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2009/05/06

ツツジを巡る随想の数々

 我が家の庭もいろんな花々が咲いてくれる。そんな中にツツジがある。
 分からないのだが、今年は庭のツツジがやけに見事なのである。
 昨年だって、ちゃんと咲いていたのに、自分の記憶があやふやなのか、ツツジの咲き誇る光景に恵まれたという印象があまりない。
 帰郷して一年余りとなる。

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 東京では最後の12年余りをタクシードライバーとして主に都内の路上を走り回った。休憩時もほとんど車内で過ごしたようなものだし、週に60時間ほどは車内にいた。つまり、公園の脇も含め、路上にいたわけである。
 路上での街中ウオッチングは、それはそれで楽しくもあったが、季節の花を、木々の葉の変幻を愛でるのもまた楽しかった。
 季節ごとに楽しみの花はいろいろあったが、春というと、呆気なく散っていく桜よりも、ツツジのほうがずっと印象に強い。
 毎年、一ヶ月余りもグリーンベルトならぬ濃紫のツツジの帯が我が目を癒してくれた。
 疲れがちな目に直接に効く花の形をしたブルーベリーでもあった。
 夜でもヘッドライトに浮かび上がる赤紫の花々は、妖しくもあるけど、闇に沈んで黒く見える葉っぱを背景に生命の横溢感を覚えさせる。

 実際、東京在住最後の数年だけでも、ツツジを巡る随想は幾つも書いた。
 その幾つかを抜粋してみる。

ここから、ツツジを巡る随想の抜粋集

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→ 本稿で掲載した写真のツツジはすべて我が家の庭のもの。近隣のツツジには見劣りするかもしれないが、それは小生の撮影の拙劣さのせいである!

 ツツジは、3月末から四月の初めにかけての桜の季節が終わるのを見計らうように咲き始める。道路脇に桜の花びらの、最初は淡いピンクの絨毯か帯だったものが、やがて乾き切り、色褪せ、埃に塗れ、茶褐色のゴミという憐れな末路を辿る頃に、そんな情ない光景などに目を向けさせるものかとばかりに、ツツジの花が咲き始めるのである。」とした上で、「闇の中で浮かび上がる濃く豊かな緑を背負った赤紫のツツジは、つまりは俺の命をドラキュラが生き血を吸う如く掠め取っているのかもしれない、そんな悪夢をさえ連想させるのである。
                            「つつじのことなど」(03/05/05)

 いよいよ東京都内は、ツツジの花が妍(けん)を競い始めている。三月末、そして四月初めの桜に事寄せた喧騒が嘘のような、緑滴る街路樹や公園の樹木。その深い緑の中から顔を覗かせつつも、決して緑陰に埋もれることなく、独特な鮮やかさを溢れさせている。
 小生は、桜の舞い踊り散る喧騒の侯より、今のツツジの季節が好きである。
 それは、やはり桜のいつ咲くのか、いつ満開になるのか、今日の雨で散ってしまうのか、今度の日曜には葉桜になりおおせてしまうのかという気忙しさとは無縁だからだろう。
 路上に散り、吹き寄せられ、あるいは掃き寄せられた桃色の桜の花弁の堆積の見るも無慙さ。
 その哀れさを人は殊更に無視しようとしているようだ。
 それら散り敷かれた花弁たちは、まるで一時は恋い焦がれた相手なのに、一夜の酒宴の座興と共に役割を終え、杯盤狼籍の酒席の静寂の果てに、裏のドブ川に棄てられた初心な恋人の剥ぎ取られた衣装のようだ。
 棄てられ見捨てられるために、ただそのためだけに一夜だけの契りを交わす。燃えて恋の手練手管に操られ酔い痴れて、踊って踊らされて、舞って舞わせて、それでも散ることを運命付けられ、また散らなければ、その場から消え去らなければ、反って憾みや白けの気分を呼ぶだけの悲しい皮肉。
 路上の塵に塗れ、土足の下に薄汚れて、茶褐色に見るも哀れなほどに変貌し、邪険にされ、見てみぬ振りをされる花弁たち。

