくか、あるいは一線を退いていかれる。
世代が変わって若い人となると、自分の町でありながら、いつ転居したり、建て替えてしまったり、遠い町からの嫁さん(の親戚筋)の影響が強くなって、血筋や馴染みからして違う町の神社に親近感を持つことはあっても、わが町の祭礼は、近所づきあいで余儀なくという気持ちが見え隠れしたりする。
いずれにしても、商店が建ち並んでいた表通りでさえ、門は閉ざされ、更地になり、コンビニ的なテナントが次々に入ったりして、寂れていく一方だったりする。
バスだって日中は一時間に一本、あるかどうか。
近所を通り過ぎるのも、歩きよりも車が多い。田圃が駐車場になってしまったので、車の往来が多いのだ。
歩いているのは、お年寄りだけだったりする。
みんな買物でも、車である。あるいは自転車。
子供の数も少ない。
祭りの時には、さすがにそれでも何人かはいるんだなと感心するが、普段は子供たちさえ、塾やクラブや付き合いに忙しいらしく、遊ぶ声を聞かない。
いや、遊ぶ場所がない。
ないわけではないが、アウトドアというと、所定の公園か施設であって、自宅や学校を含め、屋内が多い。
いわゆる、野原、空き地って奴がないのである。
一戸建ての家はそれなりにあるが、マンションが多く、日中は不在だったりして、とにかく車の行き来があるばかりだったりする。
そんな町での祭礼。
←自宅の庭での御神輿の引き回し? そして、ワッショイ、ワッショイ!
地元の何世代も前から居住している人、古くからの氏子の数の少ない町での祭礼。
尤も、新たな住人で積極的に氏子となられるかたも、少なからずいるのだろう(その実態はしらない)。
これは自分だけなのかもしれないが、そもそも日頃、神社へ参拝にいくなんて、滅多にない。
ガキの頃、境内で遊んだという記憶もない。
ちょっと離れた場所にあるので、付き合いもなければ、馴染みもない。
父は親の世代からの折に触れた関わりは持ってきていた(る)が、小生は親任せだった。
御神輿を担ぐ人の数が少ない。
それ以上に、それを見物する住人など、子供を含め、少ない(但し、子供たちには子供神輿(正式名称は分からない)があって、その行列が別個にあった)。
御神輿が予め希望を告げた家の庭に入ってワッショイ、ワッショイとやる間だけ、その家の住人が、出迎え立ち会うくらいのものである。
それも、一家総出ではなく、一人か二人、義理で出迎えているといった雰囲気が濃厚である。
なんといっても、お花代やら玉ぐし料を払うので(先方様は貰うわけだが)、その遣り取りの都合上、余儀なく、といったことではないのかと思えてしまうほどである。
我が家も、出迎えたのは小生だけだった。
母はとても家の外には出れないし、父は今年は小生に立場を代わらせてしまい、家の中に篭ったきりだった。
小生は、昨年の冬の終わりからこの町で暮らす以上は、お寺さんや神社や、近所の方たちとの付き合いも大事にしたいと思っている。
付き合いなど苦手なこの小生なのだが。
と、前置きが長くなった。
実を言うと、地元の神社ながら、沿革を含め、何も知らない。
ネットで多少の情報を得ようと思ったが、我が神社は、そんな時流には頓着しないようで、ネットからの情報は得られなかった(見つからないだけかもしれない)。
我が町の神社と同名の神社が有名のようで、昔、ある事件で辞職に追い込まれた首相も、縁あって参拝したという。
→ 小学生の頃だったか、小生も御神輿を担いで、ワッショイ、ワッショイとやったことがある。物凄くハードで、声がカラカラになったっけ。
ある文書によると、「○▲神社は古老の伝承によると、熊野神社として悠久の昔、八百年前に創建、五百年前に再建され、その後十八ヶ村を統括する守護神として、多くの人々にあがめられてまいりました」という。
来年は創建八百年の記念式年大祭を斎行するという話である。
今日は熊野神社の系統ということなので、その関連のことを書こうと思ったのだが、前置きが長くなった。
後日、機会があったら、書く(かもしれない)。
参考:
「熊野神社 - Wikipedia」
「「熊野」を「ゆや」と読むとは知らなんだ」
「於保多神社…富山に天満宮 ? !」
「太田神社は市野倉にあります」
「初詣太田神社で決まりです」
(09/05/08 作)
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