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2009/04/08

無限の話の周りをとりとめもなく

 ジョン・D.バロー著の『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社)という素敵な本に出会った。
 著者のジョン・D.バローは、「ケンブリッジ大学教授。天文学者、数理物理学者」とのことだが、文学や哲学にも造詣の深い人。

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← 沈思黙考してる? それとも、まさか、川に飛び込もうとか?

 なので、同じ物理学や数学の話をしても、随所に古今東西の文献などからの引用や連想(話の広がり)があって、読んでいてつい柄にもなく瞑想(迷想)に誘われてしまう。
 
 本書は、「無限の人数が泊まれるホテル。有限の時間で無限の計算ができるコンピュータ…。永遠に続く命。無限をめぐる論争で人生を失った人々…。宇宙論の第一人者が、物理学、数学、哲学、宗教など、あらゆる分野を経めぐり語りつくす、無限の知的興奮に満ちたサイエンス・エンタテインメント」といった本なのだが、まさに知的エンタテインメントの書なのである。

 この中の、「ホテル無限大へようこそ」という章の扉で、懐かしいクイズに出合った。
 懐かしいはやや大袈裟かもしれないが、初めてこのクイズを目にした時は戸惑ったものだ。

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→ ジョン・D.バロー著『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社)

 それは下記のような内容(多分、頭を少々悩ませた方も少なからずいるのでは。ヒント…どちらかといえば国語の読解力や注意力の問題かも):

 三人の男がホテルに入る。それぞれ一〇ドルずつ持っている。三人は、一泊三〇ドルの部屋を一つとる。しばらくして、本社からホテルにファックスが届き、一泊二五ドルにするよう指示がある。そこでフロントはベルボーイに五ドル渡し、これを一部屋に泊まった三人に渡すように命じる。ボーイは三人からチップをもらってないし、五ドルを三人に分けることもできないので、二ドルは自分でもらい、三人には一ドルずつ渡す。すると、三人は九ドルずつ払ったことになり、ボーイが二ドルもらっているので、全部で二九ドルになる。もう一ドルは、どこへ行ったのだろう。
        ――フランク・モーガン

 まあ、このクイズの答えを書くような野暮なマネはしまい。

 せっかくなので(?)、本書で引用されている、気の利いた文言を幾つか転記してしめす。
 多くは、きっとどこかで目にしたことがあるに違いない。

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← 仲良きことは美しきかな(って、誰かが言ってたね)。

 人が頭がいいかどうかは答えでわかる。賢いかどうかは問いでわかる。
            ――ナギブ・マフフーズ

 一粒の砂に世界を、
 野の花に天を見て、
 手のひらに無限を、
 いっときで永遠をつかむ
            ――ウィリアム・ブレイク

 あまり長い間深みを見つめていると、その深みがこちらを見つめ返してくる。
            ――フリードリッヒ・ニーチェ


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→ 冬の寒さに耐えて咲いていたけど、散るときは無惨。

 私はかつて天を測り、
 今は地球の影を測る。
 私の心は天にあり
 今は私の体の影がここにとどまる。
            ――ケプラーの墓碑銘

かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
            ――「コヘレトの言葉」(「伝道の書」)


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← ちょっと、たそがれてみました。ここまでは4月7日撮影。

この手紙を発掘するまでは、本が無限だなど、どうしてありうるのかと思っていた。推測できたことといえば、周期的、あるいは循環的な本で、その最後の頁が最初の頁と同じになっていて、どこまでも進めるのではないかということだけだった。『千夜一夜物語』の中の、シェヘラザードが、千一夜の話をあらためて逐一同じに話しはじめる(筆録者の何かの魔法のような妖気を通じて)夜のことを思い出す。この話をする夜にまたたどり着くことになる――そしてそこでまた同じことになって永遠に繰り返される――危険がある……ほとんど一瞬にして私はそれがわかった――岐路の庭はカオス的な小説なのだ。「いくつかの未来(すべてではない)」という言葉は、私には空間的にではなく、時間的に枝分かれしているイメージを呼んだ……そのたびに、人は枝分かれする選択肢に遭遇し、一つを選び、それ以外を除去する。崔奔の作品では、登場人物は――同時に――すべてを選ぶ。それによって、「いくつかの未来」、いくつかの「回」を想像し、それがまた増殖し枝分かれする。……知らない誰かが[憑(フォン)の]扉をノックする。……もちろん、いろいろな結果がありうる――憑は侵入者を殺すかもしれないし、侵入者が憑を殺すかもしれないし、どちらも生きられるかもしれないし、どちらも死ぬかもしれない。崔奔の小説では、すべての結果が実際に起きる。それぞれがさらに枝分かれするための出発点となる。そのうちその迷宮の道が集まってくる。たとえば、あなたはこの家にやってくるが、ありうるある過去では私の敵であり、別の過去では味方だ……
 互いに近づき分かれ、切り取られ、あるいは単純に何世紀も知られない時間の織物は、すべての可能性を含んでいる。その時間のほとんどでは、われわれは存在しない。ある時間では、あなたは存在しても私はいない。私が存在してあなたがいない時間もある。さらには、両方がいる時間もある。今いるこの時間では、偶然の手が私を存在させ、あなたは私の家に来た。あなたが庭を抜けて来ると、私が死んでいるのもある。またある場合には、私は同じことを言っても、誤り、幽霊だ……時間は、永遠に、無数の未来へ枝分かれする。その一つでは、私はあなたの敵だ。
             ――ボルヘス「八岐の園」