 しかし、そんな感傷など、それこそ初心と言うものなのだろう。
 桜はしたたかなのだ。花弁など映画のスクリーンの埃にさえも敵わぬ見せ金に過ぎないのだ。人びとが花に酔い、花を愛で、花弁の舞い狂う中、退屈な日常に帰っていくように、桜の木も、つい一ヶ月ほど前には、張り過ぎた枝の数々が断ち切られたことが信じられないほどに、気が付くと小枝が生え伸び、そして一晩で桜の花が一気に咲き誇る、その様変わりの見事さをさらに圧倒するほどの生命力で緑の葉っぱで我が身を埋め尽くす。
 そう、喧騒の日々など我関せずとでも言うように、深い緑の衣装を纏って、戦ぐ風を心地良さそうに受け流している。風のシャワーを存分に浴びているのだ。儚い恋の季節は終わったけれど、長く熟成の日々を静かに深くたっぷりと心行くまで謳歌しているのである。
 そうした落ち着いた緑の滴る町並みにツツジが色を添えるのである。
                            「ツツジの宇宙」(04/04/20)

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 白色や桃色、あるいは赤紫色のツツジの花も、その奥に、あるいは根っ子には小振りな葉っぱが連なっている。その葉っぱは幹にあるいは枝へと連なっている。葉桜といい、ツツジといい、彩りを支えているのは、深い緑だったと、改めて思う。
 悲しむべきなのかどうかは分からないが、大地の色が都会では窺えないこと。たまに道路工事などで掘り返された、アスファルトやコンクリートの下の何処か無慙な姿を晒す土砂では、とても大地を目にしたとは言えそうにない。もしかしたらコンクリートで埋め尽くされた都会だからこそ、ツツジがやけに目に映えるのかもしれない。
                            「ツツジの宇宙」(04/04/20)

 踏みつけにしようと思えば踏めるから、動物の放縦に逃げることも出来ない、だから、植物は弱い…。毎年のように植物は我々の目の前で、芽吹き、咲き、萌え、絢爛たる光景を現出し、やがて枯れていったり、萎んで目立たなくなったりする。命の儚さを勝手に思い入れしてみたりする…。
 けれど、植物のことをいろいろ調べると、我々の感傷や思い入れを他所に、結構、したたかで逞しい生命力を持っているということをつくづくと感じさせられる。
 たとえ、踏まれ萎み窶れ腐り土に返っても、それは束の間の急速の時に過ぎず、やがては次の世代の植物達の滋養となって吸収され取り込まれ形となり、つまりは蘇る。死と生との循環を日々、身を以って、われわれに教えてくれているかのようだ。
 今、生きているものもやがては死ぬ。須臾(しゅゆ)の時を生きているに過ぎない。命の讃歌。命を謳歌すること。命とは生きていることというより、生成と衰滅の繰り替えしなのかもしれない。
 風に舞う埃だって、やがては時を経る中で、何某かの形を得るに至るのだろう。塵芥であるとは、モノであるとは、形を得るまでの束の間の自由の時、慰安の時を満喫している、モノの仮初の姿なのかもしれない。
 生命とは、どこかに偶さか蠢く何かなのではなく、宇宙に偏在する夢のようなもの。
 ツツジやパンジーを際立たせる滴る緑の深い闇に、何か禍禍しいような、毒々しいような危険の予感を覚えてしまうのも、生きていることの土台としての大地、否、地球、否、宇宙の震撼たる沈黙を予感せざるを得ないからだろうか。
 ツツジ。つつじ。躑躅。漢字でツツジを躑躅と表記する時、命の底の宇宙の豊穣さと永遠の沈黙を予感せずには居られないのだ。
 だから、春は憂鬱なのかもしれない。そう、あまりに重苦しすぎて。
                            「ツツジの宇宙」(04/04/20)

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 緑なす葉っぱや幹などはともかく、花々に何か強烈な印象を受けていた。それは何だろうと思い返してみたら、あまりにも呆気ない理由がそこにあった。
 そう、花というのは、端的に言って性器なのであり生殖器なのだということ。
 が、それだけでは言い足りない。それは分かる。えげつなさ過ぎる表現だということもあるが、では何故、本来は単なる生殖器のはずの花が、少なくとも我々人間の目には美しく、あるいは可憐に見えてしまうのか。
 それは、犬や猫などの動物(特にその子供)が可愛く見えるように、人間の勝手な思い入れや、長年に渡る親しみ、馴染みの故に過ぎないのか。そう、選択と丹精の結果に過ぎないのか。
                            「日の下の花の時」(04/05/16)


 人間にとって多くの花が魅惑的であるように、あるいはそれ以上に昆虫にとっては、花(の蜜)はなくてはならないものだろう。昆虫が花に誘われるのは、両者の長い関わりがあるのだろう。
 花は人間に好まれるように進化したのか。そういった花もあるのだろう。そうでなく、勝手に人間の生活圏に侵犯する植物は、たとえ可憐な花が咲くものであっても、雑草とされてしまう。
 同時に昆虫に受粉させるべく進化した花もあるのだろう。人目の届くところで見受けられ愛でられる花の多くが綺麗なものなのは、分かるとして、人里離れた場所にある花であっても、美しく感じるのは何故なのだろう。単に花だから? それとも、昆虫などを魅するように進化したことが、たまたま人間の審美眼にも適ったということ?
                     「日の下の花の時」(04/05/16)


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 太陽の光が燦燦と降り注ぐ。その中、緑は濃くなり、幹や茎は伸びあるいは太り、花は思い思いの装いを凝らす。
 見て愛でているほうは、ただ陽光をタップリ浴びて、植物は気持ちよさそうなどと思っているだけだが、しかし、よく見ると、日差しは情容赦なく木や花に突き刺さっている。逃げもせず、よくも植物は耐えているものと思ったりする。
 そんなツツジなども、五月も半ば頃となると、さすがに日の光を浴びすぎたのか、淡い紫というか目に鮮やかなピンク色の花も元気を失いかけている。中には茶褐色に変色し、明らかに萎れてしまっているものも見受けられる。
 太陽の光を浴びるという恩恵なしでは、直接か間接かはいろいろあっても、生きものは生きられない。それはそうなのだけれど、しかし、ジリジリと照り付ける直射日光の強烈な日差しは凄まじいものがある。なのに、花が長く咲きつづけ、緑はますます濃くなっていくのは、一体、どうしたものなのだろう。
 訳の分からない直感というか思い込みの中で、緑が溢れる光の中でその色を濃くするのは分かるような気がするが、花がその彩りを鮮やかに保てるというのは、不思議な気がしたりする。
 花が可憐だというのは、事情を知らない者の勝手な思い入れに過ぎないのか。弱き者よ、汝の名は女なりと思っていたら、案外どころか、とんでもなく逞しかったりするように、華奢そうな花びらの、その実の光に貪欲な本性が、見かけのたおやかさやしなやかさ、触れなば落ちんという風情の陰に潜んでいるということなのか。
 人間や動物等は、全身が毛に蔽われているか衣服に守られているか、そうでなくとも、耐えがたければ、日陰を求めて移動することもできる。
 が、植物は、ましてグリーンベルトとして使われている街路樹となると、とことん、太陽からの放射線をまともに浴びつづける。ともすると浴びすぎると致命的ともなりかねない紫外線が植物の身体を貫き通していく。身体を成す無数の細胞が光の洪水、過剰なまでの放射線の照射に悲鳴を上げているのではないかと思われたりする。
 なんとなく、見ている自分には、生身の身体がジリジリチリチリと焦げだすのではと思われてならなくなったりする。
 言うまでもなく、そんな勝手な心配など、まるで見当違いである。そんなことは分かっている。光との戦いの中で生まれ育ち生き抜いてきた植物なのだ。動物等よりはるかに殺気立ったほどの光の粒子の浸透・照射という環境に適合して生きているのだろう。
 我々の目を癒し慰め息わせてくれる緑。滴るような緑の、なんという豊かさ。光が満ち溢れてくれば、一層、緑は濃くなり深くなり、葉っぱの肉は分厚くなり、ひたすらに数十億年来の進化の過程で獲得した生きる知恵を発揮し発散し、この世を緑の知恵で満ち溢れさせる。
                          「ツツジの季節が終わる」(04/05/15)

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→ ほとんどのツツジが裏庭など、人の目に触れられない位置にある。なので、せめて画像だけでも見てほしかったのだ。

 それが、夜ともなると、車も少なくなり、走りながらでも赤紫色の妖しいツツジの花々が目に飛び込んでくる。
 特にその赤紫色は、深緑をベースにするから余計に際立つ。
 街灯やヘッドライトに照らし出されたりすると、闇の濃さと緑の深さと花びらの妖しさが言い知れない幻想を誘う。小生に小説を書く才能があれば、間違いなく、この独特の雰囲気を生かしたミステリーかサスペンスを書き上げようと思うに違いない。
 ツツジは、3月末から四月の初めにかけての桜の季節が終わるのを見計らうように咲き始める。道路脇に桜の花びらの、最初は淡いピンクの絨毯か帯だったものが、やがて乾き切り、色褪せ、埃に塗れ、茶褐色のゴミという憐れな末路を辿る頃に、そんな情ない光景などに目を向けさせるものかとばかりに、ツツジの花が咲き始めるのである。
                         「躑躅(つつじ)と髑髏と」(2005/04/25)

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