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→ 以下、4月5日に見物したチンドン大パレード画像。(「09チンドン大パレードへ」の続き)

神は過去を変えられないが、歴史家にはそれができると言われたことがある。もしかすると、神が歴史家の存在を許容しているのは、この点で神にとって役立ちうるからかもしれない。
             ――サミュエル・バトラー

私は、最も完璧な部類の合理的存在は、中心に近いところよりもそこから遠く離れたところの方にいそうなので、そこを探したいと思っている。理性を与えられた生物の完成度は、それが拘束される物質の質に依存するので、世界の知覚やそれに対する反応に従ってその生命に影響しそれを決定する、物質の細やかさに多くがかかっている。物質の惰性と抵抗は、精神的存在の行動の自由や、外部のものに関する感覚の明瞭さを大いに制限する。これがその能力を鈍く、甘くする。そのため、十分な装備をもって、外向きの運動に対応することがない。したがって、濃密で重い物質が自然の中心近くにあり、逆に、細やかさや軽さの度合いの高いものは、中心からの距離が大きいところにいくほどあるという、おそらくそうだと思われることを想定すれば、それに伴う結果はわかりやすい。理性的な存在は、その発生と居住の場所は創造の中心に近いところにあると、硬くて動きにくい物質にひっかかり、それが理性的存在の力を打ち勝ちがたい惰性に閉じ込め、理性的な存在自身も、宇宙の印象を、必要な明瞭さや容易さをもって伝えることができない。考える存在がこのようになっていると、それは低い分類に属するものと見なさざるをえないだろう。逆に、宇宙の中心からの距離が変わるとともに、精神の世界の完成度は、物質への依存度が違うため、延ばした梯子のように上へと延びていく。……生命はさらに続いて、無限の時間と空間を、無限へと向かう思考について、言わば一歩一歩、決してそこに達することはなくても、神の至高の高みという目標に近づいていく、いろいろな完成度のもので埋めているかもしれない。
             ――イマヌエル・カント「天界の一般自然史と理論」

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時間が魂とどう関係しているか、時間は、陸海空、いずれにあるものでも、すべてにあるように見えるのはなぜか、これは調べてみる値打ちがある。……魂がなくても時間は存在するのかどうか、問う人がいてもおかしくない。数える人が存在しえないと、数えられるものもありえず、数もないのは明らかだ。数は数えられるものであるか、数えることができるものか、いずれかだからだ。魂でも魂の精神でも、数える力をもったものがいなければ、その魂がなくて時間が存在することはありえず、変化は魂の中に存在しうるものだとすれば、時間の土台だけがある。
             ――アリストテレス『自然学』


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ガリバーの第三の旅は、ラピュータ、バルニバービなどの島々へ向かう。その中のある島で、『永遠に生きる』ことを運命づけられた希少な変異体、ストラルドブラグ人のことを知る。ガリバーはその考えに刺激され、自分がそのような幸運に恵まれていたら、どうするだろうと想像をめぐらせる。しかしストラルドブラグ人は年をとり、年齢から来る不都合をすべて受け、老いの特権は(不死でない子孫のために)否定される。ストラルドブラグ人は、いちばん不運な人々で、時代にも、友人にも、若い頃の言葉にも取り残され、年齢による苦痛と屈辱はすべて受ける。何かの財産を所有できるとしたら、それを貪欲に、はっきりした使い道がある範囲を超えてためこむだろう。……[しかし]永遠に生きることは、根本的に間違っているのだろうか。健康や良識といった通常の利点が加わってもだめか。
 それよりもずっと深刻な問題は、孤独な不死の人は、ずっと友人や家や文明を失っていくということだ。スイフトのストラルドブラグ人は、後から生まれた不死人とやりとりすることもできない。その母語は、がらりと変わってしまっていて、年をとると、新しい言語を学ぶ力もない。……友人、家族、なじみの世界はどうなるか。もしかすると不死人は、とくに互いどうしの仲間関係を維持しなければならないかもしれない。はかない命の人々は、不死人の関心を長くは維持できない。あるいは不死人は、互いの習慣に、だんだんいらついて何万年もすごす、最悪の一党なのだろうか。……不死であること以外には、お互いに共通のものはない[ことを不死人は見つけるかもしれない]。不死人は、死ぬしかない人々を育て、なじみの一帯を埋め、自分がかつてよく知っていたようないい例でまわりを固めるのだろうか。どの人がその役割を達成することに気づくだろうか。あるいは……別の深刻な問題、つまり退屈が発生することを気にするだろうか。なじみのものとはいえ、うんざりするほど同じ、この終わりのない過ぎ去る時間を埋められるのは何か。また別の不死人の集団を取り上げてみよう。『暇つぶし』以上のことをするほどの関心を何か見つけられる者は、ほんのわずかだろう。筋が通った暮らし、健全な暮らしは送れない。それ以前にあらゆることを何度もしているので、何事もするに値しない。
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          ――ステファン・クラーク(SF作家)

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